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<信心銘>
釈尊の滅後およそ千年の時を経て菩提達磨というインド人の僧侶が海を渡り中国へ赴きました。
景徳伝燈録によれば梁の武帝の「仏教の真髄は何です?」という質問に達磨大師は「このまんまさ、真髄なんてもんはない」と答えています。これ即ち仏教です。千年の時を経ても正伝の仏法が絶えていなかったんです。釈尊滅後弟子達は意図して文字としての記録は残しませんでした。今あなたの身に起きていること=このまんま 以外になし。このまんまっていうのを文字に出来ると思いますか?
本質として仏教は文字に出来ないんです。ですが、このまんま以外に何かあるような気がしているっていう人に、それは違うよと説明しなければなりませんし、腑に落ちてもらわないといけませんので対話があるんです。対話は人それぞれですし、時と場合によって言うことは違う。それを普遍的な説明ととらえられてしまうような経典のような形にはしたくなかった。何かあるという誤解を生じさせる恐れがあるし、守るべきルールブックのようにとらえられると仏教とかけ離れてしまうからです。そうやって何百年もきたんです。そして達磨大師は弟子にした中国人の太祖慧可に正伝の仏法を伝えた。
達磨大師も記録を残さなかった。その弟子の慧可大師も記録は残さなかった。だが慧可大師の時代になると仏教弾圧の時代に突入して、慧可大師は濡れ衣を着せられて殺されている。それを見た慧可大師の弟子の鑒智僧璨(かんちそうさん)禅師は仏教が断絶するのを恐れたに違いありません。文字にして残しておかないといけないと思われたのでしょう。
経典にすると必ず誤解が生じる。しかしその手前にある事実に気がつく人間も必ずいる、という信念でこの「信心銘」を残されたのだと思います。これが中国人によって中国語で書かれた本物の仏教のガイドブックです。
至道無難、唯嫌揀択、但憎愛莫ければ、洞然として明白なり、毫釐も差有れば、天地懸に隔たる
(しいどうぶなん、ゆいけんけんじゃく、ただぞうあいなければ、とうねんとしてめいはくなり、ごうりもしゃあれば、てんちはるかにへだたる)
仏道に至るに難しいことはないよ、ただ選択が出来ないことを知ればいい。揀択とは選択のことです。仏道の原理はここに尽きています。実は我々の身において選択と言うことは起きていない。たった今の一点において有るのはただ一つ。畳、時計の音、梅の香、おかゆの味、坐蒲の当たる触感、思い、これらのいずれか一つがたった今にあるだけ。たった今に認識できるのは一つだけ。
選択って言うのは2つ以上ないと成り立たないでしょう。一つしかないもの選択出来ないんです。
ところが 自分 という思いの直後に、こっち という思いが出てくると、本当は別々の思いなんだけど 自分はこっち というイメージが出来上がる。自分はこっちとなれば畳はあっちになる。物があっちになる。思いまであっちになる。今において二つの思いは同時に存在しないにもかかわらず、ある思いの直後に自分という思いが出てくると、自分が自分の思いを眺めているという嘘の二重構造のイメージが出来上がる。
自分の身に起きていることの直後に自分という思いが出てくると、自分が選択する という嘘のイメージが出来上がる。イメージというのは実在しないことだからこそ、いかようにも夢を見続けることができる。
実在する事だけをごらんなさい、夢なんか見られないから。人間の工夫を加えてどう対処するかということがあるだけ。
自分という主語がくっつく なんてことがなければ、たった今のそれだけ。憎む、愛するなんてことは起きない。いや、人には好みというのがあるでしょうって? そう、ある。だけどそれは自分というイメージ上の主語が好んだんじゃない。名前の付きようがない生きものとしてのあなたが好んだものです。
たった今にはたった一つ。実に明白なんです。
だけどたった今にあること以外に なーにかあるような気がちらっとでもすると、もう迷っちゃいます。そう2つ以上有るような気がするからね。
現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫れ、違順相争う、是を心病と為す
(げんぜんをえんとほっせば、じゅんぎゃくをそんすることなかれ、、いじゅんあいあらそう、これをしんびょうとなす)
驚く事なかれ、仏道とはなんと、たった今身に起きていること=現前 に落ち着くことなんです。思いの中身が正しいかどうかということに関係なく、すべての思いをひっくるめて、今身に起きていることすべてです。しかし、現前なんてのは得るもんじゃないですよ、すでにあるんだから。だけどひと苦労して得るなんてことがあるくらい人間てのは勘違いをしている。何に対する勘違いかというと、良さそうな思いの中身=順=〇や、ダメそうな思いの中身=逆=× があると勘違いしているんだから。いいですか、思いそのものはたった今にしか起きない現前ですよ。だけど思いの中身はたった今を表現することができない性質なんです。点検してごらんなさい、思いの中身が今目の前にあるかどうか。
人が苦労するのは、今目の前にないものを求めようとするからなんです。ないものはどうやったって求められません。
さらに、×をなくして○になろうなんてことすれば心の病になりますよと。ないものを無くして、ないものを求めるって、そりゃあ無理な話しです。病気になります。
言い方を変えれば、たった今に存在するのはたった一つだけ。これですべてに決着がつくはずです。
玄旨を識らざれば、徒に念静に労す、円かなること大虚に同じ、欠ること無く余ること無し
(げんしをしらざれば、いたずらにねんじょうにろうす、まどかなることたいきょにおなじ、かくることなくあまることなし)
玄旨とは=たった今に存在するのはたった一つ、これだけです。これが腑に落ちていないと、たった今の他に、な~にかあるよ~な気がしていると落ち着かないでしょう。選択肢があるような気がしていると、なにかやりたくなってくるでしょう。迷っているような気持ちになる。反省してみたり、修行をしなければならないとなってみたり、そういうのを 徒に念静に労すって言っています。対してたった今に起きていることを形容して完全無欠と言っています。円かと言っています。しかもそれが瞬時に全く新しい様を形容して大虚と言っています。完全無欠と言って思いの中身が正しいかどうかっていう問題ではないということを分かってください。
良に取捨に由る、所以に不如なり、有縁を逐うこと莫れ、空忍に住すること勿れ、一種平懐なれば、泯然として自から尽く(まことにしゅしゃによる、ゆえにふにょなり、うえんをおうことなかれ、くうにんにじゅうすることなかれ、いっしゅびょうかいなれば、みんぜんとしておのずからつく)
とある様子を好ましいと説明したときには、そのとある様子はもうない。好ましくないも同様。ないものをどうやって取捨するのか? とある様子を 有る と説明すると それがあるよ~うな気がする。さらに自分こっち、それ以外あっち になっているよ~な気がする。そして自分がそれ以外を同時モニターしているよ~な気がする。だから手が付けられるよ~な気がする。
まず ある って言わないこと。言葉はたった今を表現しないことを知る。たった今にないものは追いかけられない。
そしてたった今=刹那を見ればいい。あるものだって捕まえられない。
ところで 空 っていうのも説明です。刹那=瞬時に変化するものに実体というのを言うことはできない。そうです、その通りです。正しい説明です。だけど説明は説明。たった今とは別物です。言葉はたった今を表現しないんです。それを知らずに正しいからといって 実態がない っていう ある ことを持ってしまう。これを持っている人は 実態がないんだからといってすべてを否定する、ニヒルになる。活力を失う。健忘症を演技するようになる。すべて 空 だからといういらない説明をくっつけるが故の不自由です。
一種って今あなたの身に起きていることです。もうどんな説明も全くくっつかないでしょう。平懐ってそのままっていうことです。泯然として尽きるっていうのは、たった今は有縁だとか空だとかいう説明をまったく受け付けない、一切とりつく島も無しっていうことを言っています。たった今が説明を尽きさせるんです。
動を止めて止に帰すれば、止更に弥よ動ず、唯両辺に滞らば、寧ろ一種を知らんや、一種通ぜざれば、両処に功を失す、有を遣れば有に没し、空に随えば空に背く
(どうをやめてしにきすれば、しさらにいよいよどうず、ただりょうへんにとどこおらば、むしろいっしゅをしらんや、いっしゅつうぜざれば、りょうしょにこうをしっす、うをやればうにぼっし、くうにしたがえばくうにそむく)
動とは 有縁を逐う のこと。止とは 空忍に住する のこと。ある時刹那に気がつき、過去の残像 があるような気がするというのが間違いだったと知る。ないものに手を付けることが出来ないと知る。実態なるものが有るわけも無しと知る。存在を否定する。ニヒルを気取る。一気に活力を失う。これを 止更に弥よ動ず と言ったんです。有も空も説明なんです。存在=一種 に説明をくっ付けると、それが正しいか正しくないかに関わらず活力を失います。いっつも後ろからだれかに羽交い締めにされながら生きている感じ、またはいっつも重い荷物を背負いながら歩いている感じ。これを 両処に功を失す と言っています。
ただね、有に没したり空にそむくなんてことがあるのは、説明の中身がある って思っているからですよ。思いは電気信号、吹き抜けていく風であれば、どんな思いが起きてこようがそのまんま終わるのに。この勘違いだけ直して下さい。
多言多慮、転た相応せず、絶言絶慮、処として通ぜずということ無し、根に帰すれば旨を得、照に随えば宗を失す
(たごんたりょ、うたたそうおうせず、ぜつごんぜつりょ、ところとしてつうぜずということなし、こんにきすればしをえ、しょうにしたがえばしゅうをしっす)
たった今に起きていることは言葉で表せない。目の前の畳、あまりに繊細、あまりに刹那。これを たたみ と言うは本当に大雑把な属性を人とのコミュニケーションにおいて使うための道具だからだ。現物と言語表現は別物。現物と脳みその電気信号は違う。言葉はたった今を表さない。それを分かって話をしているか?
思慮はガイドブックだ。ガイドブックの中に現物はない。
人間の迷い、混乱とは、ガイドブックの中に現物があるという勘違いなのだ。たたみ と言って現物以外に たたみはないか?
自分と言って、現物以外に 自分があるんじゃないのか? あれば自分が二つになっちゃう。自分は一つしかない。
絶言絶慮といって言葉を失う、出てこなくなるというのではない。言葉が作り出す イメージがある というのを失うことだ。言葉が本来の道具に戻る。言葉が重みを失う。こいつをどうしてもやり遂げる必要がある。
根とは絶言絶慮のこと、たった今のこと。照とは多言多慮のこと。旨や宗なんていうと、特別な何かって思うかも知れないけど、畳です。時計の音です。思いです。今あなたの身に起きているそれです。
須臾も返照すれば、前空に勝却す、前空の転変は、皆妄見に由る、真を求むることを用いざれ、唯須らく見を息むべし
(しゅゆもへんしょうすれば、ぜんくうにしょうきゃくす、ぜんくうのてんぺんは、みなもうけんによる、しんをもとむることをもちいざれ、ただすべからくけんをやむべし)
須臾とはたちまちということ。返照とは絶言絶慮のこと。さて、般若心経にたくさん出てくる 空 とは万物は変化する故に実体はないということで、説明としては正しい。ただし、変化するというのは A→B という二つの要素を比較しないと成り立たない話。ですがね、いつもたった今っきりしかないじゃないですか。そしてたった今は一つっきり。つまり 過去=前 が存在しないと変化するって言わないんです。過去ってないでしょ。だから、空 っていうのは説明なんです。たった今の事実じゃないんです。たった今を言葉は表現できないんです。
正しい説明だからといって、それについていかないでください。空想の世界をさまようことになります。正しいからこそ注意が必要です。須臾も返照すれば、前空に勝却すっていうのは、たった今は説明以前にありっていうことですよ。
二見に住せず、慎んで追尋すること勿れ、纔に是非あれば、紛然として心を失す、二は一に由て有り、一も亦守ること莫れ(にけんにじゅうせず、つつしんでついじんすることなかれ、わずかにぜひあれば、ふんぜんとしてしんをしっす、にはいつによってあり、いつもまたまもることなかれ)
正しい説明だからって、それがあると思うのは間違いです。正しい があれば必ず 間違い っていうのもあるってなっちゃう。あるって思うからそれを追いかけたり、反省してなくそうとしたりする。追いかけても無いものはつかめない、いじれない。出来ないことをすれば苦しい。夢の中で苦しんでいる間、たった今が見えなくなる、おろそかになる。乱暴になる。それを心を失すと言っています。二=×、一=○。
一心生ぜざれば、万法に咎なし、咎なければ法なし、生ぜざれば心ならず
(いっしんしょうぜざれば、ばんぽうにとがなし、とがなければほうなし、しょうぜざればしんならず)
思いの中身が ある ってならなければ、あるのは明々白々な現物のみです。それも、たった今には常にひとつっきりしかないもんだから、どうやったって迷えない。良かろうが悪かろうが、そんなことに関係なく迷えない。万法に咎なしとは、一切の存在に引っかかりがないということ。咎なければ法なしとは、引っかかりがなければ仏教もないよっていうこと。思いの中身があるって思わんでくれっていうのが仏教なんですから。
なんだ、それだけかよって思うかもしれない。だけど現物の自分以外にもうひとつの思いの自分なんていうのがあるおかげで、あんたはどんだけ苦しんできたか。現物の自分にも周りの人にも不利益と混乱をもたらして。よーく思い返してみて下さい。
神や悪魔があるおかげで阿鼻叫喚の世界史になっちゃっているじゃないですか。諸悪の根源とは 思いの中身がある っていうことを指して言うんです。
思いだってたった今に起きている明々白々な現物です。だけどそれを生ぜしめている 心 なんていうのは空想の産物です。
能は境に随って滅し、境は能を逐うて沈す、境は能に由て境たり、能は境に由て能たり、両段を知らんと欲せば、元是れ一空、一空両に同じく、斉しく万象を含む
(のうはきょうにしたがってめっし、きょうはのうをおうてちんす、きょうはのうによってきょうたり、のうはきょうによってのうたり、りょうだんをしらんとほっせば、もとこれいっくう、いっくうりょうにおなじく、ひとしくばんぞうをふくむ)
能とは我々の体の働きのこと。境とは環境のこと。さて、観念では自分と畳を分けて、自分が畳を見る ってなことを言ってそう思っているでしょう。だけど実際自分の身に起きていることといえば、畳、時計の音、さつきの花の匂い、ご飯の味、お尻の下の椅子の触感、思い、以上。それだけ。私が畳を見ているという感じがどこにもない。
畳からの光が網膜で電気信号に変換されて脳味噌スクリーンに到達するまでの間、すなわち自分が畳を見ると言っている間のことは認識されない領域。脳味噌スクリーンに映し出された瞬間にただ畳。ただ畳。この畳は畳からの信号と脳味噌スクリーンと二つないとこの世に存在しない。畳という信号がなければ畳は存在しないけれど、映し出すスクリーンの能力とキャパの範疇の中でしか畳は存在しない。10人いたら10の畳があるわけだ。だから真実なんていうのは存在しない。その人にとっての事実があるだけだ。その事実も、畳も変化し自分も変化し、刻々と新しい。
事実としては、自分とか見るっていうのがどこにもない。ないのに 自分が畳を見る なんて変なこと言うなよと。思いの中身が ある と思うなというのはこういうことです。
精粗を見ず、寧ぞ偏党あらんや、大道体寛にして、難無く易無し
(せいそをみず、いずくんぞへんとうあらんや、だいどうたいかんにして、なんなくいなし)
細やかとか粗いとか、大きいとか小さいとか、きれいとか汚いとか、人の見方です。存在そのものとは関係がない。偏党とは前出の能か境かいずれかへの偏りという意味。私にとっての畳とはどこまでが電気信号でどこまでが脳味噌スクリーンの性質だと分けられない。不可分です。この世のすべての存在は、存在とそれを映し出す自分とのコラボレーションの結果です。一体です。だから 自分 だけ取り出すことが出来ないんです。映し出す性質、ってのだけが独立して認識できると思いますか?
思いの中では自分と環境と分けていても、そういうことは起きていないということです。あなたの思いの中の 自分 というのは存在していないということです。寛というのは大きいということですが、そりゃそうですよ、この世のすべてがあなた自身でもあるわけだから。
それも努力してそうなっているわけではないし。
小見は狐疑す、転た急なれば転た遅し、之を執すれば度を失して、必ず邪路に入る、之を放てば自然なり
(しょうけんはこぎす、うたたきゅうなればうたたおそし、これをしゅうすればどをしっして、かならずじゃろにいる、これをはなてばじねんなり)
人間が悪さをするのは、自分を時折起きる自分という思いだけだと誤認しているからだと思います。時折起きるわずかな電気信号を。矮小化です。自分なんてちっぽけなもんだと縮こまってしまうことを急って表現しています。狭めてしまう。狭めた分だけ働きも鈍ってしまうもんです。これを遅いと表現しています。こんなもんを自分だと思えば心細いし、情けなくてそいつに執着したくもなるでしょう。生きた証だなんて言って執着の記録を残したくなって、良いこととか悪いこととか、人に注目されることをやりたくなってくるんでしょう。
それに対して本当はこの世のすべてが自分だとなれば、感動です。大きすぎて執着なんか出来ません。この世のすべてが自分というのは、自分が無いのと同義です。まず、あるがままの人でいられます。時々必要に応じて必要な事を必要なだけやるだけの人間でいられます。その人なりの能力がフルに発揮されます。
体に去住無し、性に任ずれば道に合う、逍遙として悩を絶す、繋念は真に乖く、昏沈は不好なり、不好なれば神を労す、何ぞ疎親することを用いん
(たいにきょじゅうなし、しょうににんずればどうにかなう、しょうようとしてのうをぜっす、けねんはしんにそむく、こんちんはふこうなり、ふこうなればしんをろうす、なんぞそしんすることをもちいん)
今、身に起きていることを変化する=去る、とは言いません。立った今はひとつきりだからです。だけど変化しない=住む、訳ではないですね。性に任ずるとは説明以前のありようのことです。説明=思いの中身、があるなんてことがなければ、惑わされることはありません。なんたって全部あることだけですから。繋念とはこんがらがった思いのことですし、昏沈とはそれを抱えて沈んじゃった様子です。そもそも今身に起きていることを言葉に置き換えられると思ったのが間違いの始まり。さらに置き換えられた言葉の中身が、目の前の畳のように ある と思っちゃったことが間違いの発展系。できないこと、ないものを、出来る、あるってやっていれば病気です。気の病と書くでしょう。間違っているんだから。
言葉、説明、思いすべて符号となれば、どの思いを避けてどの思いを重んずるなんていう選別はおきません。疎や親はおきないんです。
一乗に趣かんと欲せば、六塵を悪むこと勿れ、六塵悪まざれば、還て正覚に同じ、智者は無為なり、愚人は自縛す、法に異法無し、妄りに自ら愛着す
(いちじょうにおもむかんとほっせば、ろくじんをにくむことなかれ、ろくじんにくまざれば、かえってしょうがくにおなじ、ちしゃはむいなり、ぐにんはじばくす、ほうにいほうなし、みだりにみずからあいじゃくす)
一乗とは自分というのが身心共にない様子を表した言葉です。正確に言えば有るとか無いとかの議論すらない様です。あるのは畳、鳥の声、草の香り、お粥の味、お尻の下の圧迫感、思い、これらの中に自分というのは出てこないんです。鏡に映っているこの体を自分とは言わんのかい?って思うでしょう。言いませんよ。例えば タタミ っていう言葉から連想されるのはイメージ=脳の電気信号であって現物の 畳そのもの とは関係ないでしょう。現物の畳が言葉に置き換えられることはないし、言葉も、それが示すイメージも現物にくっついたりはしません。だから鏡に移っているその体を自分なんていう風に呼ばないんです。
あとは時々思いとして出てくる 自分 というのが、現物の畳と同じように ある なんていう風に思わなければ、さあこの世に自分というのがあるとかないとか言う議論そのものが存在しないんです。そういうのを一乗と言っています。
六塵とは畳、鳥の声、草の香り、お粥の味、お尻の下の圧迫感、思い、これら六つの領域の中で時として現れる、あなたが嫌いと説明をくっつけたくなるようなものを指して言っているんです。誰にでもあることです。ただし、その説明の中身が現物の畳のように ある と思うとうっとうしくなるもんです。憎みたくもなってきますし、なんとかそれを無くしたいとも思うでしょう。
だけど思いの中身が ある っていう風でなければ、思いは単なる思いで了わっちゃうもんです。それを正覚と名付けています。
智者と愚人の唯一の違いは、思いの中身があると思うか否かというだけなんです。
法とは一切の存在のこと。たった今にある存在そのものはどれも人間の説明以前の存在です。時々あなたがそれに本当はくっつかないにもかかわらず、説明がくっつくと思い込んで良し悪しを言い、なおかつそれが ある ってな間違いをしているだけです。
心を持って心を用う、豈大錯に非ざらんや、迷えば寂乱を生じ、悟れば好悪なし、一切の二辺、妄りに自ら斟酌す、夢幻空華、何ぞ把捉に労せん、得失是非、一時に放却せよ
(しんをもってしんをもちう、あにだいしゃくにあらざらんや、まよえばじゃくらんをしょうじ、さとればこうおなし、いっさいのにへん、みだりにみずからしんしゃくす、むげんくうげ、なんぞはしゃくにろうせん、とくしつぜひ、いちじにほうきゃくせよ
たった今という一点において、自分の様子を自分が眺めることが出来ると思いますか? 物理的に出来ないんです。自分が発する思いを自分が同時モニターすることは出来ません。ですが脳味噌の反応スピードにだまされるんですねー。ある思いの直後に 自分
という思いが起きると、あまりの瞬時の出来事に 自分が自分の思いを眺めているって錯覚するんですねー。同時モニターしていると思ってしまう。目の前にある思いをいじれるような気になる。だから反省したり、消しゴムでダメな思いを消そうとしたりする。おまけに思いの中身も、自分という思いも ある ような気がしているもんだから、思いをめぐらせる先に実のある解決があるような気がしている。工夫だとか言って。
これらおしなべて錯覚なんです。出来ないことなんです。出来ないことを出来ると思ってやると際限がなくなります。夢の中をさまようんです。苦しいんです。その間、目の前の現物との交流はおろそかになっています。
そのうち思索を重ねた結果だからとか言って 信じる なんてことを始める。いよいよ精神病が始まります。神や悪魔との契約だとか言い始めると、目の前の現物との遊離甚だしい。乱暴になり野蛮になる。
把捉とはつかむということ。夢の中の華をどうしてつかむことができようかって言っています。
得失是非とは、思いの中身が ある と錯覚し、さらに 思い に善し悪しの説明がくっついちゃっている人の様子です。
悟りって思いの中身が ある ってなことがなくなることなんです。ただ思いだけ。思いに良さそうーとか、悪そうーっとかいう説明もくっつかない。ただの 思い、っていうのは 畳 と同じ現物なんです。現物はどんなもんでも人の良し悪しという説明以前にあります。
眼若し睡らざれば、諸夢自ずから除く、心若し異ならざれば、万法一如なり、一如体玄なり、兀爾として縁を忘ず、万法斉しく観ずれば、帰復自然なり
(まなこもしねむらざれば、しょむおのずからのぞく、しんもしいならざれば、まんぼういちにょなり、いちにょたいげんなり、ごつじとしてえんをぼうず、まんぼうひとしくかんずれば、きふくじねんなり)
眠らざれば夢を見ざるがごとくに、心を持って心を用いるなどという錯覚を起こさなければ、たった今は常にたったひとつ。映し出す鏡としての自分というのはどこにもない。ただ畳、パソコンの電源の音、コーヒーの味、雨の匂い、皮膚の痒さ、たったひとつの思い。この思いとしてたまに出てくる 自分 というのだって何かを表したり、くっついたりするなんていう錯覚なければその時存在するたった一つ。どこにも自分の存在がない。
さて、今述べたことが 分かっている というのも錯覚なんです。たった今という一点において、畳 と 畳と分かっている というのが同時にあるわけないでしょう。畳という現物と畳という認識作用は同時に起きていません。
つまり、ある時 畳 だけ。ある時 畳という認識作用 だけ。それでどんなものにもその直後に認識作用が起きるものだから、どんなものもタイムラグがあるにはちがいないけれど分かっているわけです。
時に認識作用が起きないときがあります。そういう時はすべてがありません。ありませんもありません。認識作用のない時でも五感からの情報は脳みそに届いているはずですが、まったくの無。認識作用が無いというのは、意識の上での無い、というのとまったく違うっていうことは想像できますか。
これを兀爾として縁を忘ずと言っています。
私の場合、座禅の初めに鳴らす鐘の音は分かった。その次にいきなり座禅の終わりを告げる鐘の音。いつから、どれくらい認識作用がなかったかは分かりません。いきなりこの世のすべてが現れ出る。驚きました。
これを忘我とか悟りとか言っています。
今まで、分かっていることがこの世のすべてだと思っていたんです。分かっていること=一切の存在だと思っていたんです。
ですがそうじゃありませんでした。分かる以外の状態がこの身に起きていたんです。分かる以前の状態があったんです。
あったというと変ですが、とりあえずそう言わせて下さい。
たった今の一点において自分が自分を見ることはできない、ということがあるんです。
不識なるものが自分の本体なんです。自分の正体なんです。
不識なる本体の直後に現れる 分かっている 状態を本体だと思っていたんですが、違っていました。
分かるという認識作用は電気信号ですもんね。
分かっていることがこの世のすべて、というのから 分かっていることも自分の一部 っていうふうになりました。
この違いは大きいです。思いの重みが一気にとれて流れ出す雲や吹き抜ける風になります。
万法=一切の存在を、斉しく=正しく観れば、帰復=元に帰ることは自然なことさ、って言っています。
正しく観るには、分かっている以外のことを体験する以外にありません。
なぜかと言えば誰にでも無の本体があるからです。畳と分かる以前の状態が必ずあるんです。ただ、それを知ることが出来ないだけで。知ることが出来ないからこの道を志す人の苦労というのがあるんですね。
通常知っている事がこの世のすべてである以上、やはり思いの範疇の中での工夫で対処しようとしますよ。
必ず全員そうします。ですが思いの中味が実在することと違うという疑念を強烈に持つ者のみが、それ以前の無にたどり着くことができるのです。意識の自殺願望ということです。
私は東山寺で出家して以来25年もたった頃だろうか、東山寺の接心には欠かさず参加していた。だけど雪担師との独参の時、一緒にいるときに、分かっていること が常にベールのように 師匠と私のあいだにあって邪魔でしかたがなく、息苦しくてしかたがなく。そんな状態が続いていた。ある接心でインターネットを見て東山寺に来たであろう女の子が ふつうに 過ごしている、歩いている、話している様を見て、つくづく自分が情けなくなった。おまえは坊さんだなんて偉そうにしていて20何年? 雪担師の正伝の仏法の継承者のようなふりをしている偽善者。なんにも知らない女の子のようにすら出来ないとは。情けないことこの上なし。恥ずかしいこと限りない。おまえのような奴は生き埋めにされても仕方ない。偉そうにこんな坐禅会にいる資格もなし、ってそう思った。多分その時は玄関で三拝して家へ帰ったと思う。
それからしばらく後の玖延寺の接心に雪担師に来てもらったときに、忘我があった。
私には意識の自殺願望が強烈にあった。だから死ねたと思う。無に出会った思う。
釈尊が菩提樹の木の下に坐るまでのいきさつは、紆余曲折は、最後は意識の自死状態にたどり着いたと思う。全員が同じ道を辿って無に出会うのだと思う。大陽警玄さんの逸話を思い出して下さい。道元禅師の命がけの中国への渡航と求法の旅は人生のすべてを捧げるものだった。悟る以前の人間にとって 分かっていること とは、この世のすべてじゃないですか。この世のすべてにお別れをすることができない限り、あるいはそのすべてを捧げることができない限り 無 は手に入らないんです。
其の所以を泯ぜば、方比すべからず、動を止むるに動なく、止を動ずるに止なし、両既に成らず、一何ぞ爾ること有らん、究竟窮極、軌則を存せず、契心平等なれば、所作倶に息む
(そのゆえんをみんぜば、ほうひすべからず、どうをやむるにどうなく、しをどうずるにしなし、りょうすでにならず、いちなんぞしかることあらん、くきょうきゅうきょく、きそくをそんせず、かいしんびょうどうなれば、しょさともにやむ)
其の所以、つまり忘我に至る因縁とは、泯ずる即ち辿るの反対、尽きていく様を示すならば、まず、動と止が同時にあるっていう錯覚を免れること。動の時は動だけ、止の時は止だけ。だから動を止むるということは起きていない。止を動ずるということも起きていない。
そして動を動って言うことも出来ない。止を止と言うこともできない。ものごと止まっていない。軌則とはものが止まっていることを指す。この世の一切が、・・・・は ~ なんだよねーって言うことができない。
やることがなくなるんです。
それだけにならざるをえないじゃないですか。
所作すべてやむんです。
急に忘我です。
狐疑浄尽して、正信調直なり、一切留らず、記憶す可きこと無し、虚明自照、心力を労せざれ、非思量の処、識情測り難し
(こぎじょうじんして、しょうしんちょうじきなり、いっさいとどまらず、きおくすべきことなし、きょめいじしょう、しんりきをろうせざれ、ひしりょうのところ、しきじょうはかりがたし)
・・・・は ~ なんだよねーって疑いなく信じていることを狐疑って言います。とりつく島も無しって言うじゃないですか。
浄尽してとはすべて尽きること。正信調直とは、ものごとをありのまま見ることです。まっすぐ見ることです。
記憶す可きこと無しっていうのは、留めておくことが出来ないっていうことですよ。
心力とかいう意の上での工夫で、何かが何かになるなんて、それは夢です。
非思量とは・・・・は ~ なんだよねーって言えないっていうことです。
測り難しとは、何かを言葉で規定することが出来ないっていうことです。
いよいよ言葉が尽きますよね。
単純にならざるを得ないんです。
禅とは単を示すって書くでしょう。
真如法界、他無く自無し、急に相応せんと要せば、唯不二と言う、不二なれば皆同じ、包容せずと言うこと無し、十方の智者、皆此宗に入る
(しんにょほっかい、たなくじなし、きゅうにそうおうせんとようせば、ただふにという、ふになればみなおなじ、ほうようせずということなし、じっぽうのちしゃ、みなこのしゅうにいる)
真如法界とは、言葉が本来の姿に帰り着いている様です。目の前に現物の 畳 がある。それを タタミ という言葉で表現する約束にした。もともと現物の 畳 と タタミという言葉 は別のものでしょう。全く関係が無い。タタミという言葉は電気信号です。その電気信号の中味が現物の畳と同じように ある わけはないでしょう。
同じように 現物の自分 の他に 思いの中の自分 があるわけはないでしょう?
だけどそうじゃなくて、あなたには、その思いの自分が ある んでしょう。自分があれば、それ以外 もある。もとは電気信号の中味が ある って間違ったことを想像したところから始まっているんです。
そんじゃあ、現物の自分 があるじゃないかって言うかもしれないけれど、たった今という一点において自分が自分を知ることができると思いますか? 自分とはたった一人しかいないんですよ。知ることは出来ないんです。この世に自分というのはどこにも出てこないんです。
言葉という電気信号の中味が ある っていうことから免れなければなりません。免れれば言葉は道具。本来の姿に落ち着くんです。重さを失った電気信号。流れる雲。
一度 思いの自分 というのを失って下さい。そいつが最も古くから頑迷に刷り込まれたイメージだから。そいつを失えば他すべての言葉に直結したイメージを失うことになります。
そうなると、あなたの身に起こっていることは、畳、パソコンの音、触感、匂い、味、思い、それらのうちのたった一つがたった今にあるだけ。してみると 思いの中味がある ということだけが余分だったんです。
仏祖師と呼ばれる我々の先輩方も、皆この道を辿って同じなんです。
宗は促延に非ず、一念万年、在と不在と無く、十方目前、極小は大に同く、境界を忘絶す、極大は小に同じく、辺表を見ず、有即ち是無、無即ち是有、若是くの如くならずんば、必ず守ることを須いざれ
(しゅうはそくえんにあらず、いちねんまんねん、ざいとふざいとなく、じっぽうもくぜん、ごくしょうはだいにおなじく、きょうがいをぼうぜつす、ごくだいはしょうにおなじく、へんぴょうをみず、うすなわちこれむ、むすなわちこれう、もしかくのごとくならずんば、かならずまもることをもちいざれ)
事実は常に目の前にある。これを得るのに 促=早い とか 延=遅い とかあるわけもなし。そもそも目の前にあるのに得るなんておかしい。膨大な仏祖師方の教え?
笑わせるな、いっつもたった今の一念きり。1+1が2だって? 目の前のものよく見てごらん。1+1は1+1にしか見えない。現物の畳 に タタミ という符号がくっつかないのと同じように、現物は現物。大小、境界、表裏、有る無し、これらすべて人の思い=電化信号だから。現物と電気信号は関係が無い。現物が電気信号に置き換えられたりしない。現物に電気信号がくっついたりもしない。電気信号という点において、大も小も同じ、有も無も同じ。
1+1が2になっちゃう人は本当に真剣に反省しないといけない。生涯において1度でいいから大懺悔しなくてはいけない。
何をかって、あんたには観念の中味が ある からです。これは一事が万事なんですよ。あれば守るものができてきちゃうでしょう。電気信号の世界以外では、守るものも守る人も存在しませんから。
一即一切、一切即一、但能く是くの如くならば、何ぞ不畢を慮らん、信心不二、不二信心、言語道断、去来今に非ず。
(いっそくいっさい、いっさいそくいち、ただよくかくのごとくならば、なんぞふひつをおもんばからん、しんじんふに、ふにしんじん、ごんごどうだん、こらいこんにあらず)
一切って言うと何か膨大な一切があるように思っているあんた、目を覚ませ。常にあなたにはたった一つしかないから。人間がたった今に認識できるのは常にたった一つだけだから。それしかないから。たった一つしかなければ何かが何かになるなんてこともないから。修行なんてことも起きえないから。
それさえ腑に落ちてくれれば、不畢=未完成とか、終わっていない、なんてこと言って悩むことはなくなるでしょう。
ですがね、たった今の一つ以外に、思いの中味がちらっとでも ある と思った瞬間に二つに思えてきちゃうんです。だけどそうは言っても、二つに思えるというたった一つの思いが今にあるだけなんですけど。
というわけで、何がどうあろうと我々は不二の真実からはずれることはないんです。
目くそ、鼻くそも不二の真実からはずれません。そいつを肝に銘じてお坐りなさい。
言葉を本来あるべき姿にお戻しなさい。そうすりゃ、言語道断なんてこと言わずにすみますから。
去=過去や、来=未来が無いなんてことは見れば分かる。
そんで最後に、さんざん説明で使わせてもらった たった今 なんていう便利な道具におさらばして、坐ることにしましょうや。
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