この尊像は、甘露寺十九世の深谷博道老師が、釈尊降誕2500年を記念して、富士紡績(株)で織られた上厚地の白木綿地200反(縦21間−約37m、横11間半−約20m、重量75貫−約280kg)の大幟を作り、昭和9年10月27日明倫小学校の校庭に於て、恩師修禅寺住職丘球学老師が、箒大のミゴ筆に墨汁4斗半−約80リットルを用いて、3時間余りで布地一杯に描き上げた、正に日本一の大観音様の大幟であります。
翌年の昭和10年11月17・18日の両日、高さ130尺(約39m)の大櫓に掲揚され、盛大な開眼法要が行われ数千人の参詣で賑わいました。
霊峰富士を背に秋光をあびてひるがえる偉観は、荘厳の限りであったと、当時の各新聞は伝えております。
凖提観音像を揮毫する丘球学御老師 | 大幟の虫干し供養 昭和61年夏 明倫小学校にて |
※大芝好雄氏(博道老師の次女のご主人)が、「深谷博道老師遷化25年追悼集」に、当時の様子を綴った一文を寄せています。大幟が描かれた時の様子を伺い知ることが出来ますので、ここにご紹介します。
凖提観音の思い出
一、凖提観音像描かれる
昭和9年10月27日の、その日は快晴でした。その日は日曜で、私が小学校三年のときでした。朝、姉より「修禅寺の和尚さんが、小学校の校庭で、観音様を描かれるよ」と教えてくれた。私は興味があったので、午前10時半ごろ小学校へ飛んで行った。すでに学校に近い人達や生徒が集まっていた。さらに、県外からもきた人がいて、見物していた。
校庭は、平らに見えるが、地面は凸凹である。真っ白い巨大な布地が、汚れないよう近所の人が手助けして、地面にござやむしろが敷かれた。その上に真っ白い布地、縦21間(約39メートル)横13間(約24メートル)を敷き終わった。修禅寺の修行僧が、筆(竹箒のような巨大な筆)一本、金だらい(大1コ)、バケツ(大1コ)、墨(約5.6缶)などが揃えられ、準備完了した。
時刻は正午となり、一時休憩となった。午後1時、修禅寺住職丘球学高師、深谷博道老師、修行僧らが、校庭に着かれた。そして真っ白い巨大な布地に上がり、丘球学高師は、その大きさを確かめられた。法衣を正し、書き下ろす一点をじっと見入っているようでした。それから、巨大な筆を金だらいに入れてある墨に、十分に浸し、その一点、頭部に筆を下ろし、一気に書き始めた。首、胴、裾回しの順で書いていった。丘球学高師が動くたびに、筆・墨・金だらい・バケツなど移動させるため、深谷博道老師・修行僧が後に続くのに、早足や跳ね回ったりで、大変であった。これを数回行った。
ここに、丘球学高師によって凖提観音像が見事に墨書された。それを見た見物人は、どよめき拍手喝采でした。そして午後4時半頃引き上げられた。
二、盛大な凖提観音開眼供養
昭和10年11月17日は晴天であった。午前8時半ごろであったと思いますが、花火が上がった。私は午前11時ごろ、甘露寺へお参りに行った。
甘露寺の山に凖提観音像が浮かび上がり、素晴らしい肖像であった。本堂では、大勢の和尚さんがご臨席され、凖提観音開眼供養を盛大に営まれていた。また、境内には、露天商が出店を並べ、綿がし、味噌おでん、たこ焼き、焼きもろこし、玩具、金魚すくいなど、大変な賑わいでした。
この供養を、どこで知られたのか、東京から女優さんや著名人らがお参りにこられたようです。
大芝好雄 記
『星霜八十年----深谷博道老師遷化25年追悼集』 平成10年2月19日発行より抜粋
平成15年5月24日開基六百回忌を記念して、凖提観音大幟がご開帳され、ここに檀信徒の悲願が68年の時を経て達成されました。
末光愛正現住職は入山以来、十余年の歳月をかけて掲揚の構想をねり、ご開帳に向けて役員や檀信徒を指導督励し、入念な準備をととのえてこの日を迎えました。
そのような真摯な姿が凖提観音様にとどいたのでしょう、当日はことのほか爽やかで、そして穏やかな日和に恵まれました。
2000人を超える参詣者は、観音様の慈眼につつまれて、ともに歓びと感動を分かちあう一日となりました。
大幟を揮毫された丘球学老師 | 大幟を発願された深谷博道老師 |
『大幟まつり記念誌』 平成17年2月20日発行より |