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<証道歌>







 達磨大師を中国禅の祖とするならば、6代目の大鑑慧能禅師の頃仏教は花開き、五家七宗と言われる現代も一部続く系譜の基礎ができたと言われています。その慧能禅師に参じて一日で悟りを開いたと言われているのが「証道歌」の作者 永嘉玄覚大師です。一日で悟りが開かれるのか? 忘我はあったのか? 疑問に思われるでしょう。悟りとは、その人にとって一番大きな観念が失われた時にふいに訪れます。観念=実在しないものであるにもかかわらず、あるような気がしていたものが一気に失われる。
自分という観念が失われれば忘我がある。そりゃそうでしょう、見る人がいなくなるんだから。
永嘉大師の場合は生死だと言われています。自分とか神とか仏とかそういうものじゃなくて、永嘉大師の場合は生死だったんです。これがあるような気がしていて気持ち悪くてどうしようもなく、諸山遍歴、師を求めて必死の行脚があったんです。
慧能禅師との会話の中で生死という観念が足を払われたんです。生死さんひっくり返ったと同時にぱっと消失。
それで何が残るのか? あるものだけです。五感の領域と思いだけ。思いの中味が一気に失われるんです。
その人にとって一番の親分が死ぬということは、それ以下の観念がすべて一気に討ち死にするんです。
全くもってあるものだけ、になっちゃうことを悟りと言っています。
ですから必ずしも忘我が無けりゃならんかというとそうじゃない。
大事なことは、その人にとって後生大事な人生のすべてをかけた一番大切なものが失われたかどうかということなんです。
中途半端をやっているとこういうことは起きない。そいつがミソです。


君見ずや、絶学無為の閑道人。妄想を除かず、真を求めず、無明の実性、即仏性、幻化の空身、即法身。
(きみみずや、ぜつがくむいのかんどうにん。もうぞうをのぞかず、しんをもとめず、むみょうのじっしょう、そくぶっしょう
げんけのくうしん、そくほっしん)

私達が生きているのはたった今です。本当に刹那だけれど、どうやったってたった今にしか生きていない。五感の領域はまさにたった今。思いだってたった今にしか起きていない。思いそのものはたった今だけれど、中味はたった今のことじゃない。だけど便利だからそれを用いることはある。しかし思いの中味がたった今にあるような気がしていると、それに影響される。学ぶべき対象になるような気がする。ある思いの為に何かをしなければならないということが起きてくる。思いの中味があるように思っている人の所業です。悟りとは、あるような気がしている思いの中味が失われることなんです。もともと思いの中味は、過去の記憶や観念で、実在する事じゃない。それがただ元の姿に戻っただけです。ですから基本絶学無為です。必要な時に用いるだけの道具というわけです。
必要な時に用いるだけで、思いに用いられてあたふたするということはないものだから、基本閑か(しずか)です。
悟り開いた人は間違った思いを出さないって、誰がそんな出鱈目を言ったのでしょう。
思いの中味の真偽を言っていません。それがあるように思っている人と、そうじゃなくなった人の違いがあるって言っているんです。思いの中味があると思っている人にとっては、間違った思いがあるならば、それを消しゴムで消さなけりゃならないと思うでしょうし、真実なるものがあればそれを求めなけりゃならないと思うでしょう。すべて幻です。
無明の実性って、確かに間違った思いがあったってことです。
仏性って必然と読み替えて下さい。
幻化の空身って、今自分の身に起きていることは刹那だっていうことです。
法身って実際の姿と読み替えてください。


法身覚了すれば無一物、本源自性天真仏。五陰の浮雲は空去来、三毒の水泡は虚出没。
(ほっしんかくりょうすればむいちもつ、ほんげんじしょうてんしんぶつ。ごおんのふうんはくうこらい、さんどくのすいほうはきょしゅつぼつ)

自分の本当の姿を自覚し終われば、自分というものがないって言っています。般若心経にある無眼耳鼻舌身意というのは簡単に確認出来ます。ただし、理科の教科書を持ってきて説明しないこと。あなたの身に起きている事だけを確認すること。景色はあったって目はない。音はあっても耳はない。匂いはあっても鼻はない。味はあっても舌はない。触感はあっても体はない。思いはあっても脳みそ(心)はない。時に自分という思いがあるだけ。
さて、ここまでは自覚の領域。覚了というのは自覚が終わると言うこと。これは何を意味するのかといえば、鏡に映っているあなたと長年信じてきているその人に、自分 という思いをくっつけたでしょう。本来は別々の景色と思いをくっつけてイコールにしちゃった。べつべつのもんです。その証拠に鏡に映っているその人が自分と思っているという自覚がない。思いは思いだけ、景色は景色だけなんです。色声香味触法というのは思いの上での説明なんです。
一切の存在と思いの連結が解消されれば、自分という思いは自分という思い、以上。自分という何かがある、ということはない。
本源自性天真佛、ずいぶんとものものしい言い方ですが、存在と思いの連結が解消された全くもって素の世界ってことです。こいつをどうしても一度体験しないとならんのです。こいつを体が知れば、存在と思いを便宜によってどうくっ付けようが自由自在。思いに振り回されるということがなくなります。
五陰とは般若心経にある五蘊と同じ、色受想行識のこと。つまり一切の存在と人間の意識の働き全てっていうことで、要はあなたの身に起きているすべては刹那ですよ、三毒といわれる貪(むさぼり)瞋(いかり)痴(真実をしらない)もそうだよって言っています。ここで大事なのは、自分 っていうのがあると思っていると、一切の去来に自分が関係しているように思ってしまう。貪瞋痴みたいにろくでもない思いが起きてくると自分の責任だと思ってしまう。刹那の実際を知らずに、既にないものを消しゴムで消そうとしたりする。反省して似たような思いが出てこないようにトレーニングはできないもんかとなってくる。
こういうのを迷うって言うんです。


実相を証すれば人法無し、刹那に滅却す、阿鼻の業。若し妄語を将って衆生を誑かさば、自ら抜舌を招くこと塵沙劫ならん。(じっそうをしょうすればにんぽうなし、せつなにめっきゃくす、あびのごう。もしもうごをもってしゅじょうをたぶらかさば、みずからばつぜつをまねくことじんしゃごうならん)

実相ってありのままの姿っていうことです。畳か時計の音か若葉の香りか味噌汁の味か尻の下の坐蒲の感触か思いかいずれかひとつ。証するとは、それだけであるということ。それだけでない何かがあるとするならば、それは思いの中味があるように勝手に思っていること。思いの中味を失うことを証すると言っています。
ですから人=自分も、法=仏の教えも、思いの中にだけあって実際には存在していないって言っています。
プライドを傷つけられたとか言って裁判を起こして騒いでいるような苦しみとか、悟り欲しいよーって言っている飢えの苦しみとか、生き死にがある恐怖とか、そういう阿鼻叫喚の苦しみが瞬時に失せる。永嘉大師、ご自分の慧能禅師との対話での出来事を述べていらっしゃいます。瞬時に失せるったって、もともと無いことなんですから。ありのままっていうのはあるやつだけっていうことで。
嘘ついたら閻魔様に舌引っこ抜かれるぞーって言うけれど、俺嘘なんか言ってないもんねー!なんたって有ることしか言ってないもん。
確かに畳っていう言葉と実際の タタミ は関係ないし、微妙で刹那には違いがない。有るっていうのは人の意識の上のことだし。だけどたった今の一点において意識が描き出すのはたったひとつのみ。それはもう絶対に確かなことなんです。二つ無いんだから。嘘を言うことができない。


頓に如来禅を覚了すれば、六度万行体中に円なり。夢裡明明として六趣有り、覚めて後空空として大千も無し。
(とんににょらいぜんをかくりょうすれば、ろくどまんぎょうたいちゅうにまどかなり。むりめいめいとしてろくしゅあり、さめてのちくうくうとしてだいせんもなし。)

頓に如来禅を覚了すとは、刹那に滅却す阿鼻の業と全く同じこと。如来とは来るが如しと読むけれど、来るとはどこからどこへ来るという二つ要素がないと成り立たない言葉。いくら刹那でもたった今に認識できるのはたったひとつのみ。二つないんです。ですから在るが如しと読み替えて下さい。
我々にとって在るのは五感の領域と思いのみ。思いは在っても思いの中味があるわけじゃーない。過去や観念が畳のようにあるわけじゃーない。在るが如しとは在るやつだけってことです。思いの中味が在るように思うといじれるように思う。手を加えられるように思う。だけど実際はないもんだから出来ない。出来ないことを出来るように思って延々とやり続ける。これを阿鼻の苦しみと言うんです。
覚了すとは、思いの中味が在るように思えていたのが、そーいうことがなくなるっていうことです。
六度万行とは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の6つの修行という仏教用語です。体中に円とは、それらが自然に出来ているっていうこと。これらを細かく紐解くよりも、無いものに影響されなくなると、いらんことをしなくなるって言うのが簡単な解釈です。
夢裡とは思いの中味。これがあると思えば輪廻の六世界もまた明らかにあるように思えてしまっている。いいですか、時計はいつも一つしか音を出してないでしょう。過去があるから数がある。
覚めてみれば三千大千世界といわれるほどの様々な様子もありゃしない。たったひとつっきり。空空=在在。たったひとつっきり以外に何も無し。清清=空空。

続く