玖延寺
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<現成公案>

普勧坐禅儀とそれに続く辨道話(べんどうわ)にて、坐禅の功徳と悟りの功徳が示されました。道元禅師の言いたいことはこれらにすべて尽くされているように思います。しかしこれらが著されたのは帰国後の京都でのまだ道場を持たれなかった頃。具体的な誰かに示されたわけではなかった。仏道を志すすべての人へという願いの元に書かれた。
 だが時が経つにつれ道元禅師に道を問う人が現れてきた。当の道元禅師も貴族の出、両親を亡くされて13歳で出家得度をされているくらいだから、当時の出家にはそれなりの身分の人も多くいたかも知れない。出家をしないまでも相応の知識階級が仏道に
興味を持たれて市中にいた可能性がある。そんななか著されたのがこの「現成公案」です。この巻にははっきりと俗弟子楊光秀へ
という記述がある。具体的な目の前の弟子に向かって示された最初の記述ということです。これ以後「正法眼蔵」といわれる膨大な著書はすべて目の前の弟子を想定して、あるいは必要を感じて書かれたという側面があるようです。つまり対機説法を普遍的な表現で著した一大著述集と言うことができるでしょう。

 さて、楊光秀さんとはどんな人だったのでしょうか。この現成公案を見れば大概は予想が付く。結構な頭脳明晰。であるが故に
自信がある。娑婆の世では余程のことが自分の思いどおりに出来た。だから強烈な自我意識。自分という思いが世界の中心にあり、そこからすべてが出発する。仏教に興味を持つ。しかし仏教もこの延長。思いが優秀なるが故に思いを先に立てて取りかかろうとする。さあっ、これは人ごとじゃありませんよ。これは我々自身の姿です。あなた自身の姿なんです。
 

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり(しょほうのぶっぽうなるじせつ、すなはちめいごあり、しゅぎょうあり)
生あり死あり
諸仏あり、衆生あり。(しょうありしあり、しょぶつあり、しゅじょうあり)

諸法とは経験するいちいちのこと。それが仏法だというのは、経験するいちいちに師匠から聞いたこと、経典に書いてあったことの説明がくっついちゃうっていうことなんです。そうなるとこういう状況が迷いであり、こうすれば悟りに近づくにちがいないとなり、結果自分で勝手に修行という枠組みを作ってしまう。修行をしていると思っている人は物差しに頼っている安心があり、自信があり、いつのまにか偉くなり、乱暴になる。目の前のものが見えなくなり、ものを損なう。あるいはりっぱなお坊さんを演技するようになり、むかしの朗らかが失われ分別くさくなる分、目の前のものとの柔和ができなくなる。本人は正しいことをしていると思い込んでいるからこの修行という罠から抜け出せない。
生死ありっていうのも、単に物事に観念という説明をくっつけているだけなんです。観念というのは実在しないことなんですよ。生って、この刹那のいったい何に対して生と言っているのか。ぜーんぶ生ですって言うのは言わないのと同じ。ないのと同じ。
あなたは死を経験したことがあるのか?生きてる人間は誰も死を経験したことがない。そういうのってあるっていうふうには言わない。
諸仏あり、あの人悟った人。衆生あり、僕悟っていない人、至らない人。勝手に卑下して縮こまって。悟った人の様子を参考にして真似をして演技して。
これらおしなべてごく単純に物事に説明がくっついているだけなんです。ですが、説明の中味が実在するかのように本人には思えるものだから、説明に影響されるんです。説明は過去であり観念であり目の前にないことなんですが。ないことだから実はいくらでも夢を膨らませることができる。そしてないことに縛られる。随分と不自由なことです。自縄自縛。
さて、この不自由の根本原因は何だと思います?
説明している主語があるっていうことなんです。
自分という主語が。
かわいくて、りっぱになりたくて、人に偉いと思われたくて。認められたくて。
そういう自分というのが出発点にあるもんだから、自分にとって都合が良くなるような説明を必ず経験するいちいちにくっつけるんです。仏教を知り、それをりっぱになるための手段として利用しようとしている。


万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
(ばんぽうともにわれにあらざるじせつ、まどひなくさとりなく、しょぶつなくしゅじょうなく、しょうなくめつなし)

この世の一切に、自分という主語から発せられた説明が付かないとき、赤裸々なそのままあるのみっていうことです。自分という主語が死んだ後の風景です。迷いとか悟りとか、悟り開いた人とか悟り開いてない人とか、これすべて説明なんです。刹那というたった今しかなければ、それに説明をくっつける主語がなければ、仏教なんてものすらないんです。生とか滅とかいうような観念と言われる説明もくっつきません。だけど仏教を言う自分があるうちはこうはならない。観念に影響される自分があるうちは、いつのまにかそれに振り回されていますし。
赤ん坊の時、こうだったんですよねー、誰もが。
悟りの後の風景はこうなんです。


仏道もとより豊倹より跳出せるゆえに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
(ぶつどうもとよりほうけんよりちょうしゅつせるゆえに、しょうめつあり、めいごあり、しょうぶつあり)

豊とは悟り、倹とは迷いのこと。生仏とは衆生(悟っていない人)と悟りを開いた人ということ。
悟りの風景と仏道とはイコールじゃありません。端的に言えば赤ん坊は迷っている人を導けない。悟りの風景しか知らなければ、
それおかしいよって言ってあげられない。人を救うっていうのは迷ったことも悟ったこともある人でなければできないわけですよ。赤ん坊は人に愛される。だけどそれだけじゃ不十分なんです。

そういう意味で生滅に代表される観念があり、それに影響される自分があり、自分があれば執着もある。自分に都合のいいことを念ずるようになる。
仏教すら自分の都合のために使おうとする。悟りを向こう側に見て自分を至らない側におとしめる。
修行というのが発生する。正しいことをしているという傲慢が生ずる。
目の前のものとうまくいかない。目の前のものがおかしいよってつぶやいている。
つぶやきにあるとき気づく。刃物を突きつけられたように感ずる。
大懺悔。結局おれは自分かわいいから全然抜け出せていなかったー。出家できていなかったー。
何と恥ずかしいことか。こんなんで偉そうに坊さんなんて言っていられない。首くくりたい。
はい、意識の上の自死です。
忘我あり。
自分死んだ後の風景あり。
刹那の風景です。微妙と鮮烈の入り交じった壮絶な景色です。
迷えないということを知る。
人の引っかかりの様子があけすけに見える。
それ違うよって言ってあげられる。


しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。
(しかもかくのごとくなりといえども、はなはあいじゃくにちり、くさはきけんにおうるのみなり)

しかし我々人間にとって仏道って一大事なんですが、地球上には人間以外の物が、生き物が、人間の都合とは全く関係なくそれぞれに、そのものとしてある。仏教を手に入れて世界を取ったような気になってる奴はダーメ。
自分失せるとは人間としての傲慢が失せることでもあり、初めて花や草の仲間入り。
人が人としてあり、花は花としてあり、草は草としてある。過不足がない。
というごくまっとうな姿に落ち着いていることに気づく。


自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
(じこをはこびてばんぽうをしゅしょうするをめいとす、ばんぽうすすみてじこをしゅしょうするはさとりなり)

この場合の自己とは、自分という思いのことです。人はどうしてもこれをやる。必ず思いが出発点にあるんです。学校で知識という目の前にないものを答案に書いて〇をもらってきたくせが頑迷に残っている。すべてのものにやり方があると思っている。仏典を見れば、正師の言を聞けば、思い以前に存在ありと知る。それではとその思い以前に行き当たるにはどうすればいいかとなる。どうすればいい以前にありと言っているにもかかわらず、どうすればをやる。馬鹿です。ですがその馬鹿を皆やるんです。どうせやるならとことんやってみるといい。やってやってそれでいいか?って素直に自分に聞くんです。方法論とことん尽き果てるころ、あなたの目の前の何かが(萬法)あなたにドスを突きつけるでしょう。思い以前にある存在、この身も蓋もない順番がわずかに残っているあなたの思いにNGを出すんです。最後は萬法=存在があなたに引導を渡すんです。


迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。(めいをたいごするはしょぶつなり、ごにたいめいなるはしゅじょうなり

悟りとは一度主語=自分が死ぬこと。死んだ後の風景は、そりゃあ死んでみなけりゃわからんですよね。ところがこれが人間としての中身はなーんにも変わらんのです。いらん説明をすることがなくなるとその人間の資質が露わになるということはある。だけどりっぱになったり、聖人みたいになったりと中身が変わることはないんです。悟りを開いた後の一休さんの逸話は結構ろくでもないものが多いし、良寬さんだってりっぱな人というのとは違う。ただ人間科オスっていう全く飾り気のない等身大がそこにいるだけというやつです。
ところが死んだことがないのに勝手に死んだ後の風景を美化して右往左往しているのが衆生だと言っているんです。聞いた悟りの様子を演技してみたり、こうやれば死ねるはずだと修行のメニューを勝手に作って求道者を演技していたりといろいろ。


さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。(さらにごじょうにとくごするかんあり、めいちゅううめいのかんあり)

世の中に、俺は大悟十八回したし、小悟に至ってはその数を数えきらんぐらいだぜ、っていう奴もいれば、迷いの袋小路に入って抜け出せない気の毒な奴もいる。はあーっとため息をついています。
悟りとは主語=自分という観念が死ぬことなんです。死んだ奴が人に自慢しますか?自分がどういう状態だったか分かっているのは眺めている主語=自分が残っている証拠なんです。だからちょっと変わったことがあると人に自慢するんです。どこまでいっても自分がかわいいんです。りっぱになりたい自分がいるんです。そこが出発点になっている以上絶対悟りを開くことは出来ません
迷いとは思いの中身があるような錯覚を持って、その中に首を突っ込んじゃうことです。翻ってたった今を見てご覧なさい。目の前にあるものにはどうやったって迷えないですよ。どうやって使うかという議論にはなっても迷うということが出来ない。あるからです。無いからこそ迷うんじゃないですか?それに気がつかないと大変な目に遭わされます。


諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。
しかあれども證仏なり、仏を證しもてゆく。

(しょぶつのまさしくしょぶつなるときは、じこはしょぶつなりとかくちすることをもちいず)
(しかあれどもしょうぶつなり、ほとけをしょうしもてゆく)

悟り=忘我とは記憶のない瞬間。瞬間と言ってどれほどの時間がたったのすらわからない。これ即ち自分という眺める主体が死んだ証拠。いつまでも忘我でいるわけではない。何かの縁で元に戻る。また眺めて説明するという意識の働きが始まる。だが軸足が意識の中味から存在そのものに移っちゃっている。思いの中味が主人公ではなくなっているんです。説明する以前のものの有り様のまま=なんだか知らんがここに人間科オスの一匹の活動体がある。あるっていうのは語弊があるがとりあえずそう言うしかない


身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
(しんじんをこしてしきをけんしゅし、しんじんをこしてしょうをちょうしゅするに、したしくういしゅすれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、みずとつきとのごとくにあらず。いっぽうをしょうするときはいっぽうはくらし)

人は「私は畳を見る」と言う。「私は時計の音を聞く」と言う。だけど実際にはそういう事がこの身の上には起きていない。畳からの光が眼の網膜で電気信号に置き換えられて、脳味噌スクリーンに到達するまでの間というのは我々には認識されない領域。脳味噌スクリーンに到達した瞬間にただ「畳」。映されるものと映すものと二つない。渾然一体となっている。同様に、自分と仏=ありのまま、と二つない。自分はありのままであると言うならば、それは全くの不可です。落第なんです。


仏道をならふというは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。
(ぶつどうをならうというは、じこをならうなり。じこをならうというは、じこをわするるなり)

人は自己とは何だと聞かれれば、思いの中に出てくる自分のみを指すんです。いや、この体も自分と言いますよと言うかもしれない。ですがそれは自分という思いがあるからそういう説明をするんです。もし自分という思いが無ければこの世に自分というのが無いんです。
我々にとっての畳とは、畳とそれを映し出す自分と二つの要素がないと畳が存在しない。畳は畳であり自分でもあるんです。同様にこの世の一切は、この世の一切であり自分なんです。この世の一切が自分というのは自分が無いのと同じです。思いの中の自分のみが自分だというのとは天と地ほど違う。事実は一つです。
思いの自分のみが自分だというのは夢幻の人生です。思いの中の自分とは刷り込みであり存在しないんですから。無いものに影響され引っかき回されるなんて、なんという馬鹿か。これを本当に痛切に思い知った者のみがここから離れることが出来る。仏教の懺悔とはこの事を言います。自分という刷り込みが頑強で根深いから、懺悔するというのは本当に大変な事なんです。


自己をわするるといふは、万法に證せらるるなり。万法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
(じこをわするるというは、ばんぽうにしょうせらるるなり。ばんぽうにしょうせらるるというは、じこのしんじんおよびたこのしんじんをしてだつらくせしむるなり。

本当の懺悔とは意識の上の自死です。自死無くして忘我=悟り無し。忘我覚めた後自然は微妙と鮮烈に輝き、目の前の人がみな先生になる。思いがエネルギーを失った分存在が光り輝く。自己も観念なら身心も観念です。身や心はあるよと言っているあなた、この世にあるのは色声香味と触感と思いだけです。触感はあっても自分の体というのは無いでしょう。思いはあっても心なるものはどこかにありますか?自分という思いの死とは観念すべてがおしなべて討ち死にするんです。なぜなら自分という思いが観念の親玉だからです。最も根深く執拗な刷り込みだったからです。
観念から自由になって初めて人が観念に縛られているのがわかる。どうしたってそこから離れてみなければ縛られているということはわからないんです。不自由と自由と両方経験したものだから、人を導くということが出来る。自分を救い人を救う道はこれだけなんです。


悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長々出ならしむ。
(ごしゃくのきゅうけつなるあり、きゅうけつなるごしゃくをちょうちょうしゅつならしむ)

さて悟りを開いたっていう過去の記憶を悟迹って言っているんです。悟り=忘我そのものを言葉にすることは出来ないけれど、前後のいきさつを話すことは出来る。人の困っている様子が見えればなんとかしてやりたいと思う。それになるべく多くの人にこれを知って実践してもらいたいと思う。そんな人が増えれば対人関係はダイナミックで愉快じゃないか。だから発信する。
ただ、話の中身は過去の記憶であることには違いない。私にとっての今では無い。普通にしていると今外で鳴いている百舌鳥の声のほうがいい。私自身の体が過去の記憶よりたった今のほうを選択するのだ。体は自分が生きている場所の方を優先するさ。
さて思いがエネルギーを失い、存在と全く同じレベルで流れ出す。それは人のごく健全なあり方だと思う。だけどわずかに眺めて説明するという働きは相も変わらず。そしてやはり体はそれすら不要とつぶやく。そう、またあの忘我の領域へと誘う。認識以前の世界へ。記憶が出来る以前の存在そのものの場所へと。この事実のオチはリアルタイムのたった今の自分を自分が眺めることは出来ないっていう、ごくあったりまえの事なんです。なんたって自分は1人しかいませんから。
私の師匠の川上雪担師の遺言は「知らない人になってください」です。


人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり
(ひと、はじめてほうをもとむるとき、はるかにほうのへんざいをりきゃくせり。ほうすでにおのれにしょうでんするとき、すみやかにほんぶんにんなり)

仏教以外の物事の進め方には、必ずやり方がある。やり方とは先輩方の過去のノウハウの集大成ですね。我々はそのガイドブックを手にたった今に手を加える。人のためにものを為し、人の満足がお金に変わり自分の生計が成り立つ。必要な事です。
だけどこの世の一切の存在は、やり方があってこの世にあるわけじゃあない。たった今に手を加えることは出来るが、存在そのものは我々が手を加えたから存在しているわけではない。人間の過去の記憶などという以前に存在しているんです。
本当の自分っていうのは、自分の思い以前に存在している。人間が勝手に名前を付けてイメージが肥大した、思いの中の自分なんていうけちなものより以前にすでにあるんです。名前も付かない得体の知れない人間という特徴を持った生き物として。
そいつに出会ってみませんか?っていうのが仏教なんです。イメージ上の架空の自分じゃなくて本当の自分ていうのに出会ってみませんかっていうのが仏教なんです。
だから求める以前にあるんです。求めるっていうのはせいぜい人間の作った領域の話でしょう?
だけど進化の未熟の影響で、人間の思い=過去の記憶や観念 が存在以上のものになっちゃっているんです。そこにあなた自身の世界の中心があるんです。そいつを失わなければいくら自分自身が思い以前の存在だって言ったってピンとこないでしょう。
一度過去の記憶や観念を完全に失ってください。そうすりゃあ、間違いなく本当の自分だけが残りますから。


人、舟にのりてゆくに、めをめぐらして岸をみれば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく

読んで字のごとくです。


身心を乱想して万法をはんけんするには、自心自性は常住なるかとあやまる。
(しんじんをらんそうしてばんぽうをはんけんするには、じしんじしょうはじょうじゅうなるかとあやまる)

三つ子の魂百までもっていうやつです。我々人間にいちばん初めから行われた刷り込みです。親が子に名を付けて呼ぶ。おまえはと言われ、僕はと言い、学校に行っては自分の意見ははっきり言いなさいと言われ、自分を大切にしなさいと言われて何十年。もっとも執拗に行われた刷り込みです。だから思いの種類数あれどもっとも頻繁に出てくるんです。これを自分といい、自我といい、精神といい、心といい、魂といい、霊魂という。そのうち肉体と心を切り離して、心が肉体の支配者となり、肉体は滅びても魂は永遠という物語を勝手に夢見ていく。この物語の誤りの根源は、自分という思いのみが本当の自分としたことです。だから体の支配者にもなっちゃうし、失われたくないから永遠なんていう観念までくっつけちゃう。いっつもたった今しかないのにどこに永遠があるか? 常住があるか?


もし行李をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。
(もしあんりをしたしくしてこりにきすれば、ばんぽうのわれにあらぬどうりあきらけし)

思いの自分のみが本当の自分としたとたんに、世界の中心がその自分という思いになる。すべての事象に自分にとっての好き嫌い、良し悪しの説明がくっつく。この世のあらゆるものがその自分に都合のいいように回っていくように願うようになる。
だがそんなことが起きるはずもなし。自分の思いどうりにならないといって悩むようになる。適当が出来る者は出世する。出来ない者はだんだん袋小路、やがて精神科のお世話になる。その中でごくわずかに、自分という思いそのものに疑念をもっ者が現れる。そしてその中で縁ある者がこの仏教に出会う。


たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
(たきぎ、はいとなる、さらにかえりてたきぎとなるべきにあらず。しかあるをはいはのち、たきぎはさきとけんしゅすべからず)

時間はあると思うか?って聞いているんです。皆必ず明日は来ると思っているけれど、あしたって来たためしがない。いつもたった今だからです。同様に過去というのが目の前に現れ出てきたことが無いんです。薪が燃えて灰になったと見てはダメだよ。事実と人の記憶を混同しちゃダメだよって言っています。


しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。
(しるべし、たきぎはたきぎのほういにじゅうして、さきありのちあり。ぜんごありといえども、ぜんごさいだんせり。はいははいのほういにありて、のちありさきあり)

薪はその時薪です。灰はその時灰であってもうどうしようもない。法位とはたった今の事実を指すんです。しかし人間の記憶としては薪が燃えて灰になったと言いたいんです。たった今の事実はどうか。薪、燃える、灰、もうその時は絶対それしか無いんです。仏教では事実を人の記憶より上に置くんです。なぜか。この体がたった今にしか生きていないからです。生きているところが記憶の中ではないからなんです。生きものがその生きているところを優先するのはごく当たり前です。


かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。
(かのたきぎ、はいとなりぬるのち、さらにたきぎとならざるがごとく、ひとのしぬるのち、さらにしょうとならず。しかあるを、しょうのしになるといわざるは、ぶっぽうのさだまれるならいなり。このゆえにふしょうという。しのしょうにならざる、ほうりんのさだまれるぶってんなり。このゆえにふめつという)

灰が薪になったり、死んだ人が生き返ったりするなんていうことが絶対無いのと同様に、生きている人が死んだというふうに言わないのが仏教なんです、と言っています。生きているというのは時間を感じさせてしまって言い方が適切でないかも知れないが、本当に刹那ではあるけれど、たった今はたった一つきりしかないじゃないですか。そこにしか我々は生きていないんです。生と言ったとき、もう絶対それっきり。時間なんてものあるわけがない。死のとき、もうそれっきり。前後無いんです。生のとき生しかない。そんなとき、わざわざ生って言うだろうか?死人に対するとき、死んだっていうことが目の前にありますか?生きる、死ぬっていうのは結局比較のうえでの話なんです。記憶の中での話なんです。仏教はまず、たった今の上に立っているんです。


生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。
(しょうもいちじのくらいなり、しもいちじのくらいなり。たとえば、ふゆとはるとのごとし。ふゆのはるとなるとおもわず、はるのなつとなるといわぬなり)

元気だった家の人が急に亡くなったと人は言う。今年の冬は暖かい日が多くてあっという間に春になったと人は言う。過去の物語があり、目の前にないことがある。今目の前に湯気が立っているご飯と同じようにあるようだ。時にはそれ以上の重さになってあったりする。だから悩んだり人を恨んだりする。目の前に無いことが主人公になるから今を台無しにしたりする。それでいいのか。生きているということがあるから思いもあるんだ。思いとは電気信号だ。体があって初めて電気信号もある。順番を間違えるな。この体が生きているのはたった今。ほんとうに刹那ではあるけれど、間違いなくたった今にしか生きていない。それが主人公に決まっているじゃあないか。思いは道具さ。


人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。
(ひとのさとりをうる、みずにつきのやどるがごとし。つきぬれず、みずやぶれず。ひろくおおきなるひかりにてあれど、しゃくすんのみずにやどり、ぜんげつもみてんも、くさのつゆにもやどり、いってきのみずにもやどる)  

水は人で月は環境ですよ。まんまるお月さんも、広大な空も、確実にどんな水にも宿っている。これはね、俺みたいな間抜けには到底悟りなんか開けるわけがないなんて思っちゃいかんよって言っているんです。


さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたるがごとし。人のさとりをけい礙せざること、滴露の天月をけい礙せざるがごとし。(さとりのひとをやぶらざること、つきのみずをうがたるがごとし。ひとのさとりをけいげせざること、てきろのてんげつをけいげせざるがごとし)

さとりとは人と環境が一体になっていることを指すんです。どんな人にも必ずこれが起きている。畳とそれを映し出す人間と二つないと畳がこの世に存在しないんです。それでどこまでが畳でどこまでが自分という線引きができない。だから一体なんです。おまけに映す我々というスクリーンが10人いたら10様ということは、今目の前にある畳とは世界中でたった一枚しかない畳なんです。これが誰にでも起きている。


ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を?点し、天月の広狭をはん取すべし。
(ふかきことはたかきふんりょうなるべし。じせつのちょうたんは、だいすいしょうすいをけんてんし、てんげつのこうはんをはんしゅすべし)

物理の法則としては深い水がより多くの景色を映し出すということはない。ですがね、水面にわずかな波紋が立っているとその分景色がゆがむ。景色を眺めて説明しているとき波紋が立つ。正確に言うならば説明しているときは景色は見えていない。なかんずく、思いの自分が本当の自分だという間違った出発点から始まった止めどもない夢物語は景色のクオリティーを著しく落とす。ほとんどものが、人が見えていない。水面に波紋が立っていない風景を是非に見てもらいたいと思う。何物にも代えがたいこの上ないものなのだから。感動や安心というのがどういうものなのか見てから死んでもらいたい。
時節の長短というのは悟りを開くまでの時間のことを言っています。これが人間の能力や置かれた環境によって変わると思いますか?って言っています。悟りの原理は万人共通。変わるわけも無し。これをほんとうーーに理解し、実践できた者は誰でもこの御利益にあずかることが出来る。だれにでも膨大な情報量が脳味噌スクリーン直前まではきているのだから。


身心に法いまだ参飽せざるには、法すでにたれりとおぼゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり
(しんじんにほういまださんぽうせざるには、ほうすでにたれりとおぼゆ。ほうもししんじんにじゅうそくすれば、ひとかたはたらずとおぼゆるなり) 

不思議なことに悟りを開いていない人が、悟りを開くためのプロセスを話す。師匠から聞いたことに、仏典に見たことに、自分が思ったことに自信を持っているからだ。そういう自信が余計な説明だということに気がつかない。余計なことをやる根本原因=自分が死んでいないものだから。説明の主語たる自分が死んだことのある人は自信なんてものがあるはずもなし。膨大な情報量がダイレクトに届くものだから、こちらもそれに応じて変化する。大げさに言うと進化する。進化とは未熟だからこそ起きるわけで。
というわけで仏教では悟り開いてない人がりっぱな人を演技しています。で、悟り開いた人は未熟な人なんです。


たとへば、船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなる相みゆることなし。しかあれど、この大海まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。
(たとえば、ふねにのりてやまなきかいちゅうにいでてよもをみるに、ただまろにのみみゆ、さらにことなるそうみゆることなし。しかあれど、このたいかいまろなるにあらず、ほうなるにあらず、のこれるかいとくつくすべからざるなり。ぐうでんのごとし、ようらくのごとし。ただわがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり)

まろとは丸いと言う意味。方とは四角という意味。人間には海に見えても、龍魚にはこれが宮殿に見え、天人には水が瓔珞(たまかざり)に見える。これらのたとえは読んで字のごとくです。


かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、おほく様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円とみゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。
(かれがごとく、ばんぽうもまたしかあり。じんちゅうかくがい、おおくようすをたいせりといえども、さんがくげんりきのおよぶばかりをけんしゅういしゅするなり。ばんぽうのかふうをきかんには、ほうえんとみゆるよりほかに、のこりのかいとくさんとくおおくきわまりなく、よものせかいあることをしるべし。かたわらのみかくのごとくあるにあらず、じきげもいってきもしかあるとしるべし。)

このように、仏法のありようもまたそうなのだよ。塵中=世間のことも、格外=仏法の上でのことでも、様々な様子があるが、それは各人の力量によってその及ぶ範囲の中で会得しているだけのことなのだ。仏法の上で、我々の先輩方のありようを見ても、今自分が見ている様子の他に多くの端的のあることを知らねばならない。自分の周りのことだけではなく、直下=あなた自身がそうなのであり、一滴=たいしたことがないと思っていることもそうなのだと知らねばならない。
これらの文章を見て道元禅師が教えを示している楊光秀さんて、井の中の蛙だなーって笑っちゃいけません。これは私も含めて仏法にあずかるすべての人に当てはまることなんです。自分を持たなければ変わっていけるっていうことじゃないですか。自分の周りが皆先生になるっていうわけですよ。ダイナミックに変化できるっていうのは成長するっていうことだろうし、大げさに言うと進化するっていうことでしょ。生きものってこんなふうにできているんじゃーないですか。
まーもっとも、楊光秀さんは自分を持って、やり方を持っているようなので道元禅師がこう言っているんですが。


うお水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うおとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。
(うおみずをゆくに、ゆけどもみずのきはなく、とりそらをとぶに、とぶといえどもそらのきはなし。しかあれども、うおとり、いまだむかしよりみずそらをはなれず。ただようだいのときはしだいなり。ようしょうのときはししょうなり。かくのごとくして
ちょうちょうにへんさいをつくさずということなく、しょしょにとうほんせずということなしといえども、とりもしそらをいずればたちまちにしす。うおもしみずをいずればたちまちにしす。

頭々に辺際をつくすとは、そのものに応じたように体が動くということ。処々に踏翻するとは、その場所に応じたように体が動くと言うこと。時処位という言葉がありますが、その時その物に応じたように体は動きます。もちろんこれは鳥や魚の話じゃありません。人間と環境のことを言っているんです。あったりまえじゃーないか、と言わないでください。あなたの体はこのように動いているけれども、あなたの意識はこうなっていないはずです。ここでは人間と環境は一体になっているということが言いたいんです。だけどあなたは、自分はこっち、環境はあっちって言っているでしょう。二つに分かれているじゃないですか。


以水為命しりぬべし。以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。
(いすいいめいしりぬべし。いくういめいしりぬべし。いちょういめいあり。いぎょいめいあり。いめいいちょうなるべし。いめいいぎょなるべし。)

命とは一体と言い換えて下さい。自分こっちって言う嘘のつぶやきさえなければすべてあるがまま。あるがままとは環境と自分とが一体になって作り出した物。ここまでが畳でここまでが自分という線引きができない。つまり、自分というのがこの世に出てこないんです。自分がないというより、そもそも有るとか無いとかの議論が存在しないんです。鳥と魚の例えで何度も言っているように、我々にとっての景色とは人間という生きものが進化の果てに目という窓が作り上げられたうえでの必然なんです。それこそ命(いのち)です。


このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。
(このほかさらにしんぽあるべし。しゅしょうあり、そのじゅしゃみょうしゃあること、かくのごとし。)

環境と一体というのは、環境が変わればそれとリンクしている人間の機能も変わっていくということです。環境に応じた変化によって生きものの体は作られてきたのです。修証とは修行と悟りと言うことです。「自分がないというより、そもそも有るとか無いとかの議論が存在しない」ということを自分の身で証明しなければ納得はできないものです。自分こっち さえ無くなりゃいいんです。そのための一苦労を修行ともいい、証明を悟りともいいます。
寿者命者とは普通に生きものそれぞれの寿命のこと。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。
(しかあるを、みずをきわめ、そらをきわめてのち、みずそらをゆかんとぎするとりうおあらんは、みずにもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず)

思いの中の「自分」が本当の自分だと思っている人は、その自分がこっちにあり、環境があっちになる。自分の目的の為に必要に応じて環境に手を加える。仏教もそのパターン。悟りを開くために最もふさわしい環境作りは、云々かくかくしかじかとやる。これすべて「自分」という思いからスタートしている。出発が思いだと実はどこまでいっても思いの延長線の中にある。例えば右を向いていた顔を自分の趣味で左をむかせて、それを修行と言っているに等しい。自分で勝手に作り上げた指針を仏教と考え、それに応じた動きを体にさせるを持って修行と思い込んでいる。出発地点が自分という思いだと、どこまでいってもやはり思いの中から抜け出せないんです。


このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案な
(このところをうれば、このあんりしたがいてげんじょうこうあんす。このみちをうれば、このあんりしたがいてげんじょうこうあんなり)

このところ、このみちとは、自分こっち に根本的な疑問を持ち、それに気づき、その不都合に絶望し、「自分」が死んだところ
その顛末ということです。自分こっち がないところを見てください。この世の中に自分ていうの出てこないじゃないですか。現れ出てこないんです。ただ畳み、鳥の声、梅の匂い、おかゆの味、かゆみ、単なる思い。これらすべて自分と一体になったものだからですよ。自分は1人しかいないわけだから、その他にさらに 自分 なんていうものがあるわけないでしょう。
現成とは畳みや鳥の声のことですよ。公案とは自分と一体になったと読み替えてください。


このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆえに、かくのごとくあるなり。
(このみち、このところ、だいにあらずしょうにあらず、じにあらずたにあらず、さきよりあるにあらず、いまげんずるにあらざるがゆえに、かくのごとくあるなり。)

この世の一切に大小という思いのレッテルは貼られていない。自分こっち畳向こうというレッテルも貼られていない。先よりあるって?未だかつて過去が目の前に現れたことはない。今とはよく見て、たった1点です。ひとつっきりです。現れるっていう時間の経過がない。たった今に大小、自他、過去、時間という人間の思いのレッテルはどこにも貼られていないんです。というわけで
「かくのごとくあるなり」としか言いようがないんです。「これ」以上終わり。そして「これ」。そして「 」。そして   。
はやくこうなってください。


しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。
(しかあるがごとく、ひともしぶつどうをしゅしょうするに、とくいっぽうつういっぽうなり、ぐういちぎょうしゅういちぎょうなり)

このように人が仏道修行するにも悟りを得るにも、たった今のこれ、たった今のこの動き、その真上において思いのレッテルをすべて失うことなんです。その真上において思いのレッテルを貼ろうとしている自分を失うことなんです。
全くもってたった今のその1点の真上のことなんです。


これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆえにしかあるなり。
(これにところあり、みちつうだつせるによりて、しらるるきわのしるからざるは、このしることの、ぶっぽうのぐうじんとどうしょうし、どうさんするゆえにしかあるなり)

すべては本当に具体的なたった今の畳の真上の話なのであり、時計の音の真上の話なのであり、思いの真上の話なんです。いつでもどこでもある話なんです。それで、畳を眺めているから畳があるんです。たった今の畳の真上に立ってご覧なさい。畳っていうものがない。いやいや、あるとかないとかが存在しない。存在しないっていうのもない。だって眺めなければそういうことでしょう。
知ることの出来る範囲を知ることが出来ないのはっていうのは、そういうことです。
仏法とはものと一体になって自分がないということの証明なんです。
眺めているもう1人の自分があっちゃおかしいじゃないですか。
なんたってこの世で自分は1人しかいないんだから。
たった今の1点においてたった今を知ることが出来るか?
畳も自分、知るのも自分、それが同時に起きうるかって聞いているんです。


得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。
(とくしょかならずじこのちけんとなりて、りょちにしられんずるとならうことなかれ。しょうきゅうすみやかにげんじょうすといえども、みつうかならずしもげんじょうにあらず、けんじょうこれかひつなり)

得たものが必ず わかる と思うなよ、と言っています。これを言うのは世界中で仏教だけでしょう。
さて、整理しましょうか。人の苦しみの根源は、分かる=同時モニターしていると勘違いしているからです。同時モニター出来ているとすれば眺める主体=自分があり、眺められる対象物があるとなる。とすれば自分がその対象物に手を加える事が出来るとなる。これがなんと誤りなんです。出来ないことをすればそれは苦しいに決まっています。
わかる とはその対象物を見たり経験したりした直後に、決して同時にではなく、直後にそれについて感想を述べているということなんです。
必ずまず対象物があり、その情報が脳味噌スクリーンに到達したまさにその時は認識が起きていない我々にとっては 全くの無 の領域。本当のたった今の瞬間は認識以前なんです。だから記憶すらない。
そしてその後、認識が起きて、感想を述べる段になる。認識以前だろうが、認識そのものであろうが、たった今にはたった一つしか存在していないんです。
これが誰にでも起きている。だけど人間進化の未熟から皆同時モニターしていると勘違いしている。これが間違いの根源であり、苦しみの根源なんです。手を加えられると思うものだから、自分という思いが中心になっていつまでも感想を述べる段をやっている。認識以前が1とすると、感想を述べる段を100もやっている。
やがて同時モニターの間違いを痛切に知る。同時モニターの主人公=自分が用無しになる。感想を述べる段が本当にわずかになる。すると景色の見え方が一変するときがある。稲穂が黄金に輝き、ススキと雲の微妙と鮮烈に驚く。いわゆる密有という状態です。評論家ばかりやっていたときには思いも寄らぬ親しさです。人により様々な現れようです。
そしてこれで満足して偉くなっちゃう人昔より多し。胸に手を当ててみれば、わかっている ことだけがどうしてもひっかかっているはずだ。正確に言うならば、わかっているというわずかな思いを直近に過ぎたことに重ねようと投影するぶんだけ苦しい。やはり同時モニターの癖がわずかに残っているんです。
どうしても認識以前に一度立ち返らないといつまでも満足と不満足が付き従う。
認識以前に立ち返った後は、満足でも不満足でもない。偉くなるなんてことは断じてない。
存在は人の思い以前にあるから。ようやくそこに着地する。


麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理」。ときに、師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。
(まよくざんほうてつぜんじ、おうぎをつかうちなみに、そうきたりてとう、「ふうしょうじょうじゅう、むしょふしゅうなり、なにをもてかさらにおしょうおうぎをつかう」。しいわく、「なんぢただふうしょうじょうじゅうをしれりとも、いまだところとしていたらずということなきどうりをしらず」と。そういわく、「いかならんかこれむしょふしゅうていのどうり」。ときに、し、おうぎをつかうのみなり。そう、らいはいす。

麻浴山宝徹禅師という方が扇を使ってあおいでいたところへ、ある僧がきて質問した。「風はいつでもどこにでもあるのに、なぜわざわざ扇を使われるのか?」師匠が言うに「おまえは、かぜはどこにでもあると言うが、いまここにあることを知らない」と。
僧がさらに問う、「いまここにあるとは?」。師匠は扇を使った。僧が礼拝した。
こんなふうに読み替えてください。そして風を仏性、扇を使うを修行と読み替えてください。
これは道元禅師が比叡山で最初に持たれた「本来本法性 天然自性身」と修行の因果関係に対する疑問と全く同じです。そして道元禅師の結論は、「これ、この通りなのにどうして修行や悟りを持ってくる必要があろうか」なんです。
宝徹禅師と修行僧のくだりも全く同じなんです。
たとえ仏教のことであろうが何であろうが、知っていることは、たった今のことじゃないんです。たった今は知ることが出来ないからです。今目の前に無いことを問題にして師匠のところへやってきたんです。いいですか、無いから問題になるんですよ。あれば問題にはならないんです。私のところに独参にくる方も皆、今目の前に無いことを問題にしてやってくる。私が坐っている目の前の 畳 が問題だと言った人は未だかつていないんです。
お経の弊害は、というかお経の内容に対する思い違いは、今目の前にある以外に、なーーにかしら仏教みたいな、悟りみたいな、りっぱなものがあるような気になっちゃうことなんです。お経を本当に読めばそんなことは書いてない。
この修行僧には仏教が残っているんです。人から聞いたことや、仏典で読んだこと、いろいろ。つまり知っていることでしょう。
まだ思いの世界の住人だったと言うことです。
それに対して師匠は実に単純明快に示した。扇パタパタ。これよ、これ。たった今の風景です。この動作を何か形而上学的なたとえだなんて思っちゃーいけません。
そしてこのくだりでは、修行僧も「これこれこういうふうに分かりました」なんてこと言わずに、最も単純にこれを受けたことを示したとあります。ついに思いの世界の住人から、たった今へ降り立ったということです。


仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。
(ぶっぽうのしょうけん、しょうでんのかつろ、それかくのごとし。じょうじゅうなればおうぎをつかうべからず、つかわぬおりもかぜをきくべきというは、じょうじゅうをもしらず、ふうしょうをもしらぬなり。ふうしょうはじょうじゅうなるがゆえに、ぶっけのふうは、だいちのおうごんなるをげんじょうせしめ、ちょうがのそらくをさんじゅくせり)

仏法の悟りの証し、正しく伝わる経緯はこんなものですよと。誰しも最初は思いの世界の住人なんですね。こりゃまったく人間進化の未熟だと思います。思いの中身が実在するかのごとくの錯覚を持つものだから思いの中身に影響され、出来ないのに自分という観念が思いに手がつけられると思い苦しむ。仏教を聞いた人、知った人も皆このパターンで夢地獄のなかにさまよう。
悟りを開くとはこの夢地獄からポンとこのたった今に降り立つことなんです。
降り立つと言って、自分という思いの先導で降り立つんじゃーない。自分という思いが死んだらそこに立っていたっていうやつです。立っている人がいるわけではないけど。目の前の畳にすべてを明け渡す覚悟が必要なんです。ここをくれぐれも間違えないように。
たった今とは絶対確かな処ですよ。思いの中身は夢だけれど思いそのものは絶対確かな処です。かくしてどこにどうころんでも絶対確かな処にしか立っていなかったんです。
絶対確かな処に降り立ってみれば、五感からの情報量の膨大さに驚くことになります。そしてそれに応じて体の機能が活性化され進化していく。本当の修行とはたった今に降り立ってからですよ。仏性常住だから修行の必要がないなんて、殺生なこと言わないでくださいよ。おもしろいのはここからなのに。
                                                    完