阿弥陀如来像(仇討ち如来) 茲光堂の御厨子の中に祀られている阿弥陀如来像には、次のような物語があります。

【阿弥陀如来像にまつわる物語】
 天正5年(1577)3月、武田勝頼が天目山で滅んでから家臣の湯山将監は、甲州から落ち延び、菅沼の里に土着したのは27歳の時であった。まだ若くはあり、天下の風雲を望み、いつかは再び世に出る折もあらばと日々武芸の訓練を怠らなかった。「馬場」と云う地名の処は将監が馬を乗り回していた処で、「的場」は弓を引いていた処である。
 雌伏すること十三年、時来って天正18年(1590)7月、豊臣秀吉が小田原を攻める時、地方の武士を募集したのに応じ、抜群の功をたてた。小田原落城の後は秀吉の側近くに仕え、京都や伏見に出仕する身となったが、文禄4年(1595)朝鮮征伐中、伏見城を増築中の普請奉行と意見の衝突から、3月28日の日に奉行を討ち果たして郷里の菅沼へ逃げ帰った。
 しかし、すぐその後を追っ手の勢が逼ってきたので、我が家には入れず、猪鼻山(金時山)にひそんでいた。追手は「桑木」の込山甚助に案内させ、将監の隠れ場所を突き止めることが出来たが、(将監は聞こえた強弓の引き手、うかつに攻めては味方の損害が多きいから夜襲せよ)と夜襲の手配をしている時、村人の中で将監に通じる者があったので、将監は山伝いに相模塚原に逃れ、そこで姿を変えて9年間隠れているうちに世も変り、討手の窺う様子もないので、菅沼に帰ってきた。10年ぶりに帰って見ると、家は弟の重右衛門が後をつぎ、相当の身代をこしらえて豊かに暮らしていたので、鮎沢川の畔(明倫小学校の下「水の音」−地名−)に隠居家を建てて貰って、そこで風月を友とし、平和な幾年かを過していた。
 ある日のこと、この村に阿弥陀如来像を背負った六部が来て、一軒々々寄って行ったが決して深編笠を取ろうとはせず、世間話をしているうちにも何かを探っている風に見えた。六部が羽黒坂の下を通りかかった時、向うから将監が葦毛の馬に乗って坂を登って行くのに出会った。六部は黙ってこれを見送っていたが、人馬の姿が見えなくなると、背負っていた如来像を背から降ろし、小高い処に置いて傍らの藪に隠れていた。しばらくしてから坂の上に再び馬のひずめの音が聞こえ、将監が姿を現した。将監が馬上悠々と下って来る処へ六部は不意に飛び出し、物をも云わず切りつけた。将監は馬から転がり落ち、「下垣内」の平らな処まで逃れたが及ばず、そこで討たれてしまった。
 今、路を隔てて田んぼの中に東と西に分かれて二基、苔むした供養塔が建っている処がその場所である。六部は如来像を置いたまま、急いで村から去ったが、お像を置いてあった場所は「阿弥陀窪」と云い、お像は村人に拾われて厨子のまま甘露寺に祀られるようになった。また字「飯場」の上のこんもりと木の茂った大きな塚を「将監塚」と云っている。

(『史実と伝説』「富士山麓の巻」 昭和33年 松尾書店 より抜粋)

   
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