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<救いについて>

 トラブルに会った時、その対処方法は通常2つあります。1つはトラブルの外的要因をなくすこと。1つは自分をトラブルの外に置くように立ち位置を変えるか、自分を変化させること。昨今のいじめの報道をみていますと、学校によっては先生の対応が不適切な場合が多くあるようですし、親や友人に相談しても 外的要因 をなくすことはとても難しいことのようです。であればなにも悲惨な暴力の中に我慢して居続ける必要は全くないと思います。立ち位置を変えても将来の自分のキャリアは十分に築けていけると思います。会社や家庭内でのトラブルも基本的にはこの範疇の話になりますね。
 さて物理的なトラブルの対処の仕方は以上ですが、仏教が提案するトラブルの解決方法は違います。心の救いについてお話しましょう。
物事を 振り返らずにいられる という救いです。我々が思い悩むその思いとはいったい何なのでしょうか。思いの中身は常に過去のこと、というのはご存知ですか?なぜか。たとえば カチッ という音を聞いてから、あれは時計の音だという思いを起こすからです。その思いを起こしているときにはもう カチッ はなくなっている。今目の前にないことを考えているのです。まず考える対象物があって、その後それを考えるという順番になっている。考えている時にはたった今は次の瞬間に様変わりしている。我々は五感(目=景色、耳=音、鼻=におい、舌=味、体=触感)の部分で生きています。刹那に移り変わるけれど、確実にその瞬間=たった今 にしか生きていません。思いの中に生きているということは物理的にないのです。ということは目の前にないことをいじったり、なくしたり、変化させたりということも当然できません。思いの中身に手をつけることは絶対にできないということをまず知ってください。できないことをしようとしていませんか?できないことをしようとするから悩むのです。トラブルに直面したから悩むのではなくて、できないことをしようとするから悩むのです。
 思いの中身の性質をもうひとつ。我々は現実には存在せず、想像の中だけの 観念 ということを言葉やイメージで持っています。たとえば神、だれも見た人がいないものだからいきおい自分にいちばん近い人間の姿をしていたりしますね。文化人といわれている人たちが言う中性的な 人間 というのもそうですね。性の属性を見ずに高校生に同じ部屋で着替えさせたりしていますね。このたぐいは山ほどあるのですが、共通しているのは現実にないことです。目の前にないことは、物理的にいじったり、なくしたり、変化させたりということはできません。できないことを知らずに頭の中で勝手に物語を作ってしまったことから発する悲劇が社会科の歴史の教科書にそれこそ山ほど書いてあります。とある宗教の神を信ずるものだけが 人間 でそれ以外は人間ではないという物語のおかげでどれだけ多くの人命が損なわれてきたことか。とにかく自分は観念をいじろうとしていないかチェックしてみてください。できないことをしようとすると悩みます。
 さて思いの中身について見てきましたが、次に思いの性質について見てみましょう。人間がよくする間違いに、自分を観察している、というのがあります。観察=同時モニターしていると思うから自分自身に手がつけられる、自分のネガテイブな思いをなくすることが出来ると思い違いをしてしまう。真相は、ある事物や自分の発する思いの直後に、それこそ電子の移動するスピードで次の思いが起きているだけの話なのです。ですから二つの思いが同時に存在するということではなく、次々に、順番に思いが起きているだけの話ということです。であれば、どんなネガティブな思いであれ、悲惨な思いであれ、その思いをどうにかするということは物理的に出来ないということを知ってください。できないことをしようとすると悩みます。
 思いは思いそのものも、思いの中身にも手をつけることが出来ない、ということをまず肝に銘じて知ってください。これだけでよほどの救いになります。できないことはしない。意を決してやればけっこう振り返らずにいられるもんでしょ?
 ですけどね、振り返らずに、振り返らずにって言いながら振り返っているということもあるということを知ってください。疲れますよね、こーいうことをしていると。坐禅は振り返らずにということを本当に実践する道です。私はこれを勧めます。坐禅の功徳というのは 自然に振り返らずにいられる力 を引き出すものだとお考えください。