<普勧坐禅儀>
十三歳で出家して比叡山の修行僧となった道元禅師が仏典の中に見た最初の疑問が 「本来本法性 天然自性身」 だと言われています。法性 とは悟りを開いた存在という意味ですが、「人間とは、本来悟りを開いた存在である」ということならば、何故わざわざ修行をしなければならないのか?というごくまっとうな疑問を持たれました。論理的に説明できないことをほっておけない性質の方でした。これは人間共通の疑問であるはずですが、疑問に解答を与えようと努力して結果を出した人は昔も今も本当に少ないようです。 道元禅師の疑問解決のための旅は、延暦寺から建仁寺へ、さらには宋へ渡り諸山遍歴二年の後その疑問に答えてくれる師匠 如浄禅師に出会いました。如浄禅師のもとでの修行二年の後 心身脱落 という体験をします。「本来本法性 天然自性身」を体験したということです。体験をしすべての疑問が氷解した道元禅師が建仁寺にもどり最初に著したのがこの 普勧坐禅儀 です。ここに仏教のすべてがあります。後に膨大な 正法眼蔵 が著されますが、これは道元禅師が弟子との出会いの中で必要を感じて著さざるをえなかった 普勧坐禅儀への補足の意味合いがあるようです。
普勧坐禅儀の原文は現在永平寺に国宝として保存されていますが漢文です。これを一般的な書き下し文として説明していきます。
原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん。(たずぬるにそれ、どうもとえんづう、いかでかしゅしょうをからん)
宗乗自在、何ぞ功夫を費やさん。(しゅうじょうじざい、なんぞくふうをついやさん)
況んや全体迥かに塵埃を出ず、(いわんやぜんたいはるかにじんないをいず)
孰か払拭の手段を信ぜん。(たれかほっしきのしゅだんをしんぜん)
大都当処を離れず、(おおよそとうじょをはなれず)
豈に修行の脚頭を用うるものならんや。(あにしゅぎょうのきゃくとうをもちうるものならんや
原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん。
「本来本法性 天然自性身」がわからんと言って旅の出発をした道元禅師が、旅の終着に同じことを言ってます。道とは仏道ですが、もののありよう と言い換えてください。円通はパーフェクトという意味ですが、何か悟りの完全無欠のすばらしい境地があると思っては間違いです。人が手をつけることができない、と解釈してください。ですから修行(修)の結果、その証明として悟り(証)を開いて得るとか、得ないとかいう問題ではないよということです。なんのこっちゃ?でしょう。
一切の存在がまずある、人の説明に関係なく。説明以前にすでにある。これがこの一文の意味です。
意味はともかく、道元禅師はこれを自分の実感として言っています。一切のものに説明がくっつかなくなっているのです。そうなるともう
一切がこうある、というぐらいしか言葉にはできません。修行だの悟りだの、はたまた幸せだ、不幸せだ、そういうこと言わないでいられる救いっていうのがあります。
宗乗自在、何ぞ功夫を費やさん。
宗=大切なもの、が自らの上にあるとは、自分自身も説明以前の存在ですということ。人が工夫をして得るものじゃないということです。
況んや全体迥かに塵埃を出ず、
塵や埃を汚いというのは人の説明です。一切が説明以前の存在です。ですから一切はきれいでもなく汚くもなし、人がその時の都合によってする次元の話をしているのではないですよということです。
孰か払拭の手段を信ぜん。
孰かは疑問詞。もともときれいでもきたなくもないものになんで塵や埃を拭き払うものが必要か?必要じゃないよということです。
人は自分が未熟でうだつがあがらないところがある、だから一生懸命修行をしてちーとでも良くなって・・・、って勝手に説明をするところがあります。自分に塵がついているから、それを払う工夫が必要だうんぬん、これすべて説明ですから。自分で勝手に作り話をしておいて、それに結論を出そうったってできない相談です。説明の中身は今、目の前のことじゃないからです。ないものはいじれないのです。
大都当処を離れず
説明以前の存在とはたった今(当処)のできごとのことです。すべてたった今を離れてなし。よくも瞬時、瞬時に変化をしてたった今を限定することもできないけれど、どうやったってたった今に生きているほかはなし。
豈に修行の脚頭を用うるものならんや。
たった今は人が修行して得られるもんじゃなくて最初からあるのです。説明とは、説明する対象物がまずあり、その後の話でしょ。なぜこの世のものがこのようにあるか?という質問は、何故原子がこの世にあるか、という質問と同じで、答えはないのです。人間もそうですけど、一切のものは説明以前の存在として、説明不能の存在としてあるのです。
然れども毫?も差あれば、天地懸かに隔たり、(しかれどもごうりもさあれば、てんちはるかにへだたり)
違順纔かに起これば、紛然として心を失す。(いじゅんわずかにおこれば、ふんぜんとしてしんをしっす)
ごうりとは、髪の毛一本分のほんのわずかな差のこと。違は×、順は○、すなわち説明のこと。
人間の不幸は、というか進化の未熟は、自らの脳の反応スピードにだまされるということがあります。まず存在がある、その瞬時の後脳が説明をする。すると存在と説明がくっついてあるように見える。我々は存在の中に生きているんだけれど、説明の中に生きているような錯覚を持つことがある。そうなると説明に影響されてしまう。何度も言うように説明の中身は今目の前にないこと。ないことに影響されることを迷いと言う。ないことだけど本人にはあることのように思ってしまうものだから、思いをいじろうとする。ないことはないこと、結論が出るなんていうことはない。それを知らず迷いの迷路の中にはまってしまう。ないものはないものとしてそれを証明する、これが悟りです。証明されれば、それを用いることはあっても、用いられることはなくなる。脳みそ、説明ってホントは随分便利な道具なんです。なぜって他人の経験の概要をいただくことができる。赤道直下に生まれた人間でも、アラスカに行ってその住人から過去の経験を言葉を通じていただくことができる。おかげで世界中に人間はびこっちゃったわけだけど、こんな便利な道具は人間だけの特権ですね。道具に用いられるのを迷いという、道具は用いるものです。
直饒い会に誇り、悟に豊にして、瞥地の智通を獲、(たといえにほこり、ごにゆたかにして、べっちのちつうをえ)
道を得、心を明らめて、衝天の志気を挙し(どうをえ、しんをあきらめて、しょうてんのしいきをこし)
入頭の辺量に逍遥すと雖も、(にっとうのへんりょうにしょうようすといえども)
幾ど出身の活路を虧闕す。(ほとんどしゅっしんのかつろをきけつす)
瞥地とは、あるところをちらっと見るという意味。衝天の志気とは、やったー、という舞い上がった気持ち。入頭の辺量に逍遥す、については
空海さんが四国を歩いていた時、夜空の星が自分の頭の中に入ってきたという逸話があるなーって、雪担師が言ってたっけ。そんなこと言ってるようじゃ話になんないけどなっ、とも言ってたけど。出身の身とはすべての観念を代表して指すのです。だって身、体っていうのは、実は観念なんです。よくよくじぶんの身に起きてること見てごらんなさい。事実だけを。景色はあったってどこをどう探したって自分の目っていうのは出てこない。音はあっても自分の耳を意識することはできない。音が鼓膜を振動させて電気信号に変換されて、脳に到達したとき初めて音が出現する。音の振動源から耳そして脳までというのは我々には認識できない領域です。ないのです。目、耳、鼻、舌、っていうのは事実としては存在しないのです。同じように触感はあっても体っていうのあるんですか?思いはあってもそれを発している脳の存在を知れるのか?ましてや心なるものがあるのか?ないのです。身心共になしっていうのが事実なのですよ。ないものを観念というのです。
出身の活路というのは観念以前の事実のみの世界に触れてみると、観念に影響されない実に素な生活ができているということなのですが、虧闕すとは欠けていること、できていないということです。中途半端坐禅をして、やれあれがあった、これがあった、こんなすごいことがあったって自慢しているあなた、そりゃダメですよっていうことです。自慢する対象物があり、状態があるっていうのは、説明するからです。本当に説明しなかったらどうなるかというと、記憶がなくなるのです。こりゃーもー全然違うことです。もうひとつ、自慢をするということはどういうことか。自分という観念に影響されて、自分がかわいくて、かわいくてっていうやつ。身心共になしというのが事実なのに、どうしても事実のみの世界に安住できないという妄想の世界の住人。事実のみの世界=説明ゼロの世界=記憶ゼロの世界、これを悟りとも忘我とも言っています。観念に影響される=どっかで観念が実在するかのような錯覚、がゼロになった体験でもあります。ずっーと忘我ってことはないけれど、いつのまにか観念に影響されなくなっているってことがあります。
矧んや彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし。(いわんやかのぎおんのしょうちたる、たんざろくねんのしょうせきみつべし)
少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ。(しょうりんのしんいんをつたうる、めんぺきくさいのせいめいなおきこゆ)
古聖既に然り、今人盍ぞ弁ぜざる。(こしょうすでにしかり、こんじんなんぞべんぜざる)
祇園の生知とはお釈迦様のこと。お釈迦様は六年も難行苦行をされた。少林の心印とは印度から中国へ渡って仏教を伝えた達磨大師のこと。面壁とは坐禅のこと。達磨大師は九年もわき目も振らず坐禅に打ち込まれた。古の大先輩方ですらこんなにがんばって法のためにすべてをささげてこられた。今の時代に生きる皆よ、どうして一生懸命にならずにいられようか。と道元禅師は我々を励ましていらっしゃいます。
私が思う一生懸命とは、第一に正しく道理を知ること。第二に自分の満足のためにするものではないということが手に入ること。第三に一生懸命に坐ること。以上です。ことに二番目が大切です。皆自分がかわいくて、満足したい、ちーとでもりっぱになりたい、人に認められたい、なんだかんだすべて自分のため。仏教が示しているのは説明、観念以前の世界なのに、仏教まで自分=観念のためにやっている。もーこれは根本的に間違っています。どこかで大反省せにゃスタートラインにつけません。自分かわいいと、自分の思うこと、やることに まる をつける。まるがあるってことは ばつ もあるわけで、狭−い枠のなかに閉じこもって分別臭いこと言う発展性ゼロの人間の誕生です。そういう奴の目開かせるために仏教あるのに、てめーがそれやっていたんじゃー道元禅師が泣くってなもんです。雪担師は坐禅は坐禅のためにす、と言っていました。
所以に須らく言を尋ね、語を逐うの解行を休すべし。(ゆえにすべからくことをたずね、ごをおうのげぎょうをきゅうすべし)
須らく回光辺照の退歩を学すべし。(すべからくえこうへんしょうのたいほをがくすべし)
身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。(しんじんじねんにだつらくして、ほんらいのめんもくげんぜんせん)
恁麼の事を得んと欲せば、急に恁麼の事を務めよ。(いんものじをえんとほっせば、きゅうにいんものじをつとめよ)
我々は五感から外の情報が入り伝達され脳みそスクリーンに映し出された瞬間に自分と環境が一体になっています。この状態の時が環境と一番親しい。言わば微妙、鮮烈。しかし環境情報も脳みそスクリーンも絶えず変化する。こういったものから共通の属性ごとにことばに置き換えて、データとして保存する。事実の微妙をみれば、この作業がどれだけおおざっぱで事実とかけ離れているかがわかる。また絶えず変化する瞬間をとって言語表現するのだけど、その時には事実はもう先に行ってしまっている。言語表現、観念表示をすればするほど事実とかけ離れていく。かけ離れるほど危険、野蛮。事実と離れるから危険なんです。野蛮をやってしまう。目の前にないことだからいじることができないのにいじろうとする無理をして心の病になる。考えることを進歩、ともし言うのであれば、我々は退歩を是非学ばなければなりません。なんたって事実そのもの、自分の家に坐っている迷いのなさ。学ぶといって知るのではなく知らないのを学ぶ。要は事実から泳ぎださないでいられるかどうかっていう話です。この力充つる時、事実だけになる時が、ふいにある。こちらからなにかしようという働きかけゼロの時だから ふいにです。記憶ゼロ。恁麼とは目の前のこれ。とどのつまりとか、究極のところとかいうものものしい解釈が一般的。だけど これ。目の前の これ欲しいっていうの変でしょ。もうすでにあるのに。
夫れ参禅は静室宜しく、飲食節あり。(それさんぜんはじょうしつよろしく、おんじきせつあり)
諸縁を放捨し、万事を休息して、(しょえんをほうじゃし、ばんじをきゅうそくして)
善悪を思わず、是非を管すること莫れ。(ぜんなくをおもわず、ぜひをかんすることなかれ)
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて、(しんいしきのうんてんをやめ、ねんそうかんのしきりょうをやめて)
作仏を図ること莫れ。豈に坐臥に拘わらんや。(さぶつをはかることなかれ。あにざがにかかわらんや)
坐禅は静かな部屋でおやりなさい。飲食を節制してというのは体調をベストに整えて、縁を捨てとは仕事他諸々娑婆での仕事をお休みにしてすべきことなしの状態をつくり、とこれは後ろ髪を引かれる状態ではなく、物理的、精神的に坐禅に集中する環境をつくりということです。娑婆での諸々は 振り返る ことを抜きには成り立っていません。この効用を使えるのは人間の特権ですが、今のところ弊害がその何十倍もあるというのが実際です。進化の未熟です。ですからこれを正すには一度 振り返らなくてもいい 環境を人為的に作り、それに没頭する必要があるということを言っています。出家の生活のメリットです。これは、ねばならない、ではなく、のほうがよいと捉えるべきです。出家もいろいろ、在家もいろいろです。
善悪、是非というのは人間が後からその時の都合によってつぶやいていることであって、あらゆる存在は本来良くもなく悪くもない。仏教は人間の決めごとを勉強するものじゃーない。存在そのものに救いがあるということを体得するものなのだ。だから心意識の運転を停めてみるということ。ただひとつ、われわれが期せずして起きてくる思い、これは存在の分類です。あとからふりかえって良いの悪いのっていうのを心意識の運転と言ってます。念想観の測量を止めも同じこと。
それでいよいよ心意識の運転を停めという坐禅が始まるわけだ。んー?なんか変だ。運転を停めっていいながらふりかえっている、全然やまっていない。まずこれに気付くこと。運転を停めっていって肩肘はっているのを作仏を図ると言っている。こういうやから結構いる。んーでこういう奴に限って、僕りっぱなことしてますって顔して偉そうにしている。自分の醜さ、滑稽さを知る、あるいは心から恥ずかしいと思うこと。仏教の示すもの、なーんも偉くない。雪担師はただの人って言ってた。坐臥に拘わらんは、今言っていることは坐禅、その他の仕儀に関係なく四六時中の工夫であるということ。
尋常坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用う。(よのつねざしょにはあつくざもつをしき、うえにふとんをもちう)
坐物とは座布団の少し大きい位の大きさになる敷物。足、膝長時間座って痛くないように。蒲団とはおしりの下に敷く坐布のこと。
或は結跏趺坐、或は半跏趺坐。(あるいはけっかふざ、あるいははんかふざ)
謂く結跏趺坐は先ず右の足を以って左の腿の上に安じ(いわくけっかふざはまずみぎのあしをもってひだりのもものうえにあんじ)
左の足を右の腿の上に安ず。(ひだりのあしをみぎのもものうえにあんず)
半跏趺坐は但だ左の足を以って右の腿を圧すなり。(はんかふざはただひだりのあしをもってみぎのももをおすなり)
読んで字のごとくです。できるだけこのようにするのが良いようです。良いようですとは私は坐骨の関係だかどうもうまく坐れません。参禅の友人がたまにそういう人がいるようだよとレントゲン所見で教えてくれました。それでも慣れの問題、坐禅うまくいってるかどうかの問題も関係ありますので、しばらくは上のようにトライしてみてください。
寛く衣帯を繋けて、斉整ならしむべし。(ゆるくえたいをかけて、せいせいならしむべし)
長時間坐るので足や体を締め付けるような衣服は避けてくださいということ。
次に右の手を左の足の上に安じ、(つぎにみぎのてをひだりのあしのうえにあんじ)
左の掌を右の掌の上に安じ、(ひだりのたなごころをみぎのたなごころのうえにあんじ)
両の大拇指面いて相?う。(りょうのだいぼしむかいてあいさそう)
乃ち正身端坐して、左に側ち右に傾き、(すなわちしょうしんたんざして、ひだりにそばだちみぎにかたむき)
前に躬り後に仰ぐことを得ざれ。(まえにくぐまりしりえにあおぐことをえざれ)
読んで字のごとく、上体は鉛直線に沿ってまっすぐ、ただし肩の力を抜いて。
耳と肩と対し、鼻と臍と対せしめんことを要す。(みみとかたとたいし、はなとほぞとたいせしめんことをようす)
臍とはへそ。要は頭も前後左右に傾くなということ。
舌、上の?に掛けて唇歯相著け、目は須らく常に開くべし(した、うえのあぎとにかけてしんしあいつけ、めはすべからくつねにひらくべし)
鼻息微かに通じ、身相既に調えて欠気一息し、(びそくかすかにつうじ、しんそうすでにととのえてかんきいっそくし)
左右揺振して、兀兀として坐定して、(さゆうようしんして、ごつごつとしてざじょうして)
?とは歯の根っこのこと。目は開けてないと眠くなります。眠くて朦朧とした状態は坐禅ではありません。坐禅中は鼻から呼吸になります。坐り始める時に一息大きく吐いてから(深い腹式呼吸になるように)、左右揺振してとは振り子が止まるように、鉛直線を見つける意味で。兀兀とは一生懸命の意味。
箇の不思量底を思量せよ。不思量底如何が思量せん。(このふしりょうていをしりょうせよ。ふしりょうていいかんがしりょうせん)
非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。(ひしりょう。これすなわちざぜんのようじゅつなり)
さて姿形の説明は終わった。次に坐禅中の念について。底は意味を強める助詞。先に述べた心意識の運転を停めということを考えてごらんなさい。心意識が停まった状態をどうして考えることができようか?出来はしない。何故か?記憶がないからです。心意識の運転を停め、と言って工夫するのも、心意識の運転が停まったといって眺めているのも心意識の運転です。停めるというのは能動的な意識の働きかけです。これを坐禅だと思っていくら一生懸命やっていてもダメです。んーじゃーどうやって坐るのかー!っていうのが本当に停まったとき=非思量、それはふいに訪れます。能動的な働きかけをしたのじゃないっていうことだけは分かる。まー、これ言葉の表現不可です。あなた、記憶のないものどうやって人に言いますか?だけどこれこそ坐禅の要です。それじゃーこの非思量の御利益とは何なのでしょう。ひとつは間違えずに座れるようになること。ここから初めて坐禅がスタートするって感じです。それといつのまにか存在に説明がくっつかなくなっているものだから、説明の罠に陥っている人が実によく見えるようになる。五感に直結した部分でたった今生きている=主、思量=従というのが手に入るというのか。自然の微妙、鮮烈がうれしい。などなど。
所謂坐禅は習禅には非ず。唯だ是れ安楽の法門なり。(いわゆるざぜんはしゅうぜんにはあらず。ただこれあんらくのほうもんなり)
菩提を究尽するの修証なり。(ぼだいをぐうじんするのしゅしょうなり)
習うとは習う対象物があり、習う自分があるということ。あるいは理想像があり、至らぬ自分を努力して理想像に近づけていくということ。もし悟りが習う対象物、理想像だというのであれば、それは嘘です。なぜなら知らないものをどうして理想像と言えるのか?山はそこにあるから目標物たりえるのです。さらに自分というのは観念です。というわけで観念のこねくりまわしをしているだけです。でっ、事実はどうか?いっつもたった今。今っていうのはいっつもたった一つっきりです。五感のそれぞれが脳みそスクリーンに映し出すのは常に一つだけです。思いも常にたった一つずつしか存在していません。いつもたった一つというのは、習う対象物と習う人と二つないということです。あるいは対象物と人と渾然一体になっているということです。たった一つしかないものを追うことはできません。追うという言葉は誰が、何を、と二つの要素が必要でしょ。というわけで物本来の在りようとは娑婆世間でいうような 努力 というのが全く必要ないのです。どがっと坐って王様で、以上終わり。これが坐禅です。これ安楽と言わずして何と言うか。ただあなたが本当にそうなっているかどうかという問題はあるので、菩提を究尽するという証明はあるよと言っています。
公案現成、羅籠未だ到らず。(こうあんげんじょう、らろういまだいたらず)
若し此の意を得ば、龍の水を得るが如く、(もしこのいをえば、りゅうのみずをうるがごとく)
虎の山に靠るに似たり。(とらのやまによるににたり)
当に知るべし、正法自ら現前し、(まさにしるべし、しょうぼうおのずからげんぜんし)
昏散先ず撲落することを。(こんさんまずぼくらくすることを)
公案=真理=悟り、を現成させるというのは悟ったことのない人の発想です。だから羅=あみ、籠=かご、いずれも真理をつかまえるための手段を労そうとする。よく公案をしている人がいる。人の忘我の因縁を勉強したってほとんど何の意味もありません。人が10人いれば10通りの忘我の因縁がある。ということはあなたの因縁はあなただけのものなのです。これは勉強の対象にはなりません。それよりも一番大事なのは釈尊6年の難行苦行の果てにとうとう自分という観念におさらばせざるを得なくなった因縁です。自分がかわいくて、りっぱになりたくて、人の上に立ちたくて、という観念がちらっとでもある人は必ず手段を労します。なぜなら出発点が自分という観念なものだから、やはりどこまでいっても観念のいじくりまわしをしようとするのです。むしろ自分という観念のおかげで俺はどれだけ苦しんできたか、人に迷惑をかけてきたか、こっぱずかしくて首つりてえー、というのが仏門の前に立つということです。ようやく観念じゃない現実にご対面です。してみると茶碗だけ、めし食うだけ、屁をひるだけ、現成の言葉ひとつ。すべてが宇宙の真理から外れてないんだからわざわざ真理=公案なんぞ言わなくたっていいです。ようやく坐禅になる。只坐る以外になくなる。只管打坐をやり方だと思ってる人がいるけど、そうじゃない。こうなればあとは悟りがむこうからきてくれる。釈尊菩提樹下の因縁です。こっちから追いかけまわしている限りは金輪際ダメだと思い知ってください。そんでなんで俺は追っかけまわしてんだーって痛切に自分に問うてみてください。
龍や虎に限らず人だって自分の生きてるところがいちばんいいに決まっています。人にとって生きてる所とは五感に直結したところです。景色、音、におい、味、触感、これら5つの要素が自分の脳みそスクリーンに映し出された時、自分と環境がひとつになっている。タイムラグがないから人間という生き物が必要なように環境に働きかけられ、働きかけ生きている。こここそが我々の家であり、よって立つところです。人間という生き物はここにしか生きていないのです。生き物の歴史をたどってみれば我々もついこの間までは、周りに我々を食べる外敵に囲まれて生きていた。必死で目ん玉開いて、耳をそばだてて、外敵に食われないようにしていないと生き延びていけなかった。恐竜絶滅後の超低酸素状態の地球環境に我々の祖先は肋骨の下の骨をなくして腹式呼吸を取り入れることによって生き延びてきた。五感は長い進化の歴史の中で人間が必要に迫られ得てきた、外界と唯一コンタクトできる窓口なのです。それは今も変わっていません。今我々が生きるとはどういうことか。自分の必要なものをすべて自分で作り出すことができない以上、どうしたって人からいただくしかない。どうやって?人のためになる物を作り、人のためになるサービスをして人からお金をもらって生きているわけでしょ。であれば人という景色がちゃんと見えなければ生きていくことが出来ない。人が何に不自由しているか、何を欲しがっているか、なにをしてもらいたいと思っているか、がちゃんと見えなければ人のためにものをする事が出来ない。昔も今も全く変わりません。五感がまず絶対なのです。それを今とか事実とか現実とか呼んでいます。その後赤信号は止まらないといけない、あるいは経験をデータとして記憶させて、後に役立てなければいけないなどの意識の作用が始まるのです。それはそれで重要には違いないが、主はあくまで五感、意識は従で補完するためのものです。それを人間は本末転倒をしています。意識の中身が現実であるかのように思っている。仏教の最大の存在意義はこの本末転倒を正すところにこそあります。物見た後説明ばかりしている人は五感のすばらしさを知らない。微妙、鮮烈、言葉で言うとこんなもんなのですが、やはり筆舌に尽くし難しというのがいちばん近いです。それでここにこそ生きているものだから本当の安心がある。なに、不幸だろうが何だろうがそんなこと関係なく、生きているその場にいるというのは本当の安心を人にもたらす。外界の変化に即応できるという意識せぬ絶対の自信なのです。観光地なんぞ行かなくてもそこらへんほっつき歩いているだけで充分に楽しい。この道を志す人にはここらへんまで味わってもらいたいと切に思います。そしてこれらは修行の結果得たものというより、五感から泳ぎださずにいたからこその御利益です。五感は誰にでも共通の窓口ですから、だれにでも出来ます。ご安心を。正法というのは元々現前しているものなのです。昏散というのは昏沈=意識が朦朧とした様子、散乱=説明回路がなかなかお休みにならない様子。いずれも坐るにはふさわしくありません。昏沈を免れたいならばまずは体元気に、そして散乱するとだいたい昏沈するものです。散乱を免れるには・・、これまでずいぶんと申し述べてきました。
若し坐より起たば、徐徐として身を動かし、安祥として起つべし。(もしざよりたたば、じょじょとしてみをうごかし、あんしょうとしてたつべし)
卒暴なるべからず。(そつぼうなるべからず)
嘗て観る、超凡越聖、(かつてみる、ちょうぼんおっしょう)
坐脱立亡も、此の力に一任することを。(ざだつりゅうぼうも、このちからにいちにんすることを)
東山寺の師匠はよく、昏散先ず撲落することを と 若し坐より起たば のあいだが一番重要だと言っていた。昏散先ず撲落することをってのは坐り始め、若し坐より起たばってのは坐禅の終わりでそのあいだが何にもねーだろう、はい、それ一番重要って。なんのこっちゃ?忘我のはなしなんです。全くの五感だけっていうとき記憶がない。記憶がないもの書きようがないじゃないですか。意識の死です。これがどのくらい続くのかは人それぞれ、また意識がもどる因縁も人それぞれ。再現性のないたった一回きりの経験ですのでこれを連想ゲームにして勉強して自分の経験に役立てようという発想は間違っています。この意識の死は我々に根本的な証明を提示します。観念や過去という意識に右往左往させられるのは結局のところ、それが実在するかのような錯覚からぬけ出せていないからですが、意識の死のもとでも我々の体という存在があった、意識がない以上あったとはいえないけれど、そう言わざるを得ない事実があった。意識がなくても存在はあるという証明です。ここにいたってはじめて観念や過去という意識に振り回されないという力量が自然に備わるようになる。もちろんずっと忘我ということはなく、今までどおりの意識の動物、人間にもどるのだけれども、意識が主という本末転倒がいつのまにか正されている。意識は必要な時に必要なだけ使うことができるようになる、健康な人間の誕生です。これが理の上で、強いて行っているというのではなく、自然にそうなっているというのがミソです。これを救いと言います。
若し坐より起たば、徐徐として身を動かし、安祥として起つべし。卒暴なるべからず。というのは長時間坐禅のあといきなり体動かさずに生理学的に無理のないように、体をいためないようにという親切です。
嘗て観る、超凡越聖、坐脱立亡も、此の力に一任することを。観念に影響されない人はただの人、たった今の人。ちょっと見は凡人にみえます。飾ったりひけらかしたりがないからそんなふうに見える。けど生き生きさが全然違う。越聖って、誰でしょう悟り開いた人が聖人みたいになるなんて言った人は?そんなことは断じてない。道徳的な、なぞ人が勝手に作った物差しなんぞに全然影響されない人とはむしろ、やんちゃぼうずみたい、赤ん坊が大人としての智慧や知識を持ち合わせているだけみたいな人、全然聖人じゃありません。
坐脱とは坐禅したままの死、立亡とは立ったままの死のこと、何か故事があるのかもしれませんが私は知りません。要は死という観念に振り回されない人のことです。死が観念という理由は、あなたは死を経験したことがあるのか?経験したことのないことが何故こわいのか?まーこれには自分という観念かわいいっていうのも大いに関係しています。何よりも後生大事にしてきた自分という観念がなくなってしまうという恐ろしさ。大悟低のいちばんの御利益はすべての観念に右往左往されなくなることです。一事が万事といいますが、死という観念には影響されなくなったが、自分という観念にはまだやられているっていうことがないのです。総じて一切の観念が吹き過ぎていく風のようになってしまう。取り扱おうということがないからです。これを救いといいます。この御利益をもたらしたものは坐禅の功徳です。
況んや復、指竿針鎚を拈ずるの転機(いわんやまた、しかんしんついをねんずるのてんき)
払拳棒喝を挙するの証契も(ほっけんぼうかつをこするのしょうかいも)
未だ是れ思量分別の能く解する所に非ず。(いまだこれしりょうふんべつのよくげするところにあらず)
指・竿・針・鎚それぞれにいわれがあります。指とは 倶ていの一指 という故事です。唐の時代の倶ていという和尚さんは人から何を聞かれても指一本立てるだけだったということです。指一本見て指一本で収まる人。指一本見てありゃー悟り開いた和尚さんが何か我々に示そうとしているに違いないと思う人。後者はダメです。事実の他に仏教があると思っている囚われ人です。指一本は指一本。事実にいっつも説明がくっついている人は只の指一本にはどうしてもしておけない。
竿とは迦葉倒却刹竿(かしょうとうきゃくせっかん)という故事です。釈尊の弟子に阿難尊者という記憶力抜群の人がいた。生前の釈尊の説法をすべて覚えていたという。しかし釈尊から許されることはなかった。釈尊滅後は嗣法の迦葉尊者についた。しばらく時がたちある時阿難は迦葉尊者に問うた。今目の前に釈尊の袈裟があるが、この他に釈尊はいったい何を残したのでしょうか?(なんにも残しはしていないじゃないですか)迦葉尊者はいよいよ時が来たか、阿難、門前にある刹竿(仏法ここにありという旗印)を倒してこい。阿難これを倒し大悟。阿難尊者
どうしてもたった今の事実(お袈裟)のほかに真実・仏教というものがあるような気がして・・から抜け出せなかった。これを見た迦葉尊者、仏法ここにありという旗印、何かしらの意識の上での仏教をぶっ倒せ、倒れたんです。本当に事実のみになったんです。
針とは提婆投針という故事です。インドの迦那提婆が師の竜樹が水を満たした鉢に針を投じたという話です。透明な水はあってもその存在を知ることができない。ただ器の底が見えるだけ。我々の有り様を示しています。般若心経に無眼耳鼻舌身意とありますが、これは誰にとっても当てはまることです。光は目に入って脳に到達するまでの間は認識できないのです。ただ景色があるだけ。どこを見回しても自分の目というのが無い。器の水は静かであれば針を落としたって見通せる。が揺れ動くと光の乱反射で不透明になる。誰にとっても本来景色は想像を絶して微妙・鮮烈にあなたの脳みそスクリーンに映し出されているのです。ただ、いつも説明ばっかりしているとそれがマスキングされて見えないということがあります。迦那提婆は自分も透明でいられるよって師匠に示したのです。
鎚とは文殊白槌(もんじゅびゃくつい)の故事です。釈尊在世当時文殊師利という弟子がいた。こともあろうに三ヶ月の集中座禅修行期間中に
抜け出して外ぶらぶら、良からぬところからあっちこっち、それで修行期間の終わる頃のこのこ戻ってきた。これを見た迦葉尊者、修行僧の規律を乱した悪い奴、追い出してくれると白槌を打とうとしたけれどできなかったという話です。我々が欲しいのは意識の上の自分なんかじゃなくて138億年来の本来の自分です。ルールや社会規範とは大勢がとりあえず一緒に住みやすいようにと決めた約束事であって、本来我々がそのような行動をするというわけじゃーない。文殊さん、それをそのままやっちゃったーっていうわけだし、それ見た迦葉さん、まー追い出すほどのことじゃーねーやっていうのです。両方ともなかなかたいしたもんです。だけどルールがいらないというわけじゃーない。とりあえず必要があってやってんだから、従うときには従っうってことできにゃーね。文殊さん、やっぱり悟りにたいする執着があるようです。
払拳棒喝の払は払子(ほっす)と言って坊さんが葬式の時に使う棒の先に馬の尻尾みたいなのが付いたやつです。拳とはゲンコツでぶん殴ること、棒とは坐禅の時に肩をバシッとやる警策(きょうさく)でぶん殴ること、喝は大声でカーツっていうやつです。迷っている人は必ず思いの中身を問題にして持ってくる。しかし今目の前にある畳や時計の音を問題にして持ってきた人がいない。目の前にあるものはどうやって使うかという話にはなっても、迷うということができない。なぜなら今そのようにすでにあるからです。今目の前にないからこそ迷いの対象にもなるし問題にもなるのです。それで我々はどこに生きているのか?思いの中に生きているのか?バカ言うな!どうやったってたった今にしか生きていないじゃないか。なにー、なにをブツブツ言ってんだ、たった今ってーのはなこれだよ、これっ。って言ってゲンコツでゴン、棒でバシッ、大声でカーツ。実に端的で親切です。時に百万言の説明よりバンと人に伝わることがあります。
指竿針鎚も払拳棒喝も我々の先輩が思量分別以前の存在としてものみなすべてあるっていうことを、それぞれ工夫して我々に示してくれたっていうことです。逆に言うとこれを思量分別で理解しようというのは間違っているということです。仏教の場合、これは学問にならんということを意味しています。仏典・祖録はガイドブックであって、そこに事実は無いということを知らにゃなりません。普勧坐禅儀を本当に読む。そうしたらこれを本当に忘れるということがないとダメです。お釈迦さんには仏教を説く人はいなかったんです。我々もまったくお釈迦さんと同じ道のりをたどる以外にない、ということはやってみるとわかります。
豈に神通修証の能く知る所とせんや。(あにじんづうしゅしょうのよくしるところとせんや)
声色の他の威儀たるべし。(しょうしきのほかのいぎたるべし)
那ぞ知見の前の軌則に非ざる者ならんや。(なんぞちけんのさきのきそくにあらざるものならんや)
神通修証とは超能力者がそれを用いて修行や悟りを求めるという意味。現代の科学は素粒子物理が元にあるわけだけど、ダークマター、ダークエナジーがあると言われているように、わからないことっていうのはある。第六感のような能力を持っている人もいる。しかしその能力そのものと仏教っていうのはなんの関係もない。というかそれらも全部ひっくるめた上での話です。
声色の他の威儀とは、音聞いてあれはなんの声と説明し、物見てあれは何の色と説明する、説明=人間の意識、以前にすべてがある。威儀とはすべての存在のことです。非ざる者ならんや→二重否定で、この世の一切の存在は我々の知見以前にあるんですよっ。
実に当たり前の話です。我々か゛思ったからあるわけじゃーない。思う以前にあるんです。こんな当たり前の話をこんなに口を酸っぱくしてまで言わなければならないほど人は錯覚しているということです。ひとつには脳の反応スピードが早すぎて、物の存在と思いがくっついて見えるが故に。ひとつには思いも物の存在に影響を与えることができるが故に。しかし我々が思ったからこの世に素粒子があるわけじゃー断じてない。この順番ははっきりしている。まず在る。それで我々の存在もまず在る。生き物としてはそいつが生きている所にしか真の安心はない。どんなに思いを巡らせようが、思いの中に生きているわけではないから、どーやったってそこに満足はない。ためしにあなたがあなた自身を説明してみてください。心の底から満足かどうか正直に自分に問うてみてください。
然れば則ち上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡ぶこと莫れ(しかればすなわちじょうちかぐをろんぜず、りじんどんしゃをえらぶことなかれ)
専一に工夫せば、正に是れ弁道なり(せんいつにくふうせば、まさにこれべんどうなり)
修証自ずから染汚せず(しゅしょうおのずからぜんなせず)
趣向更に是れ平常なる者なり(しゅこうさらにこれびょうじょうなるものなり)
今まで述べてきたことはすべて、勉強ができるできないの話ではないよ。IQが高い高くないの話でもないよと。現代教育のエリートとは観念の暗記量の多い人を指すのだけれども、それとは全く別の話です。むしろ観念の量が多くて褒められてきた人は、観念の中に真実があると錯覚している場合が多いので注意が必要です。あるいは観念=正解で慣らされてきた思考回路そのままで坐禅をしようとして、いつもどこかに正解があるような気がしていて、何かにならねばと思い続けながら坐禅をしていたりして。この間違いから抜け出るには、まず正しく理解してください。それから観念から決別する覚悟が必要です。観念のなかには 自分かわいい っていうのや、人によっては 神様すばらしい っていうのがあります。これにお別れするのは実は大変なことです。人って頭撫でられていたいし、観念の中に理想を求めてマスタベーションしているのってちょっといい気持ちですから。だけど本当にいい気持ちなのかってつくづく自分に問うてみる必要があります。言い方を変えましょう。人という生物はどこで生きているか。観念の中に生きているか。たった今に生きているか。結局本当の満足とは生物が生きている所にしかないのです。
専一な工夫とはたった今から泳ぎ出さずにいれること。仏教用語で弁道と言います。
専一な工夫をある時は修といい、完全にうまくいけば忘我=証ありだけれども、たった今はたった今。良くもなければ悪くもない。きれいでもなければきたなくもない。染汚せずです。
趣向更に是れ平常なる者なりとは、たった今とは見慣れてきた日常そのままですよということです。私の周りに坐禅をして特別な境涯に達したと言って威張っている者がいるけど、何、特別な境涯なんてものはありません。時・処・位にただ意が動くだけです。それをつかまえて特別という形容詞をくっつけて威張っている分だけ余分ということです。過去=観念=自分かわいい、からまったく抜け出せていません。
凡そ夫れ自界他方、西天東地(およそそれじかいたほう、さいてんとうち)
等しく仏印を持し、一ら宗風を擅にす(しとしくぶっちんをじし、もっぱらしゅうふうをほしいままにす)
唯だ打坐を務めて兀地に礎えらる(ただたざをつとめてごっちにさえらる)
自界とはインド、他方とはそれ以外のところ、西天はインド、東地は中国で
仏印と言ってたった今の他はなし。たった今の他に何かーちらっとでもあると思うと、思ったぶんだけダメ。先人に等しくない。しかしインドから
始まったたった今の法門はちゃーんと、寸分の違いもなく今に伝わっている。なぜ等しくかと言えばたった今はたった一つしかないから違いようがない。迷いようがない。そしてその単純を手にした者によっておおいに広まり救いをもたらした。違えない、迷えないというのは絶対の救いなのです。それは坐禅によって、兀地=三昧によってもたらされた。ただしこれは後から説明しての話。坐禅を悟りに至るための手段ととらえると坐禅じゃなくなる。なぜならたった今はひとつきり。手段と結果と二つに分けられないからです。常に結果だけの坐禅をするんです。坐禅は坐禅なり。それを打坐と言います。
万別千差と謂うと雖も、祇管に参禅弁道すべし(ばんべつせんしゃというといえども、しかんにさんぜんべんどうすべし)
何ぞ自家の坐牀を抛却して(なんぞじけのざじょうをぼうきゃくして)
謾りに他国の塵境に去来せん(みだりにたこくのじんきょうにきょらいせん)
若し一歩を錯れば、当面に蹉過す(もしいっぽをあやまれば、とうめんにしゃかす)
本当にこの道は人間としての能力や差異に全く関係ありません。五感はいつもたった今にしか反応しないし、中身の問題はともかく思いだっていつもたった今にしか発せられていませんよ。そして人間がたった今認識できるのはたったひとつだけなのです。 この在り様を祇管(只管=ひたすら)と呼んでいます。いいですか、思いの中味の話じゃないんですよ。メカニズムそのものを祇管と呼んでいるんです。これがわからないとどーしても思いの中味が気になるもんです。何か特別な思い、心境があるような気がしていらん工夫をしちゃうんです。私達の在り方がもともと祇管なものだから、なーんにもすることなく安心しきって、いや安心なんてものもなくほんとーにただ坐るしかないでしょー。これを参禅弁道っていうんです。じゃーいったい他国の塵境っていうのは何か?一歩を錯ればっていうのは何か?思いの中味そのものが事実だと誤認すること、そして思いをいじることができると誤認することです。思いの中味は過去の記憶、観念に限られます。未だかつて過去が目の前に現われ出てきたことがあるか?連綿とした変化の果てに=歴史、過去の上に今があるんじゃないか、と思うかもしれないけど、いつ、いかなる時も今しかないっていう事実。それ以外のものをいまだかつて見たことがないという事実。そして事実を言葉=観念に置き換えることはできないということを知ってください。眠いっ、て言ったっておんなじ眠い状態がずーっと続くということはないでしょ。人間の体ってもう千変万化、微妙です。そーいうものを 眠いっていうようなもので置き換えられると思いますか?いくら今を言葉を尽くして説明しても、なんか全然しっくりこない、 うすら寒い、しゃべっていながら嘘だなそれはって言う感じ、果ては全然満足しないという感じ。自分自身が言葉に置き換えられる前の事実そのものだからです。
それからどんな思いでもそいつをいじることはできないっていうことを知ってください。一つの思いが終わってから、次の思いが出てくる。もしくはたった今認識できるのはたった一つだけ。このメカニズムはどんな思いであれそいつ自身をいじったり、なくしたり、よりよいものにしたりなんていうことが物理的にできないということを意味しています。 ですから自分が自分を観察するというような同時モニターをしているような気になっても、実際はしていないということになります。
ただ、観念を否定するわけじゃーありません。観念とはどういうものか、自分とはどういうものか、知らずに用いると使われるよって言っているんです。言葉、観念っていうのは便利な道具でもあるんだけど、道具が主人公になって自分が使われているようじゃ本末転倒でしょっていうのが仏教の主張です。そして身をもってそれを正すのが坐禅というわけです。
既に人身の機要を得たり、虚しく光陰を度ること莫れ。(すでににんしんのきようをえたり、むなしくこういんをわたることなかれ)
仏道の要機を保任す。誰か浪りに石火を楽しまん。(ぶつどうのようきをほにんす。たれかみだりにせっかをたのしまん)
加以、形質は草露の如く、運命は電光に似たり。(しかのみならず、ぎょうしつはそうろのごとく、うんめいはでんこうににたり)
?忽として便ち空じ、須臾に即ち失す。(しゅくこつとしてすなわちくうじ、しゅゆにすなわちしっす)
人として生まれていながら自分自身が主人公になりえず、観念に使われ、成長もできず、人や他の生き物たちに害毒を与え続けて一生を終えるなんておやめなさい。自分自身が観念以前の存在ということを身をもって知れば観念の呪縛から逃れることができるよ。そーして見る景色はもうそれだけでなーんにもいらんという本当の醍醐味、満足があります。してみればうまいもの食えばうまい。生き物としての欲望に 自分の という観念形容詞がつかないととても刹那的に終わってしまうもんです。欲望に振り回されるっていうこともないよって言っています。
加以以降は無常を観じてうかうかしていなさんなよーって警告しています。?忽も須臾もたちまちという意味です。たった今しかなければ過去も未来もない、時間もないというのが事実なのですが人を説得するときはこういうことも あり でしょう、方便として。
冀くは、其れ参学の高流(こいねがわくは、それさんがくのこうる)
久しく模象に習って、真龍を恠しむこと勿れ。(ひさしくもぞうにならって、しんりゅうをあやしむことなかれ)
参学の高流とは仏道を志しているすばらしき人達よ、という意味です。こりゃー私も本当にそう思います。ほら、目の前にあるこれ、なっ、以上。こんな単純で、あまりに単純なものによくも興味を持ってくれたものだと思います。お寺でも神社でも初詣行って自分のご利益をー !って言ってお札ぶんまいているのが人間だというのに。それとこの道は自分のためじゃーないんだぞーって言っているにもかかわらず、来てくれる人、まー普通じゃーありませんよ。たいしたもんです。
模象とは偽物のことです。真龍とは本物のことです。偽物は思いの中味について話をします。観念生活に慣れてきた人にとってはわかりやすいといえばわかりやすい。本物は事実を言います。時に単純過ぎてわかりにくいといえばわかりにくい。そう、わかるわからん以前のことだから。それと本物=事実そのもの、人間という生き物そのものって別にりっぱそうに見えたりしない。道徳や社会ルールって人の決めた事だから、人という生き物がそういう風にもともと行動するっていうわけじゃーない。必要に応じて従っているだけです。
直指端的の道に精進し、絶学無為の人を尊貴し(じきしたんてきのみちにしょうじんし、ぜつがくむいのひとをそんきし)
仏仏の菩提に合沓し、祖祖の三昧を嫡嗣せよ。(ぶつぶつのぼだいにがっとうし、そそのざんまいをてきしせよ)
間違えないように、いっつもすでに直指端的なんです。どこかに直指端的をいつのまにか作っていないか?あるいは直指端的になろうとしていないか?なろうとしなきゃはじまらないじゃないか、努力しなけりゃー
!。確かに、坐ることは必要です。ただなろうとしちゃダメなことも確かなんです。すでに直指端的、付け加えるものも差し引くものもなしで坐らないと。絶学無為、これ本当にそうです。現代の我々、学校で正解、マニュアルが必ずあってそれを覚えて頭なでられてきた。そういう癖はもう誰にでもあると思った方がいい。してみるとお釈迦さん、道元禅師、普勧坐禅儀がいつのまにかあなたのマニュアルになって、自分がそのようにならなければいけないとなって坐る、これが大間違いなんです。何かが何かになるということがないんです。いっつもたった今はひとつっきりだからです。あるいはマニュアルはあなた自身です。あるいは世界じゅうで人間があなた1人きりになって坐るんです。お釈迦さんはお釈迦さんになり、道元禅師は道元禅師になり、あなたはあなたになる以外ないんです。これを絶学無為といいます。普勧坐禅儀はただそのいきさつを述べてるにしかすぎません。
しかし自分が観念以前の存在ということが理屈じゃわかっても腑に落ちないと、普通はそれが正直な感想でしょう。であれば自分でそれを証明して下さい。仏仏の菩提=祖祖の三昧つまり忘我による証明です。観念ゼロでも存在はあったんだという証明です。記憶がないので存在があったというのもないけれど、また意識が戻った時おなじように存在がここにあったという物理的な証明です。これを悟りとも言うのですが、こいつを得るにはひとつ条件があります。観念への決別の覚悟です。あるいは一大反省と言ってもいいでしょう。誰にとっても最悪、最強の観念は?と言えば 自分かわいい ってやつです。これが根本にある限りは何をどうやったって絶対ダメです。なぜかって?自分かわいいが中心にあると自分の様子を見ては一喜一憂の説明を必ず付けるからです。坐っていてちょっと何かあれば俺は悟ったー、どうもうまくいかんといっては自分を仏教マニュアルに合わせようとしたり、観念以前にとどまっていることがどうしてもできないんです。この因果関係は実にはっきりしています。合沓とは合い重なるという意味、つまり嫡嗣と同じでそっくりそのまま、先輩がたと全く同じ道をたどるという意味です。お釈迦さんも初めは生老病死の苦を退治したいという身勝手=自分かわいいからスタートしています。6年もの試行錯誤も結局は自分いい思いしたいがベースにあって、すべてダメ。最後どうしようもなくなって、自分かわいいがポッキリ折れたんです。自分の思いどうりにならない=苦という図式が消えたんです。ようやく事実のみになった。菩提樹の木の下に坐ったというのはここからのことです。ここまでくると悟りってすぐそこにあるんです。ある時不意に忘我。こころのメカニズムは実は万人共通で皆同じ道をたどるようにできています。
久しく恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし。(ひさしくいんもなることをなさば、すべからくこれいんもなるべし)
宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん。(ほうぞうおのずからひらけて、じゅようにょいならん)
恁麼とは仏教用語でとどのつまりとかいう意味ですが、なに特別何かあるわけじゃありません。あなたの前にある これ です。私達が参ずるのは これ です。いついかなる時も これ です。普勧坐禅儀じゃーありません。たまに今までの艱難辛苦の坐禅修行はきっと近い将来の悟りに結び付くかもしれんと思いながら修行している人がいますが、絶対そんなことはありません。なぜなら未来というのはないからです。昔こうだった、これからこうなるだろう、なんていう説明をいっさいつけないんです。悟りというのはたった今のことだからです。だからいつも これ。
悟りといってずーっと忘我ということはありません。また忘我覚めて人間らしく存在をちょっと説明したりするもんです。だけど説明=主、あるいはこの世のすべてというような大間違いからは根本的に救われているもんです。はじめて人間らしく説明を便利に使う事ができるようになる。自分=存在なぜか心の底からの感動。人生良くたって悪くたって迷えない確かさ。景色見ていりゃーほかなんにもいらん。人間が初めて人間になる。まーこんなのを宝蔵自ずから開けて、受用如意ならんって言っています。
人間に生まれたなら本当の人間の醍醐味っていうのを味わってみたいじゃーないですか。
完 |