建武2年(1335)竹之下合戦戦没者供養のため、嘉慶元年(1387)駿河国御厨郷菅沼ツウジハナの地に、甘露寺を開創建立した正巌徳勝和尚(俗名楠木正勝公)は応永18年(1411)1月15日、享年60才で所縁の地、奈良県吉野郡十津川村字武蔵で、生涯を閉じられたと伝えられています。
以来600有余年の長い歳月を経て、当時をとどめる開創の寺跡は、農地や原野に形を変え、このままでは寺の存在したこと自体さえ、忘却の彼方に没し去ることは必定と深く憂慮しておりました。末光住職をはじめ、役員一同の厚い信仰心のもと、甘露寺開創の跡を後世に残すべく、平成元年開創の地碑建設を決定、平成3年4月待望の記念碑を完成することができました。
記念碑建設にあたり、特に地主の山崎英一様のご好意により、土地の寄進をいただき、檀家信徒のご援助はもとより、地元の方々のご理解と、測量設計ならびに工事を担当された業者のご努力により、初期の目的を達することができました。甘露寺、及び関係者各位と共に、深く感謝いたすところです。
(当時の護持会会長 湯山昭男氏の巻頭の辞より)
開創の地跡ツウジハナにて (地主さん 左から二人目と共に) |
開創の地がツウジバナと云う所にあることは寺伝で知っていましたが、私も又たぶん先住さんも具体的な場所は判っていませんでした。碑建立の話は、用澤地区の古地図に、甘露寺開創の地が記されていると云う話から始まりました。それは、大蔵寺の吉岡道隆現住職さんが、高校生の時これを見、その事を先住嶋崎老師に話され、その話を更に総代さんに話された事による様です。
その総代さんより、古地図を見に行くことが発案され、護持会長さんが用澤区長さんに連絡をとり、平成元年8月12日、用澤区公民館に虫干中の古地図を見せて貰いに伺いました。公民館の中には、畳6帖くらいもあったであろうか、細長い色ぬりされた古地図が3枚ほどあった様に記憶します。しかし残念なことに、どの年代の古地図にも、甘露寺跡を記したものを見い出せませんでした。落胆した我々に、用澤区長さん達は、甘露寺跡と伝承されている場所が、菅沼地先であり、用澤区の地図に記載されていないことは当然であること、又用澤地区を一歩またぐと甘露寺跡だと云う場所を教えて下さいました。
私は内心、これは望みがないと悲観していますと、そこは粘り強い総代さん方で、とにかく甘露寺跡と云う所に行こうと云いだされました。私は小山町に来てまだ3年半ほどしかたっておらず、土地感もありませんでしたが、総代さん方は、先の話と古地図で、この辺だろうと云う場所に来ました。そこは川が流れ、周囲は一面の田圃で、日当たりも良く、しかも昔の主要道路に面し、寺を建てるには最良の場所だと云う話が出ました。しかし、寺の跡らしき物は勿論皆無で、取り付く島のなさを感じました。偶然にも、田圃の奥の方で暑い中、土手の草を刈ってられる方がいられ、甘露寺跡のことを聞くことになりました。
その方が、地主の山崎英一さんで、
(1)ここが甘露寺跡と云われる所であり
(2)田の中から念珠等が出てきたり、大きな木が植っていたこと
等の話を聞くことが出来ました。この話を聞き、今までの沈んだ気分がガラリと変った事を思い出します。そんな嬉しさのあまりか、湯山 智さんが突然、甘露寺開創の地の記念碑を建てさせてもらえる様にお願いしだしました。これに対し、地主さんが極めてあっさりと、記念碑建立の承諾をして下さった好意には、大変驚いた記憶が今でも鮮明です。
その後は、総代さん方を中心に、各所に頻繁に足を運んで事を推進したり、又智恵を出して下され、大変順調に進みました。その中で、主な出来事について要点のみを記していきます。
開創之地碑の裏面 |
<土地寄進に関する件>
地主の山崎英一さんより、甘露寺開創の地の記念碑を建立することの承諾を得ましたが、その時は立ち話でもあり、正式なお願いに平成元年10月17日に自宅に伺いました。当初は総代さん方も、目印程度の簡単で小さな記念碑を、田圃の畦道の隅に建てる考えでいたと思います。それが、同12月15日には地主さんより、土地の無償提供のありがたい申し出を受けました。平成2年5月19日に、現地立会いをして、具体的な土地の位置を決めました。地主さんの15坪ほどもある無償提供の広さに我々は泡を食い、最終的には、約半分ほどの23uの寄進を受けることになりました。菅沼ツウジハナ1836の4が、記念碑の建っている所です。地主山崎英一氏の御好意に報いる為、碑の裏に寄進のことも含め、次の様に記しました。
建武二年の竹之下合戦戦没者供養の為、嘉慶元年、正巌徳勝和尚、俗名楠木正勝公により、このツウジハナの地に甘露寺を開創建立、又元和三年鐵心御洲禅師により、菅沼坂下の現在地に移転再興すと伝う。茲に、用澤区の山崎英一氏より土地の寄進を得、記念碑を建立し、後世に伝うもの也。
平成三年四月吉日
法雨山 甘露寺廿一世 仙峰愛正代
甘露寺・甘露寺護持会 建立
開創の地碑建立地鎮式 平成2年10月27日 |
<記念碑建立工事に関する件>
記念碑に使用する石についても、皆さんが種々智恵をしぼって下さいました。甘露寺跡には、黒色の平べったい石(約長さ110p・巾60p)があり、甘露寺開創当時と関係あるものと考え、これを使用して、記念碑を作ろうと云う事になりました。地主さん、用澤区長さんに了解を得、当時そこの道路の拡張工事をしていた河野建設さんに、石を寺まで運んでもらいました。又岩田孝之さんより、碑の台石の提供を受けました。ただ、建設する土地の広さとのバランスよりして、ともに小さすぎる等の服部石材店さんの御意見で変更し、現在使用の石となりました。甘露寺跡にあった石は、境内滝の上の文化財第1号の宝篋印塔の所に、記念の石として安置してあります。又、岩田さんの石は、本駐車場の石垣積みの一部に利用させてもらいました。
記念碑の「甘露寺開創之地」の揮毫は、大雄山最乗寺(道了さん)山主、余語翠巌老師にお願いしました。快く御了承を得、更に役員さん用の色紙までお願い出来ましたことは、大変な幸せでした。碑の老師の揮毫は、掛軸にして寺の宝としています。尚、最乗寺は、本寺の龍穏寺、甘露寺と続き、最乗寺から見ると甘露寺は孫末寺となります。
基礎の造成工事は、河野建設さんにお願いしました。予定地は道路より下にあった為、道路の高さまで土台を上げることになりました。本物の石で石垣を積める石屋さんが、当時でも少なく、探して二人目の石屋さんが、石垣積みの工事をしました。石屋さんは希少なため、専務である息子さんが「俺より石屋の方が日当が良い」と云ったことを思い出します。更に河野建設さんには、造成工事費を大変安くしていただいています。大変御協力をしていただき、感謝申し上げます。
開創の地碑の除幕式 平成3年4月8日 |
「甘露寺開創之地」の記念碑の除幕式の導師は、前住さんの天嶽院 島崎興道老師にお願いしました。この日は、平成3年4月8日の甘露寺の大般若会の日でしたが、式中はものすごい土砂降りで、参列者一同大変な思いだったと思います。「山号が法雨山だから、雨が降ってもしかたがない」と苦笑して終わるのが、おおらかな甘露寺の良い点です。
(『甘露寺開創の碑建立と正勝公墓参の記録』 平成11年正月発行より抜粋)