七曲墓地の中央に位置する平和観音は、今から丁度50年前の昭和44年11月に、茅沼・菅沼・坂下の遺族会により建立されました。それ以前は、今のC墓地東側下の山林になっている場所に、戦没者墓地として横一列に祀られていました墓所の管理はそれぞれの遺族によりなされていましたが、墓標は木柱のため、経年に伴う劣化が進み各自の墓標が確認できないような状態になっておりました。こうした状況を何とか改善しようと、三区の遺族会有志が協議して、各戸の御霊を合祀して平和観音として現在の場所に御祀りしたものです。ここに祀られている英霊は茅沼25柱・菅沼42柱、坂下13柱の合わせて80柱です。

従来から平和観音の清掃作業は、春彼岸前に菅沼遺族会・お盆前は坂下遺族会・秋彼岸前は茅沼遺族会が担当してきました。今年の7月8日、坂下区遺族会のお盆前の清掃作業の時、会員から平和観音の維持管理につき、雑草対策として、現在の化粧砂を除去して生コンを打設し、その上に敷砂利をする案が提案され、三区での協議をすることになりまた。10月7日、宮ノ台の忠霊塔清掃作業の際に、坂下遺族会の提案を両区の会員に計り、了承されました。改修工事費は最小限に納まるよう、原材料費を基本として、遺族会員31名(茅沼7名・菅沼・坂下各12名)が負担することとしました。

 改修工事は、プロの工事人のいないなか、坂下遺族会の有志により施工することにしました。11月17日に化粧砂の撤去・路盤工・生コン打設砂利の搬入を行い、20日に砂利の敷設と周辺樹木の伐採をして完工しました。今年は明治150年にあたり、小さな記念の仕事となりました。

 平和観音につきまして、極めて簡単な紹介となりましたが、日清・日露の戦役から大東亜戦争に至る国難に際して、自らの身命を賭して祖国に殉じられた諸霊に対しての思いを、さらに深めたく存じます。平和観音に祀られる英霊各位の御加護のもと、地域の安寧を心から御祈念いたします。

                              平成3012月 坂下遺族会 小野秋吉


富士を背にしてたつ平和観音像

 甘露寺七曲り墓地の高台に、富士を背にして平和観音像が安置されています。台座には、大東亜戦争等で戦没された、菅沼・坂下・茅沼区出身者77名の氏名と、明治百年記念事業として昭和44(1969)年11月に建立したことと、世話人の名前が刻まれています。

 曲がりくねった七曲りの坂をしばらく登って行くと、左側に墓地入り口の急な直路(すぐじ)があり、嘗てこの直路を入って右上段に、先の大戦で戦没された戦死者の墓がありました。
 墓は、戦没された順に左から右へと、ひと柱ごとに土を盛った土まんじゅうの墓で、ひのきの柱の墓標を立てた簡単なものでした。そして、戦没者が多いので、墓標が何本も重なり、それは枯木が林立しているような異様な風景でした。

旧戦没者の墓地と墓参の皆さん
墓標が林立した旧戦没者の墓地と墓参の方々
(昭和39年3月21日撮影)

 当時は、お彼岸やお盆ともなると、遺族はもちろん、区民や戦没者ゆかりの人たち等、三々五々坂を登ってお参りに来る人も多く、お線香のけむりが立ち込めていました。

 しかしながら、戦後20数年もたつとお参りする人も少なくなり、それに墓標も朽ち、書いてある字も磨耗してきて、誰の墓かわからない状態となってきました。
 このままでは墓地が荒廃してしまい、悲惨な戦争が忘れ去られてしまう心配があり、国のためにと尊い命をささげた戦没者に申し訳ないとのことで、昭和44年11月に明治百年記念事業として、戦没者の安らかな眠りと、二度と再び戦争をしない平和日本を願い、台座の中に墓地の砂をひとにぎりづつ入れた、平和観音を建立しました。
 平和観音は、富士を背に、戦没者が生まれ育った郷土を見渡し、日本の永久の平和と、郷土の発展をいつまでも温顔なまなざしで見守っています。

平成18年4月  岩田貞行記

(七曲墓地の案内図)
七曲墓地の案内図
七曲墓地入口付近 旧戦没者墓地のあった所
七曲墓地の下入口付近
(平成18年7月撮影)
旧戦没者墓地のあった所
(平成18年7月撮影)