富士紡小山工場従業員の供養塔 本堂の左手に、滝を背にしたこの碑(写真)があります。関東大震災で犠牲になった、富士紡績小山工場の従業員の皆さんの供養塔です。

 関東大震災は、大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模灘を震源に発生したマグニチュード7.9の大地震で、東京神奈川などを中心に関東一円に大きな被害をもたらしています。
 静岡県内では、駿東郡で197人、小山町(当時の北郷村及び足柄村を含む)では183人の死者がでましたが、その内富士紡績小山工場で、123人と最も多くの犠牲者が出ています。

 当時の富士紡績小山工場は耐火上、レンガ作りの建造物が多く、このレンガが耐震上脆弱でほとんど崩壊し、第1工場は半壊、第2工場は全壊、第1・2工場の食堂も全壊、第3工場および第4工場は、崩落の直後から火の手が上がってほぼ全焼し、第5工場だけは比較的被害が少なかったようです。

 このため崩落する煉瓦によって圧死したもの、倒壊した出口の周囲で倒れ、その後の火災で焼死したものが多く、死者の85%が、全壊した第2工場と、第3・4工場の人達であったとされています。
 又死者の内、88%が女子従業員で、静岡・神奈川などの近県出身者のほか、青森・宮城・岩手・山形・秋田等の東北諸県や北海道、沖縄からの出身者も多く、遠い異郷の地で震災の犠牲となってしまったのです。

関東大震災の被害を受けた富士紡小山工場
関東大震災の被害を受けた富士紡小山工場

 富士紡績小山工場は、明治31年(1898)9月菅沼の地(第1・2工場で、現在は丸善食品富士小山工場となっている)で操業を開始しました。以来小山町は富士紡績と深い関わりを持って歩んで来ましたが、甘露寺においても、凖提観音像大幟の布地の寄進を受けるなど、色々のご縁があります。
 甘露寺にあるこの供養塔は、富士紡績小山工場が建立した(昭和25年)ものですが、因みに第3・4・5工場物故者供養塔は、雲居山乗光寺(生土)に在ります。 

 甘露寺の境内に静かに立つ供養塔は、過去の痛ましい被災の証であると同時に、この前に立つ時、遠く親元を離れ、異郷の地で震災の犠牲となった、多くの年若い女子従業員達のことが胸に迫り、2度とこの様な悲惨な災害が起ることのないように、祈らずにはいられません。

(参考文献 『小山町史第8巻 近現代通史編』)