倒壊した堂宇
地震で被害を受けた甘露寺

 関東大震災は、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に、相模灘を震源に発生したマグニチュード7.9の大地震で、東京神奈川などを中心に関東一円に大きな被害をもたらしました。
 小山町でも183人の死者が出た他、富士紡績小山工場が壊滅的な被害を受けたり、多くの家屋の倒壊や、神社仏閣等もその殆どが大なり小なりの被害を受けました。

 正巌徳勝和尚(俗名楠木正勝)によって、嘉慶元年(1387)菅沼のツウジハナの地に建立された甘露寺は、元和三年(1617)現在地に再興され、元禄2年(1689)には立派な本堂が再建されましたが、この震災により鐘楼を残し、全ての堂宇が倒壊する大きな被害を受けました。

 時の住職であった十八世深谷道契老師は、資金や資材も不足する中、大変ご苦労をされましたが、檀信徒の並々ならぬ協力も得て、早くも2年後の大正14(1925)年6月には立派に本堂の再建を果たされています。

 再建された本堂は、70有余年の風雪に耐えて来ましたが、老朽化が著しく改築されることとなり、平成6(1994)年5月に解体されました。

 震災後の本堂再建に当って、道契老師が記された『甘露寺本堂再建募縁序』には、ご苦労された当時の老師の心情を思わせるものがあり、ここにその一部を掲載させて頂きます。

 再興ニ最モ力ヲ致セシハ、二世鐡心御洲禅師ナリ。禅師ハ晩年大本山永平寺二十九世ノ貫主ニ晋ミ、霊元天皇ヨリ大覺佛海禅師ノ禅師号ヲ宣下セラル。
 五世祖嶽和尚(宝永四年八月三十日示寂 距今二一八年)ニ至テ伽藍完備シ、中興ノ祖ト仰グ。七世禅嶺和尚ハ、祖師堂・大小ノ梵鐘・大五輪塔ヲ創立シ、宗風挙揚ニ(ツト)メラル。
 尓来盛衰ノ葛藤裡ニ出没シ、安政ノ震災ニハ壁土落下セシノミニテ、伽藍ニ些ノ破損モナク、壁ヲ塗リ替ヘシ記録アリ。明治ニ入リテ衰頽ニ傾キ寺運極メテ非ニ陥ル。
 余は明治三十三年請ヲウケテ赴任。以来鋭意信仰ノ鼓吹ト、寺録ノ整理ト、伽藍ノ完成トニ力メ、檀信徒各位ト協力シテ稍完備ノ緒ニツキシモ、突如トシテ襲ヒ来レル大震災ノ為メ、遂ニ倒潰ノ厄ヲ蒙ル。為メ遂ニ鐘楼堂ヲ余シ、堂宇全部倒潰ノ厄ヲ蒙ル。檀信徒各位モ甚大ナル被害ニモ拘ハラズ、白熱的ノ随喜心ニ依テ、短日月ニ取リ片ズケヲ了ズ。(以下略)

倒壊した本堂 再建なった本堂と大玄関
倒壊した本堂(屋根上に立つ道契老師) 再建なった本堂と大玄関
戦前の甘露寺
戦前の甘露寺−小見山先生画(昭和初期)
当時は山門が銀杏の木の階段の所にあったことが判る。
赤い屋根は、鉄板葺きで未塗装のため錆びたものか。
境内も整った本堂
境内も整ったその後の本堂(平成5年春撮影)
黒い屋根は、コールタール塗装のため。
再建された本堂の内部 大玄関から本堂への階段
再建された本堂の内部 大玄関の客間と本堂への階段
本堂の本陣
本堂の本陣(佛天蓋は昭和49年(1974)に新調)