玖延寺
玖延寺(きゅうえんじ)のぺージ
本文へジャンプ

<救いについて>







 トラブルに会った時、その対処方法は通常2つあります。1つはトラブルの外的要因をなくすこと。1つは自分をトラブルの外に置くように立ち位置を変えるか、自分を変化させること。昨今のいじめの報道をみていますと、学校によっては先生の対応が不適切な場合が多くあるようですし、親や友人に相談しても 外的要因 をなくすことはとても難しいことのようです。であればなにも悲惨な暴力の中に我慢して居続ける必要は全くないと思います。立ち位置を変えても将来の自分のキャリアは十分に築けていけると思います。会社や家庭内でのトラブルも基本的にはこの範疇の話になりますね。
 さて物理的なトラブルの対処の仕方は以上ですが、仏教が提案するトラブルの解決方法は違います。心の救いについてお話しましょう。

思いに影響されない、という救いです。我々が思い悩むその思いとはいったい何なのでしょうか。思いの中身は常に過去のこと、というのはご存知ですか?なぜか。たとえば カチッ という音を聞いてから、あれは時計の音だという思いを起こすからです。その思いを起こしているときにはもう カチッ はなくなっている。今目の前にないことを考えているのです。まず考える対象物があって、その後それを考えるという順番になっている。考えている時にはたった今は次の瞬間に様変わりしている。我々は五感(目=景色、耳=音、鼻=におい、舌=味、体=触感)の窓から入ってくる情報にリンクして生きている。これらの情報に共通する特徴は常にたった今ということです。ですからそれにリンクしている我々の体も刹那に移り変わるけれど、確実にその瞬間=たった今 にしか生きていません。思いの中に生きているということは物理的にないのです。目の前にないことをいじったり、なくしたり、変化させたりということは当然できません。思いの中身に手をつけることは絶対にできないということをまず知ってください。できないことをしようとしていませんか?できないことをしようとすると苦しいんです。トラブルに直面したから悩むというよりも、できないことをしようとするから悩むのです。それもこれも過去が実在するような思い違いをするから、いじれるような気になり、出来ないことをして苦しむのです。まずは思いの中身が描く過去というのは今目の前には存在しないということをはっきりさせてください。たった今は刹那です。瞬時に変化するのです。そのたった今とそれについて後から説明する思いの中身は決して重ならないという宿命にあることをはっきりさせてください。もうたった今と思いの中身は無関係といってもいい。
よく思い通りにならないと言って悩む人がいますけれど、それは悩む方が間違っています。思い通りにならないのが当たり前なのだから。

 思いの中身についてもうひとつ。我々は現実には存在せず、想像の中だけの 観念 ということを言葉やイメージで持っています。たとえば神、だれも見た人がいないものだからいきおい自分にいちばん近い人間の姿をしていたりしますね。文化人といわれている人たちが言う中性的な 人間 というのもそうですね。性の属性を見ずに高校生に同じ部屋で着替えさせたりしていますね。このたぐいは山ほどあるのですが、共通しているのは今目の前にないことです。目の前にないことは、物理的にいじったり、なくしたり、変化させたりということはできません。ただ、今目の前にないからこそ、いくらでも物語を膨らませて幻想を描いてみせることもできる。しかし夢の世界を今目の前にある実在することと勘違いするととんでもない混乱と苦しみの世界に引きずり込まれます。たとえば宗教。とある宗教の神を信ずるものだけが 人間 でそれ以外は人間ではないという物語を信じた人がどれほど野蛮になるか、それによってどれほど多くの人命が失われてきたことか。我々はどうやったってたった今にしか生きていないにもかかわらず、夢の中に首を突っ込んでしまうと今を離れる。離れれば離れるほど乱暴になり野蛮になる。自分は観念を今目の前にあるような実在するものと思い込んでいないか冷静に検証してみる必要があります。ないものをあると思うと、いじることができると勘違いし、結果苦しむか、野蛮人への道まっしぐらか、どちらかの運命が待っています。

 さて思いの中身について見てきましたが、思いの性質についても見てみましょう。人間がよくする間違いに、自分を観察する、というのがあります。観察とはすなわち自分が今ある様子を同時モニターするという意味でしょ。いいですか、数学の話として考えて下さい。たったひとりしかいない自分がリアルタイムに自分を同時モニターできるんですか?出来るわけないですよねー。それで真相は、ある事物や自分の発する思いの直後に、それこそ電子の移動するスピードで次の思いが起きているだけの話なんです。あまりのスピードにあたかも同時モニターしているような錯覚を持っているということなんです。同時モニターしていると思うと今ある目の前のことを、あるいは思いをあたかもいじれるような、手を付けられるような気になりますよねー。ですが、それは間違っています。ですから存在と思いが同時に存在するということではなく、次々に、順番に、認識されているということなんです。たった今はたった一つと申し上げているのは我々の脳ミソには 今 認識できるのはたった一つだけという意味なんです。であれば、たとえどんなネガティブな思いであれ、悲惨な思いであれ、出てきた思いそのものをどうにかできるということはあり得ません。できないことをしようとすると苦しみます。

 今まで申し上げてきたことはたった一つ。「思いに手を付けることはできないし、思いどおりにならないのがあたりまえである」これさえ腑に落ちればよほどの救いになります。
 さてさてこれで終われば話はそう難しくはないのですが。ですがねー、手を付けることの出来ない思いを、自分の都合のいいようになるように願い、さらにたった今が自分の思い通りになるように願っている奴がいませんかー?あなたの内に。願っている奴、すなわち 自分 という思いですよ。

 自分という思いの起源はあなたが生まれてすぐからなんです。親があなたを名前で呼び出したところからです。名前で呼ばれ、おまえはと言われ、そのうち僕はと言いだし 自分 という観念の刷り込みが始まったのです。学校に行けば 自分 の意見ははっきり言いましょうと言われ、自分 を大切にしましょうと言われ、そんなことが数限りなく行われてきたんです。これ実は刷り込みなんです。ですが最も長時間、執拗に行われてきたものだから、だれにとっても最も強い刷り込み=観念=思いなんです。
自分 という思いの刷り込みと同時に自分への執着教育も同時に行われてきたものだから・・・。根深い、頑強と言わざるを得ないんです。こいつがあなたの思いの中心にあるものだから、というか所々に顔を出すものだからなかなか「思いに手を付けることは出来ない、思いどおりにいかないのがあたりまえだ」そのとうりー、おわりー、ちゃんちゃん。とならないんですねー。

そうなると 自分 という思いに囚われなくなることが問題の根本解決になると思いませんか。これこそが釈尊の歩んだ道であり
仏教そのものなんです。最初はどうしても自分という思いの延長線上に解決を求める。自分に都合のいいことを願い、修行、トレーニングによってそれを実現していこうという道を探す。釈尊の難行苦行の6年間がまさにこれです。自分に都合のいい思いだけが出てきてくれないか、を際限なくやる。結果「思いに手を付けることは出来ない」にたどり着く。あるいは「たった今と思いの中身は無関係である」に落ち着く。それでここまで来る過程で 自分 という思いは余程死んでいるんです。なぜかと言えば 思いに手を付けようとする主語=自分、というのが不要ですよーって言われているのと同じだからです。窒息寸前です。さて釈尊が菩提樹の木の下で坐禅を始めたというのが実はここからなんです。ありとあらゆる我が儘、よこしまを願ってすべてダメとなれば 自分 なーんもやることがなくなっちゃったんですね。よこしまの事の初めは 眺めて説明をする から始まるのですがそれすらしなくなった。必要なくなった。自分の死です。眺めて説明するがなくなると記憶そのものもなくなります。いつから忘我になったかはわからない。何かの縁でふいにもとにもどる。また眺めて説明するがはじまる。だが自分という思いが消しゴムで消されたようになくなっているわけではない。しかし自分という思いが主人公になっていないのに気づく。五感の領域やほか諸々の思いと同質になっている。同じ比重で流れていく。不当に自分に都合のいいことを願わなくなる。主語=自分に比重が無くなってしまったものだから、思いをいじろうとすることがなくなる。結果思いに引きずられる、引っかき回されるということがなくなる。思いを用いなければならない時に道具として用いることが出来るようになる。思いに使われることがなくなる。ここまで来て本当の救いなんです。

少し前に 猿でも反省する っていうコマーシャルがありました。そう、この手の反省は人間もしますね。これをしたものだから自分の利益にならなかった、今度はうまくやってやるぞっていう反省ね。だが 自分 そのものが問題だったという反省をした人を未だかつて私は見たことがない。仏教の救いは実はここにあります。