<証道歌>
達磨大師を中国禅の祖とするならば、6代目の大鑑慧能禅師の頃仏教は花開き、五家七宗と言われる現代も一部続く系譜の基礎ができたと言われています。その慧能禅師に参じて一日で悟りを開いたと言われているのが「証道歌」の作者
永嘉玄覚大師です。一日で悟りが開かれるのか? 忘我はあったのか? 疑問に思われるでしょう。悟りとは、その人にとって一番大きな観念が失われた時にふいに訪れます。観念=実在しないものであるにもかかわらず、あるような気がしていたものが一気に失われる。
自分という観念が失われれば忘我がある。そりゃそうでしょう、見る人がいなくなるんだから。
永嘉大師の場合は生死だと言われています。自分とか神とか仏とかそういうものじゃなくて、永嘉大師の場合は生死だったんです。これがあるような気がしていて気持ち悪くてどうしようもなく、諸山遍歴、師を求めて必死の行脚があったんです。
慧能禅師との会話の中で生死という観念が足を払われたんです。生死さんひっくり返ったと同時にぱっと消失。
それで何が残るのか? あるものだけです。五感の領域と思いだけ。思いの中味が一気に失われるんです。
その人にとって一番の親分が死ぬということは、それ以下の観念がすべて一気に討ち死にするんです。
全くもってあるものだけ、になっちゃうことを悟りと言っています。
ですから必ずしも忘我が無けりゃならんかというとそうじゃない。
大事なことは、その人にとって後生大事な人生のすべてをかけた一番大切なものが失われたかどうかということなんです。
中途半端をやっているとこういうことは起きない。そいつがミソです。
君見ずや、絶学無為の閑道人。妄想を除かず、真を求めず、無明の実性、即仏性、幻化の空身、即法身。
(きみみずや、ぜつがくむいのかんどうにん。もうぞうをのぞかず、しんをもとめず、むみょうのじっしょう、そくぶっしょう
げんけのくうしん、そくほっしん)
私達が生きているのはたった今です。本当に刹那だけれど、どうやったってたった今にしか生きていない。五感の領域はまさにたった今。思いだってたった今にしか起きていない。思いそのものはたった今だけれど、中味はたった今のことじゃない。だけど便利だからそれを用いることはある。しかし思いの中味がたった今にあるような気がしていると、それに影響される。学ぶべき対象になるような気がする。ある思いの為に何かをしなければならないということが起きてくる。思いの中味があるように思っている人の所業です。悟りとは、あるような気がしている思いの中味が失われることなんです。もともと思いの中味は、過去の記憶や観念で、実在する事じゃない。それがただ元の姿に戻っただけです。ですから基本絶学無為です。必要な時に用いるだけの道具というわけです。
必要な時に用いるだけで、思いに用いられてあたふたするということはないものだから、基本閑か(しずか)です。
悟り開いた人は間違った思いを出さないって、誰がそんな出鱈目を言ったのでしょう。
思いの中味の真偽を言っていません。それがあるように思っている人と、そうじゃなくなった人の違いがあるって言っているんです。思いの中味があると思っている人にとっては、間違った思いがあるならば、それを消しゴムで消さなけりゃならないと思うでしょうし、真実なるものがあればそれを求めなけりゃならないと思うでしょう。すべて幻です。
無明の実性って、確かに間違った思いがあったってことです。
仏性って必然と読み替えて下さい。
幻化の空身って、今自分の身に起きていることは刹那だっていうことです。
法身って実際の姿と読み替えてください。
法身覚了すれば無一物、本源自性天真仏。五陰の浮雲は空去来、三毒の水泡は虚出没。
(ほっしんかくりょうすればむいちもつ、ほんげんじしょうてんしんぶつ。ごおんのふうんはくうこらい、さんどくのすいほうはきょしゅつぼつ)
自分の本当の姿を自覚し終われば、自分というものがないって言っています。般若心経にある無眼耳鼻舌身意というのは簡単に確認出来ます。ただし、理科の教科書を持ってきて説明しないこと。あなたの身に起きている事だけを確認すること。景色はあったって目はない。音はあっても耳はない。匂いはあっても鼻はない。味はあっても舌はない。触感はあっても体はない。思いはあっても脳みそ(心)はない。時に自分という思いがあるだけ。
さて、ここまでは自覚の領域。覚了というのは自覚が終わると言うこと。これは何を意味するのかといえば、鏡に映っているあなたと長年信じてきているその人に、自分 という思いをくっつけたでしょう。本来は別々の景色と思いをくっつけてイコールにしちゃった。べつべつのもんです。その証拠に鏡に映っているその人が自分と思っているという自覚がない。思いは思いだけ、景色は景色だけなんです。色声香味触法というのは思いの上での説明なんです。
一切の存在と思いの連結が解消されれば、自分という思いは自分という思い、以上。自分という何かがある、ということはない。
本源自性天真佛、ずいぶんとものものしい言い方ですが、存在と思いの連結が解消された全くもって素の世界ってことです。こいつをどうしても一度体験しないとならんのです。こいつを体が知れば、存在と思いを便宜によってどうくっ付けようが自由自在。思いに振り回されるということがなくなります。
五陰とは般若心経にある五蘊と同じ、色受想行識のこと。つまり一切の存在と人間の意識の働き全てっていうことで、要はあなたの身に起きているすべては刹那ですよ、三毒といわれる貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(真実をしらない)もそうだよって言っています。ここで大事なのは、自分 っていうのがあると思っていると、一切の去来に自分が関係しているように思ってしまう。貪瞋痴みたいにろくでもない思いが起きてくると自分の責任だと思ってしまう。刹那の実際を知らずに、既にないものを消しゴムで消そうとしたりする。反省して似たような思いが出てこないようにトレーニングはできないもんかとなってくる。
こういうのを迷うって言うんです。
実相を証すれば人法無し、刹那に滅却す、阿鼻の業。若し妄語を将って衆生を誑かさば、自ら抜舌を招くこと塵沙劫ならん。(じっそうをしょうすればにんぽうなし、せつなにめっきゃくす、あびのごう。もしもうごをもってしゅじょうをたぶらかさば、みずからばつぜつをまねくことじんしゃごうならん)
実相ってありのままの姿っていうことです。畳か時計の音か若葉の香りか味噌汁の味か尻の下の坐蒲の感触か思いかいずれかひとつ。証するとは、それだけであるということ。それだけでない何かがあるとするならば、それは思いの中味があるように勝手に思っていること。思いの中味を失うことを証すると言っています。
ですから人=自分も、法=仏の教えも、思いの中にだけあって実際には存在していないって言っています。
プライドを傷つけられたとか言って裁判を起こして騒いでいるような苦しみとか、悟り欲しいよーって言っている飢えの苦しみとか、生き死にがある恐怖とか、そういう阿鼻叫喚の苦しみが瞬時に失せる。永嘉大師、ご自分の慧能禅師との対話での出来事を述べていらっしゃいます。瞬時に失せるったって、もともと無いことなんですから。ありのままっていうのはあるやつだけっていうことで。
嘘ついたら閻魔様に舌引っこ抜かれるぞーって言うけれど、俺嘘なんか言ってないもんねー!なんたって有ることしか言ってないもん。
確かに畳っていう言葉と実際の タタミ は関係ないし、微妙で刹那には違いがない。有るっていうのは人の意識の上のことだし。だけどたった今の一点において意識が描き出すのはたったひとつのみ。それはもう絶対に確かなことなんです。二つ無いんだから。嘘を言うことができない。
頓に如来禅を覚了すれば、六度万行体中に円なり。夢裡明明として六趣有り、覚めて後空空として大千も無し。
(とんににょらいぜんをかくりょうすれば、ろくどまんぎょうたいちゅうにまどかなり。むりめいめいとしてろくしゅあり、さめてのちくうくうとしてだいせんもなし。)
頓に如来禅を覚了すとは、刹那に滅却す阿鼻の業と全く同じこと。如来とは来るが如しと読むけれど、来るとはどこからどこへ来るという二つ要素がないと成り立たない言葉。いくら刹那でもたった今に認識できるのはたったひとつのみ。二つないんです。ですから在るが如しと読み替えて下さい。
我々にとって在るのは五感の領域と思いのみ。思いは在っても思いの中味があるわけじゃーない。過去や観念が畳のようにあるわけじゃーない。在るが如しとは在るやつだけってことです。思いの中味が在るように思うといじれるように思う。手を加えられるように思う。だけど実際はないもんだから出来ない。出来ないことを出来るように思って延々とやり続ける。これを阿鼻の苦しみと言うんです。
覚了すとは、思いの中味が在るように思えていたのが、そーいうことがなくなるっていうことです。
六度万行とは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つの修行という仏教用語です。体中に円とは、それらが自然に出来ているっていうこと。この六つを細かく紐解くよりも、無いものに影響されなくなると、いらんことをしなくなる。そうすると人に本来備わっている生きる力みたいなのが発揮されてくるよ、って言うのが簡単な解釈です。
夢裡とは思いの中味。これがあると思えば輪廻の六世界もまた明らかにあるように思えてしまっている。いいですか、時計はいつだってひとつしか音を出してないでしょう。過去があるから数がある。
覚めてみれば三千大千世界といわれるほどの様々な様子もありゃしない。たったひとつっきり。空空=在在。たったひとつっきり以外に何も無し。清清=空空。
罪福も無く損益も無し、寂滅性中問覓すること莫れ。比来の塵鏡未だ曾て磨さず、今日分明に須らく剖析すべし。
(ざいふくもなくそんえきもなし、じゃくめつしょうちゅうもんみゃくすることなかれ。ひらいのじんきょういまだかつてまさず、こんにちふんみょうにすべからくほうしゃくすべし。)
我々の脳みそはたった今にたったひとつしか映し出さない。良いって言うのは良くないっていうのがあるから言えることです。良いって言う人は過去があるんです。悪いって言う人は過去があるんです。で、過去なけりゃ良いも悪いも得したも損したもないでしょう。寂滅って、過去も観念も失せるという意味ですし、そういう事実のなかに=性中、問覓=尋ねるに、あるもの以外は何も無しっていう馬鹿馬鹿しいほど当たり前の事実に気がつくっていうことです。
慧能禅師伝法の逸話に、先輩の神秀上座は明鏡の上の塵を払うのが修行だと言った。当時米つき人夫だった慧能は、たった今はひとつっきり。払うべき何物も無しと言った。これを聞いた師匠の弘忍禅師は慧能を後継者と定めたというものです。
慧能禅師は自分を鏡と認めるなんてことないよ、思いの何かを指して塵って認めるなんてないよって言っています。こりゃあ、たった今以外に鏡があり、塵があるっていう人と、たった今ひとつっきりっという人と厳然と違うということなんです。
比来の塵鏡って、近頃の塵が積もった鏡っていう直訳ですが、永嘉大師ご自分のことを言っています。ですから、俺はさーっ、鏡なんか磨いたことないぜー、が正しい意味です。たった今以外に鏡なんて理想郷持ってる奴、今ここでそいつをたたき割れー!剖析ってたたき割るって意味です。
誰か無念、誰か無生、若し実に無生ならば不生もなし。機関木人を喚取して問え、仏を求め功を施さば早晩成ぜん。
(たれかむねん、たれかむしょう、もしじつにむしょうならばふしょうもなし。きかんぼくじんをかんしゅしてとへ、ほとけをもとめこうをほどこさばいつかじょうぜん)
無念、無生とは、意識の上に何物も描かれないことを言います。かたや不生とは、生ずることを否定する意識の上での説明なんです。生ずるとは、過去という意識の中味があるように思えているからこそあるわけです。たった今しかなければ、生ずると言うこともないという理屈です。この理屈は正しい。正しい説明です。しかし説明は意識のうえでの話です。では仏教は意識のうえでの
話なのかというとそうじゃーないんです。この体が生きているのはたった今だからです。
この前文でありましたが、鏡という理想郷をたたき割った結果、言葉の指し示すものすべてを失うんです。観念と過去の記憶の中味を失うんです。もともと、両方ともありゃしないものじゃないですか。理想、生死、悟り、そして自分。人にとって一番大事なものを失うんです。
自分があると、立派な自分になりたいという執着もあるから、坐っていても今の様子が気になる。眺めて説明して良い悪いの判断
を言いたくなる。ですが自分というのが本当に無ければ、良し悪しは言わなくなるし、説明は必要な時だけにする。坐る時は誰かに説明する必要がない。さらに眺める必要すらない。まったく眺めると言うことが無いと、意識の上に何も描かれないときがある。
これを無念、無生って言っています。五感の窓から情報は脳味噌に到達してはいるんでしょうが、脳味噌スクリーンに何も描かれない時、忘我とか言っています。
どうしても観念が死にきらないと、正しい説明の中に真実があるという方向に進んでいっちゃいます。ですが、すべての存在は「説明以前」にあります。自分の本当の姿はわからないのです。人は「正しい説明」VS「わからない」となれば大概の人は「正しい説明」のほうに軍配を上げちゃうんです。
仏を求め功を施すという意識の上での正しいことをいくらやっていても、ダメですよ。そりゃー仏教じゃーありませんよっていうことを皮肉を込めて、木の人形に悟りを求めて修行すれば、あなたはいつ成仏するのかって聞いてみろって言っています。
私の師匠の雪担師の遺言は「知らない人になってください」でした。
四大を放って把捉すること莫れ、寂滅性中随って飲啄せよ。諸行は無常にして一切空なり、即ち是れ如来の大円覚。
(しだいをはなってはそくすることなかれ、じゃくめつしょうちゅうしたがっておんたくせよ。しょぎょうはむじょうにしていっさいくうなり。すなわちこれにょらいのだいえんがく)
四大とは地・水・火・風のこと。この世の一切は絶えず変化していてつかむことができない。寂滅性中=そういう性質に随って生きろよって言っています。正しい説明です。でっ、実際もそうですから。えっ、実際ってわからないんじゃないの?
そう、わからないんです。大事なことはこのわからないことってやつを、あなたの体の上で一度体現するっていうことなんです。本当は誰の体の上にもこのわからないことっていうのは常に体現されているわけなんですが、人はその後の説明が事の真相だと思っている。まあ無理はない。わからないことはわからないから。つまり影が真相だと思っている。こういう観念生活を続ければやがて、影が実物であると勘違いするようになる。観念や過去が、ある っていうふうに思えてしまうっていうことです。これを迷いと言います。すべての不都合はこの迷いから生じます。
普段、わかることの上にしか生活が成り立っていないと思っている人が、坐禅という人の工夫によってこの わかる を失うんです。わかる=この世のすべて を失ってなおかつ生きていた奴=ほんとうの自分に初めて出会うんです。
してみて初めて、諸行は無常にして一切空なり、即ち是れ如来の大円覚っていう説明が、説明に落ち着く。
わからないが真相だけど、それだけだと人に伝えられない。どうしても説明が必要になる。だけどしょせん影、道具っていう本来の地位に落ち着いているから、説明に迷うことがなくなる。
決定の説は真僧を表す、人あり肯はずんば情に任せて懲せよ。直に根源を截るは仏の印する所、葉を摘み枝を尋ぬるは我能わず。(けつじょうのせつはしんそうをひょうす、ひとありうけがわずんばじょうにまかせてちょうせよ。じきにこんげんをきるはほとけのいんするところ、はをつみえだをたずぬるはわれあたわず。)
決定とは悟りと言ってもいいけれど、要はその人にとって最も大事な観念を失うことを言います。こりゃあもうはっきりしています。話すことがなくなりますから。最も大事なものを失うとは、それ以下もろもろの観念すべてが討ち死にするんです。あるものだけになる。必要があれば話はしますが、なけりゃあるがまま。迷いも悟りもないあるがまま。
迷いなければ元気が出ます。それを人に知ってもらいたいと思う。人間て人それぞれでありながら、元気で余分をしない。余分とは迷いの導き出すものです。これが本来の姿。情にまかせて訴えかけてごらんなさいと。
悟りに段階なんかありません。一切の観念を失ったか一切の観念があるか、どっちか一つです。いや、俺は苦節何十年、余程の観念とはおさらばした、なんて盆栽の枝振りの品評会じゃあるまいし、一事が万事です。ある奴は全部あるんです。むしろ仏教やったぶんだけいらんものを背負い込む。ストイックな修行者を演じたり偉そうになったり人に道を説いたり。
あるがままって話すことがなくなるってことですから。
うーん、この単純をものにしてもらいたい。
摩尼珠人識らず、如来蔵裡に親しく収得す。六般の神用空不空、一顆の円光色非色。
(まにじゅひとしらず、にょらいぞうりにしたしくしゅうとくす。ろっぱんのしんようくうふくう、いっかのえんこうしきひしき)
摩尼珠とは摩訶不思議の宝の玉という意味ですが、例えば、私達の口の中のような狭いところでよくも舌を噛まずに食べ物だけ噛んでいるということであり、よくもちゃんと立って歩いているということを指しています。これらをAIを組み込んだロボットでやろうとしたらとんでもなく大変なことです。ですから宝の玉と言っています。そしてそれらを行っているのは、自分という意識が命じてやっているわけではない。ですから人知らずです。
如来とは来るが如しと読む。ここも自分という意識の関わっていない処です。
自分という意識の関わっていない超絶な働きが、ただあるって言っています。
六般とは六根=眼耳鼻舌身意と、それに対応する六境=色声香味触法の一体となった作用ということです。
神用とは妙なる作用という意味。それらが空だというのは、その超絶な働きをしている人が見当たらないということです。そう、あなたという意識が命じたもんじゃなければ、誰がそれをやっているんです?
わからんじゃないですか。そして、わかるとかわからんとか言ってそれらを眺めて表現している以前にそれらの働きがあるっていうことを不空と言っています。
一顆と摩尼珠は同じ意味。円光と神用は同じ意味。空不空と色非色は同じ意味で使っています。
五眼を浄うし五力を得、唯だ証して乃ち知る測るべきこと難し。鏡裡に形を看る見ること難からず、水中に月を捉う争でか拈得せん。(ごげんをきようしごりきをう、ただしょうしてすなはちしるはかるべきことかたし。きょうりにかたちをみるみることかたからず、すいちゅうにつきをとらふいかでかねんとくせん)
五眼には肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼という仏教用語の説明があります。五力には信・精進・念・定・智慧という説明があります。私は現代に生きている人間には現代の言葉の方がわかりやすいと思いますので、基本的に仏教用語を使うことには賛成ではありません。五眼を浄うしというのは、説明の中味が実在しないということが手に入ってから物を見るということです。今身に起きている事に眺めて説明するという思いの働きが付随するときに、思いの中味を失ったことのない人がこれをやると、今経験したことが違うものに置き換えられてしまうんです。目の前の畳が違うものに置き換えられたら混乱するし迷ってしまうでしょう?不都合です。畳という実物とタタミというイメージは全然別のものということに落ち着いた人は、タタミというイメージは単に伝達のための道具という本来のあるべき位置に落ち着いているので悪さをしません。畳という実物が何者にも置き換えられることなく畳としてあるのです。これが五眼を浄うしの意味です。
五力を得というのは、たった今にあるのがたった一つきりという人は迷えません。いま身に起きている事が良かろうが悪かろうが迷うことが出来ないんです。たった今に対処するだけっていうやつ。こういうのを元気というんです。迷えない分だけその人の能力がフルに発揮される。例えばそういう人のお経の声は、イメージに混乱させられている人の声に比べて全くもって元気です。飾りっ気なしで元気なんです。
だけどそういう元気は、眺めて説明するっていうのが主人公のうちは手に入りません。実在しないことが実在するような感じを持っていればそれに影響されるからです。無いことに影響されていれば、そりゃー元気でなくなります。
そいつをご自分で体現してみてくださいな。=唯だ証して。眺めて説明して=測る、指標を立てて実行した結果元気になったんじゃないのがわかるから。
自分の身に起きていること=鏡裡の形は明々白々です。ですが説明の中味=水中の月、は実在しないことだからつかむことなんかできません。
常に独り行き常に独り歩す、達者同じく遊ぶ涅槃の路。調べ古り神清うして風自ら高し、貌顇け骨剛うして人顧みず。
(つねにひとりゆきつねにひとりほす、たっしゃおなじくあそぶねはんのみち。しらべふりしんきようしてふうおのずからたかし、かたちかじけほねかとうしてひとかえりみず)
思いの中味があるような気がしていると、何をしていても他に何かあるような気がしています。理想がどこかにあるような気がしている。悟りがどこかにあるような気がしている。だんだん自分が不完全なような気がしてくる。なにか修行をしなければいけないような気がしてくる。こういうのを2人連れって言うんです。
2人連れとは言うものの、本当は思いを発するときにはその思いだけしか認識していないはずだから、2人連れってことはないんですが。思いの発せられるスピードにだまされて、たった今の他に同時に何かあるような気がしているだけなんですが。
ですから、どんな思いの中味でも、もう開き直って堂々と迷っていりゃいいんですよ。ろくでもない思いだけ。情けない思いだけ。納得しない思いだけ。誰でも、いついかなる時も、常に独り行き、独り歩すってことしかしていないんですよー!
でっ、なんでこれで落ち着かないんだろう?
やっぱり、思いの中味はどうであれ、それがあるっていう間違いだけは直して下さい。思いの中味は、どんなものでもたった今にはないものでしょう。だけどそれが、たった今以外にあるって思えちゃうんですねー。たった今以外に思いの中味があると思うということは、自分があったり、悟りがあったりするっていうことなんです。ないものを守ったり、求めたりしなきゃならなくなるっていうことです。こりゃあ辛い。なぜか?
出来ないことをしようとしているからです。そんな無駄なことおやめなさい。
思いの中味はもう本当にどんなんでもいい。それがあるっていう間違いだけ直せた人を達者と言うんです。
涅槃の路とか、神とはこの場合心のことですが、神=心清うしてとか、風情高しとか、何かりっぱなもの想像させますが、りっぱなものはひとつもありません。たった今にたった一つだけというシンプルをただこんな風に言っているだけです。
思いが描き出す中味なし、ということを体験した人の思いはただ思いだけ。五感の領域と思いとその何か一つだけ。迷いも悟りも
ないもんだから、ついこんな風に言っちゃう気持ちはわかりますけれど、何か立派なものを想像させる言い方は賛成できません。
自分という架空を失っている人は、だいたい自分のことなんかどうでもいいんです。だから風貌のことどうでもよろしい。
窮釈子口に貧と称す、実に是れ身貧にして道貧ならず。貧なれば則ち身常に縷褐を被す、道あれば則ち心に無価の珍を蔵む。(ぐうしゃくしくちにひんとしょうす、じつにこれみひんにしてどうひんならず。ひんなればすなはちみつねにるかつをひす、どうあればすなはちこころにむげのちんをおさむ)
釈子とは仏弟子のこと。経済的に貧窮な仏弟子は、昔から自分の事を貧道などと言っていました。身は貧しくとも道は貧しくありませんぜ。身は貧しいから縷褐=ぼろきれをまとっているけど、価格を付けられないほどの宝を持っているんだよ。
昔も今も娑婆の世の世過ぎは、過去の経験値の量り売りや、人の約束事や印象上の効果を商売にしてみたりとか、たった今にないものを糧にすることも結構ありますよね。本当においしいものや、いいものだけ作っていれば生きていけるというほど、人間の社会は単純には出来ていない。思いの中味がないってことわかってもらうに、それを取り扱っていたんじゃあしょうがないから、おまえ仕事やめてみろ。自分なんて架空のもの離れるに、かっこつけた髪の毛いらん、りっぱそうな着物いらん、丸坊主でぼろ衣まとっておれ。生きていくに最低限のものだけ人様からいただいて、おまえは最低限の生活だけできればいい、と言って釈尊や道元禅師は出家集団を作られた。これやり切った人達は本当にすごい。そしてそれなりの成果があった。後に続く人が出たのだから。
私自身はこの出家=貧という形は本質的なものではないと思っています。何故かというと、形を保っていれば悟りが開けるという間違いを修行と勘違いする人が出てくるからです。こういう間違いをする人はその心根の底に、自分立派になりたいという よこしまから出発していることが大半です。自分失いたいのに自分に栄養分をやっているようじゃあどうしようもない。
結局修行の本質は形じゃなくて、その人の心根の問題です。覚悟の問題です。
坐禅という形は大事です。全くもってただそれだけ、でいられるのは坐禅が一番です。ただこれも、坐禅をすれば悟りを開ける、となった瞬間から坐禅ではなくなります。大間違いなのです。坐禅は坐禅です。たった今はひとつっきりなのです。
無価の珍は用うれども尽くること無し、物を利し縁に応じて終に怯まず。三身四智体中に円かなり、八解六通心地に印す
(むげのたからはもちうれどもつくることなし、ものをりしえんにおうじてついにおしまず。さんしんしちたいちゅうにまどかなり、はちげろくつうしんちにいんす)
珍=宝と言って特別な能力のことではありません。能力のある、なしの話ではないのです。その人の能力がフルに発揮されます、ということを言っているのです。理由は迷いがないからです。思いの中味を失ったおかげで、思いが出てきても、思いが描き出す何かというのがないから、他に何かあるような気がしないから、その思いひとつっきりでいられるから、迷いがないのです。
思いの中味の善し悪しとか、能力の有る無しとかじゃないというのがわかるでしょう。まったくもって思いを道具として使うことが出来るということです。だから考えるときも実にすっきり理路整然と考えられる。
五感の領域にいる時、何か後ろ髪を引かれるような、他に何かあるような気がしないから、実にそのものズバリ。
そのうち自分の体の五感の領域関連の細胞が活性化してくる感じ。あるとき景色のあまりの微妙・鮮烈に驚く、感動する。過去悟り開いた和尚さんの記録にある満腹・サッパリ感と同一なるを知る。
さて、我々の経験するすべては、その物と自分とが一体になったものです。自分という生きものスクリーンに描き出された物しか我々は見ることが出来ないんです。ですから当然描き出された物と自分とが両方うまくいくように行動しますよ。物と自分と二つべつべつにあって言っている話じゃないことはわかってください。
三身とは法身・報身・応身。四智とは大円鏡智・平等正智・妙観察智・成所作智。
八解とは八つの解脱、六通とは六つの神通力だそうです。
説明というのは方便ですから、分かりやすくないといけません。分類もこういっぱいあっては煩わしい。なんたって、思いの中味はないっていうこと腑に落ちてもらうために説明しているんですから。
上士は一決して一切了ず、中下は多聞なれども多く信ぜず。但だ自ら懐中に垢衣を解く、誰か能く外に向って精進に誇らん。(じょうしはいっけつしていっさいりょうず、ちゅうげはたもんなれどもおおくしんぜず。ただみずからかいちゅうにくえをとく、たれかよくほかにむかってしょうじんにほこらん)
上士とは、たった今以外にないよって聞いて、おーっ本当にそうだなーって言って、直にとん、とそこに落ち着く人。だけどそんな人は見たことがない。私もそんなんじゃありませんでした。中下の人はたった今以外に何かあるような気がしている人です。つまり、自分があるように思えている人です。気をつけなければいけないのは、ここを出発点にしてはダメだということです。元来ないものを出発点にすると、次もまたないことをせざるを得なくなるのです。たとえば、何かをして、修行のようなことをして、自分あるという思いを退治しようとすることとか。どんな思いでも終わればないもの。ないものをどうやって退治したり、反省の材料にしたり、改良を加えることができるのか?
こうして果てしもない夢の中をさまよい歩かなければいけなくなってくる。
法華経の中の故事にこんなのがあるそうです
あるとき、ある修行僧が昔修行道場で一緒だった仲間とばったり出会った。彼は師匠が示した宝石というのを今も探し求めて諸国遍歴をしているそうな。「あれっ?
俺はその宝石、おまえの衣の襟の中に縫い込んであると聞いてたぜ」早速調べてみたら、あった、あった。なんと、てめえのうちにあったとさ。
結局たった今以外にものを求められないことを知るしかない。ばからしいほど当たり前の話だ。さらに言えば、あるのを求めるとは一体何だ? あり得ない話だ。だから求める人は間違っている。求める人はたった今以外に何かがあると思っている人だ。いいかげん目を覚ませ。
他の謗するに従せ他の非するに任す、火を把って天を焼く徒に自から疲る。我聞いて恰も甘露を飲むが如し、銷融して頓に不思議に入る。(たのぼうするにまかせたのひするにまかす、ひをとっててんをやくいたずらにみずからつかる。われきいてあたかもかんろをのむがごとし、しょうゆうしてとんにふしぎにいる)
誹謗中傷と言われる思いの特徴は、今に役立てることができないことです。言いがかりと言われる種類の思いは、観念や過去が本人には ある と思えているので、それを話し、問題ににし、解決をせまったりするのですが、もともと無いものだからどうにもしようのないことなんです。無いものだって無いと分かった上で、より良い今に役立てればいいだけの話となれば、人の話なんか実にシンプルにおさまります。
無いものを有ると勘違いして右往左往すれば疲れます。解決がないからです。
本来無いものが無いに収まっている人には、あーあーっ、気の毒にとなります。
銷融とは、すぐに消えてという意味ですが、思い描くものが、有るように残るっていうことはないよって言っています。
頓とはたった今。不思議とは思議にあらずと読むのです。
悪言は是れ功徳なりと観ずれば、此れ即ち吾が善知識と成る。訕謗に因って怨親を起さざれば、何ぞ無生慈忍の力を表せん。(あくごんはこれくどくなりとかんずれば、これすなわちわがぜんちしきとなる。せんぼうによっておんしんをおこさざれば
なんぞむしょうじにんのちからをひょうせん)
たとえ自分が有る無しの議論から卒業したとしても、人のひっかかりの有り様は本当に千差万別。人の数だけある。ひっかかりの有り様を学ばなければいけない。そうでないと、人を効果的に導くことができない。訕謗とは自分に対する誹謗中傷ですが、自分に対して悪口を言う人を恨んだり、おべんちゃらを言う人に親しくしたり、そういうことは起きないよって言っています。何故なら、それを言う人には有るように思えている物が、言われるこっちにはないからです。
慈忍とは慈悲の心を起こし、忍従の力を発揮するということですが、そんなことすら起きえないよって言っています。
こういうことが出来るには、本当に有る無しの議論を卒業しなければなりません。有ると言ってりゃ元からダメ。無いと言っている人、そもそも議論しているってこと自体やっぱりあなたには有るんです。議論するには対象が必要でしょう。その対象があなたには有るんです。きれいさっぱり卒業してください。議論できない人になってください。
宗も亦通じ説も亦通ず、定慧円明にして空に滞らず。但だ吾れ今獨り達了するのみに非ず、恒沙の諸仏体皆な同じ。
(しゅうもまたつうじせつもまたつうず、じょうええんみょうにしてくうにとどこおらず。ただわれいまひとりたつりょうするのみにあらず、ごうしゃのしょぶつたいみなおなじ)
宗とは最も大切なこと、思いの中味が有るような気がしていた、から卒業することです。これ仏教の要です。中途半端はあり得ません。全ての観念と過去の残像が討ち死にしないとダメなんです。あなたの一番大事な物を失うことです。一事が万事といいますが、それこそ一死が万死です。
さて、そうしたら今度は多くの人に出会って学ぶことです。死んで初めて人の引っかかりがわかるのですが、人の数だけあるのです。大勢の人の引っかかりに触れていくうちに、そこからの脱却の仕方のようなものをだんだんと示せるようになる。人に説くのですから人から学ぶんです。
こっちに何か示す物があって伝えるために説くのと違います。空という議論の対象になるような物を何一つ持たずに、人の様子からおかしいよっていう物だけ示すのです。
それでこれは私独りの有様ではなく、過去の仏といわれる数え切れないほどの先輩方も皆同じだよと言っています。
過去の祖師方も知らずにそんなこと断言できるんかい?と思われるでしょう。
間違いなく同じだと断言できるものがあるんです。
理由は鳥の声が鳥の声のようにあるからです。他に無いんです。
獅子吼無畏の説、百獣之を聞いて皆な脳裂す。香象奔破するも威を失却す、天龍寂かに聴いて欣悦を生ず。
(ししくむいのせつ、ひゃくじゅうこれをきいてみなのうれつす。こうぞうほんぱするもいをしっきゃくす、てんりゅうしずかにきいてごんえつをしょうず)
無畏とは恐れることがないという意味。恐れることがないというのは迷いがないからです。迷いがないというのは明々白々の真上に立っているからです。五感の領域は文字道理明白そのもの。思いも実は物理的な性質は五感の領域と何ら変わりはないのです。
刹那には違いがないけれど、たった今に確かに電気信号があった。間違いなくあった。
ただ、迷っているような気がしている百獣さんたちにしてみると、思いが描き出すものがあるような気がしている。
あるような気がしていると、いじれるような気がする。実際には、ないものはいじれない。出来ないことをしようとすれば、そりゃー脳みそ破裂しちゃいますよ。
もうひとつ脳みそ破裂しちゃいそうになるのは、明々白々なたった今以外に同時に思いが描き出す何かがあるような気がしていると、文字どうり迷っちゃいます。たった今が二つあるような気がしているからです。常に何かを気にしながら生きていないといけない。辛いことです。元気を失います。
ですけどね、たった今は誰にとってもひとつしかないんです。二つ無いんです。脳みその反応スピードにだまされて二つあるような気がしているだけです。あなたは間違っている。
間違ったまま生きようとすれば、現実から離れているぶん乱暴になる。野蛮になる。危険な人になる。この様を象が暴れている=
奔破すると、たとえて言っています。
そんなろくでもない百獣や暴れ象も、ごくシンプルな物理法則の前に全面降伏です。脳裂したり威を失脚して元に戻ってください
天の龍とは私達にこの単純に目覚めさせてくれた我々の先輩方です。欣悦とは、おう、おめえもようやく単純、よしよしって喜んでくださったっていうことです。禅って単を示すって書くわけで。
みんな早くこうなって遊ぼうや。
紅海に遊び山川を渉り、師を尋ね道を訪うて参禅を為す。曹谿の路を認得してより、生死相関らざることを了知す。
(こうかいにあそびさんせんをわたり、しをたずねどうをとむらうてさんぜんをなす。そうけいのみちをにんとくしてより、しょうじあいあずからざることをりょうちす)
この証道歌の作者の永嘉大師と道元禅師は多くの点で共通しているように思います。いずれも天台宗の寺で幼年に出家し、多くの経典を読破される優秀な頭脳があった。しかし永嘉大師は「生き死に」にひっかかり、道元禅師は「本来本法性 天然自性身」にひっかかった。ひっかかったというのは、これらに対する自分の実感が欲しかったということです。普通の人は、とりあえず理解できるとそこで終わってしまう。しかし理解というのが自分にとっては腹の足しにならないという、根本的な気持ち悪さに目をつぶることが出来なかった。そして、お二人とも自分の腹の足しになるまで追い求めるという正直と、妥協の無い強さがあった。
資質と正直と執念があったということです。
曹谿の路とは師匠の大鑑慧能禅師の示したものという意味です。私は資質と正直と執念があれば、必ず正師に出会えると思いますし、求める実感も得ることが出来ると思います。
さて、曹谿の路とは何か。道元禅師の師匠の如浄禅師の示したものとは何か。これがじつに単純、あるものだけを示したのです。
あるものって、五感の領域と思いだけ。思いの中味を示すことはできません。もともと無いものだからです。観念も過去の記憶も
思いとしてはあっても、その中味を示すことが出来ない。これを単純と言うのです。
永嘉大師にとっては 生き死に があるような気がしていたんです。生きると言って、何を指して生きると言っている? この刹那の全てです、っていう答えは 生きる が無いに等しい。死ぬと言って、あんた死んだことあるの?
無い。無いじゃないですか。
んーなことは分かっている。理屈じゃない。俺の実感が欲しいんだ。
ふいに慧能禅師との対話の中で 生き死に が足払いをくらった。生き死にがもんどり打ってひっくり返った途端に消失。生きる死ぬというのが、元の単なる思いになった。
永嘉大師が慧能禅師との短時間の対話の中で悟ったということで「一宿客」と言われているけれど、これは資質、正直、執念があった上での話です。
行も亦禅、坐も亦禅、語黙動静体安然。縦い鋒刀に遇うとも常に坦坦、仮饒い毒薬も亦間間。
(ぎょうもまたぜん、ざもまたぜん、ごもくどうじょうたいあんねん。たといほうとうにあうともつねにたんたん、たといどくやくもまたかんかん)
仏教とは、思いが本来あるべき位置に納まっているかという実践なのです。ですから、坐禅とか動いているとか話をしているとか黙っているとか、そういう形の問題ではないのです。それが本質です。
じゃー何故坐禅が勧められているのか。ひとつは、思いが本来あるべき位置に納まっていないとそれが浮き彫りにされる。生活にかまけているとわからない問題が、静かにしていると浮き彫りにされる。気になるんです。思いを用いることの効用ばかりと付き合っていると、自分にとって思いそのものとは何かという本質的な問題と正面切って相対することがなくなる。生活していりゃそれでよしになっちゃう。浮き彫りにされる効用。
次に浮き彫りになった問題の思いを、消しゴムでけしたり、正しい思いで上書きするような、思いをいじるという種類のことができないということを知ることが出来る。
ということは結果お手上げである事実に行き当たる。さらにお手上げであるのに、お手上げになっていない自分自身に行き当たる。さてここからが分かれ道。あくまでお手上げにしたくない工夫の道を行くのか、お手上げになっていない自分が死ぬのか。
こういったことが、静かな環境だと分かりやすい。坐禅の功徳です。
鋒刀に遇うとか毒薬を盛られるというのは、とんでもない人生の境遇に陥ることがあるということです。達磨大師は毒殺されたという言い伝えがあるらしいし、その弟子の慧可大師は濡れ衣を着せられて処刑されたという記録もあるらしい。誰でも望まないことは、そうならないように努力します。それでもどうしようもなくそうなったときに、坦坦としていられるよって言っています。
永嘉大師は生き死にが、観念だったーってところに落ち着いた人ですから。生きてる奴は誰も死んだことがない。未来と言って未来を見た奴がいない。死ぬのが怖いと言って、死んでから話題にするかーってなもんです。
我師然燈仏に見ゆることを得て、多劫曾て忍辱仙と為る。幾回か生じ幾回か死す、生死悠々として定止無し。
(わがしねんとうぶつにまみゆることをえて、たごうかつてにんにくせんとなる。いくたびかしょうじいくたびかしす。しょうじゆうゆうとしてじょうしなし)
我師とは釈尊のことです。釈尊がまだ悟りを開いていないとき、然燈仏という仏さんが現れて
「あなたは大力量の人だ。近い将来必ずや悟りを開くことでしょう」と言って消えたそうな。
釈尊が悟りを開きそうになったとき、悪魔が邪魔をしにきたという逸話があるそうです。これがまさにそれです。これほど効果的に邪魔をしてくれるなんて、これはこれでたいしたもんです。おかげで多劫=一説には五百生も生まれ変わりをしなきゃならないほど長い時間、辛い修行をする仙人のような無駄をさせられちゃったっていう逸話なんです。これは。
いろいろしゃぺることばかりじゃ、これを読んでくれている人に申し訳ない。これ、宿題にしますので分かったら私に言いに来て下さい。永嘉大師の真意と違うんじゃないかって?
確かにそうです。だけどそれよりもっと大事なことがあるから言っているんです。公案の解答のような連想ゲームみたいな答じゃだめですから。
頓に無生を悟了してより、諸もろの栄辱に於いて何ぞ憂喜せん。深山に入り蘭若に住す、岑崟幽邃たり長松の下。
(とんにむしょうをごりょうしてより、もろもろのえいじょくにおいてなんぞゆうきせん。しんざんにいりらんにゃにじゅうす、しんきんゆうすいたりちょうしょうのもと)
頓とはたった今。たった今に生ずるとか滅するとかいう話はあり得んよ。それが説明じゃなくて自分自身がそこに落ち込んで、腑に落ちて、それっきりになっちゃったよ=悟了。生死とか自分とか仏教とか、思いが語りかけるとっても大事な何か、そいつが存在しなくなるんです。思いはあっても重さを失い単なる頓、たった今。
思いの中味があるような気がしていたっ、ていうのからどうしても免れる必要があります。
そうすると成功したり失敗したりしても一喜一憂したりしなくなるよって言っています。天狗になったり落ち込んだりする自分っていうのがないもんだからそうなりますよ。ただ単に物事に対処するだけ。
自分っていうのがあって、何らかの思いの中味に影響されていると、早い話お経の声がもろにそうなる。かっこつけた声、何かを気にして勢いのない声、声聞けば一発です。ふん、俺ら赤ん坊の時りっぱにぎゃーぎゃー泣いていたのに、なんて有様だ。
蘭若とは簡素な寺のこと。岑崟とは山の険しい様子。幽邃とは静かという意味。永嘉大師は慧能禅師のもとを離れて、山奥に住したんですね。
優遊として静坐す野僧が家、閴寂たる安居実に瀟酒。覚すれば即ち了じて功を施さず、一切有為の法と同じからず。
(ゆうゆうとしてじょうざすやそうがいえ、げきせきたるあんごじつにしょうしゃ。かくすればすなわちりょうじてこうをほどこさず、いっさいういのほうとおなじからず)
優れて遊ぶようにとはいい例えです。遊ぶっていうのは何かの為にするわけじゃない。閴寂も瀟酒もさっぱりという言葉づらなんですが、前後裁断している景色です。これ、実感なんです。意味じゃなくて。達磨大師は廓然無聖と言った。人それぞれ前後裁断の景色をいろいろ呼ぶけれど、大事なのはあなたの実感としてこれを得ることです。もう何物にも代えがたいと思うでしょう。
いつも見ている景色がそうなんだから、特別なことしようとはしなくなります。
さて、前後裁断って、実はいつも誰でもそうなんです。覚(悟り開いた)してなくてもそうなっているんです。人はたった今にたった一つしか認識出来ないっていう物理現象です。
ですが、たった今に起きたことを言葉に置き換えられるって勘違いすると、物語が生じます。時間が生じます。
なになに、そんなことはないんです。景色と思いは別のものです。思いとそれに続く思いも別のものです。
覚するとは、勘違いから脱するという事です。物語が生じないと、何かの為にこれをするという物語も生じません。
前後裁断とはそういう意味です。
悟りという物語がいつの間にかできていて、そのために修行という物語をするという勘違いをいつまでもしていてはダメです。
事は単純です。たった今にはたった一つの思いしか存在しないのです。一つの思いは物語を作りません。
住相の布施は生天の福、猶お箭を仰いで虚空を射るが如し。勢力尽きぬれば箭還って墜つ、来生の不如意を招き得たり。
(じゅうそうのふせはしょうてんのふく、なおやをあおいでこくうをいるがごとし。せいりきつきぬればやかえっておつ、らいしょうのふにょいをまねきえたり)
相とはたとえば畳、鳥の声。とてもじゃないが、そんなところに住めません。あまりに刹那だからです。自分という生きものキャンパスに描かれた畳は一時たりともじっとしていない。畳があるって思うのは、思いです。現物とは関係のない思いです。思いだって刹那ですのでそんなところにも住めないのですが、もともと思いの中味は架空のことですので、勝手な錯覚が許されてしまう。現物の畳って全然じっとしていないだろうーって言われると、そうですとしか言えない。現物の示すままあきらかだからです。
ところが思いの中味は現物ではないものだから、あるような気がする、っていう錯覚が成り立ってしまう。
架空のお絵かきが実在するように思うと、さあ大変です。ありとあらゆる物語が生じてくる。人の不都合とはすべてここから生ずるもんなんです。自分があると思うと、そいつがりっぱになりたいが為に布施をするようになる。本来布施とは、何かの為にする行いを言うのではないのですが、普通の人がする布施は大概自分の利益を想定して施しをする。天という架空の浄土でいい思いをせんがための計算された行為。
架空に的があるような気がして矢を放つ。空に向かって矢を放てば直に勢いを失い、あんたの頭の上に降ってくるぜ。
ないものがあると思うと、ありとあらゆる身勝手が許される。世の身勝手を言えば切りがない。仏道修行者の場合で言えば、悟りがあるような気がする、それでそれに至る修行があるような気がする、さあこんなことやっていると坊さんの亡霊に取り憑かれて一生を棒にふるようなことになります。
目を覚まして下さい。なに、簡単です、現物とだけ付き合えばいいのですから。思いだって現物です。思いの中味は現物じゃあないぜって言っているんです。
争でか似かん無為実相の門、一超直入如来地なるに。但だ本を得て末を愁うること莫れ、浄瑠璃に宝月を含むが如し。
(いかでかしかんむいじっそうのもん、いっちょうじきにゅうにょらいちなるに。ただもとをえてすえをうれうることなかれ、じょうるりにほうげつをふくむがごとし)
どうして似せることができようか、たったひとつしかないものを。似せるっていうのは二つ要素が必要でしょう?どこをどう見廻したってたったひとつっきりしかない。何かの為になんていう空想の産物もないんです。ひとつっきりしかないのを、わざわざひとつなんて言う観念表現に置き換える必要もなし。如来とは来るが如しと読むのだけれど、時間の経過を連想させる。在るが如しの方がいい。刹那でいっつも新しいたったひとつって言いたくなる気持ちは分かるけど、やはり言うなら在るが如しくらいでどうだ。もちろん在るていうのも観念表現なんだけれど。言うことなくなっちゃう。
大事なことは、あなた自身が本当のシンプルであるかどうかということだ。言い方なんかどうでもいい。いや、人に誤解を与えないようなシンプルなやつがいい。あなた自身がいっつもひとつっきりであれば、悩めないことに気がつくから。悩むっていうのは要素らしきものが二つ以上あるような気がしている人の心理です。良かろうが悪かろうがただ目の前のものに対処するだけっていうシンプルを称して宝月と呼んでいます。
我れ今この如意珠を解す、自利利他終に歇きず。江月照らし松風吹く、永夜の清宵何の所為ぞ。
(われいまこのにょいじゅをげす、じりりたついにつきず。こうげつてらししょうふうふく。えいやのせいしょうなんのしょいぞ)
迷えないを称して意の如くなり、と表現しています。迷えない功徳というのがあります。たったひとつっきりのことをするだけだから、それに全エネルギーが集中する。効率が良くなる、丁寧になる、そのことに関連した体の機能が開発されて高まっていく。
こういうのを大げさに言うと進化と言っていいと思う。自利。他方人に対したときその人っきり、実にそのまま自分という鏡に映し出される。ありのままの姿が。こんな時人はその人と同調する。同じ種同士だから良く同調する。生きものだから強く大きくなっていこうとする。お互いが。利他。
想いが描き出す架空の物語を失えば自然と自利利他。生きものが生きている限り終わりはない。まっとうに対処し出来ることがあり、まっとうにできないことがある。
ひとつっきりしかない、おつりの全くない風景、言葉の形容詞を絶する存在です。それを例えば江月照らし松風吹く、清宵と表現した。付属する説明のない景色って、鮮烈極まりなし、微妙極まりなし。接心のあとしばらくはこんな風景です。
何物にも代えがたいとして、時に感動したりします。ひとつっきりだから代わるものがないのはあたりまえかー。
仏性の戒珠心地に印す、霧露雲霞体上の衣。降龍の鉢、解虎の錫、両鈷の金環鳴って歴歴。
(ぶっしょうのかいじゅしんちにいんす、むろうんかたいじょうのえ。こうりゅうのはつ、かいこのしゃく、りょうこのきんかんなってれきれき)
誰の身の上にでも起きている、たった一つの必然に落着している様を、戒珠心地に印すといっています。そしてそれによる自利利他を引き起こす力を仏性と呼んでいます。きり、つゆ、くも、かすみ、実体のない例えですが、我々の説明だったり、取り決めだったり、想いの上の工夫だったり。実体がなくたって交通整理のように有効に使うことは出来ます。ここじゃあ、そういう話は二の次三の次。
たった一つの必然がもたらす迷いのなさが、人を元気にします。その人の能力がフルに発揮される。龍や虎を自在に使い放つ力ありと例えています。これ、仏教の救いって言います。
是れ形を標して虚しく事持するにあらず、如来の宝杖親しく蹤跡す。真をも求めず妄をも断ぜず、二法空にして無相なることを了知す。
(これかたちをひょうしてむなしくじじするにあらず、にょらいのほうじょうしたしくしょうせきす。しんをももとめずもうをもだんぜず、にほうくうにしてむそうなることをりょうちす)
続く |