甘露寺開創の地と開創碑 法雨山甘露寺は、楠木家ゆかりの菊水を寺紋とする曹洞宗(そうとうしゅう)の名刹です。
 寺伝によると、甘露寺が菅沼のツウジハナの地に建立されたのは、嘉慶(かけい)元年(1387)といわれています。この年は、南北朝統一の5年前、南北朝分裂の時代【建武2年(1335)〜元中9年(1392)の57年間】の末期にあたります。開基は、大楠公楠木正成(くすのきまさしげ)公の孫に当る、楠木正勝(まさかつ)公と伝えられています。
 正勝公は若く血気盛んな頃に、南朝方の武将として吉野山の西部十津川方面で戦いました。その敗色のこい戦いで、人間の運命のはかなさを知り、仏門に帰依(きえ)し、正巌徳勝和尚(しょうがんとくしょうおしょう)となり、ここ駿河国御厨(みくりや)郷菅沼ツウジハナの地に、真言宗(しんごんしゅう)の箱根金剛院の末寺甘露寺を建立し、建武2年の竹之下合戦の戦没者の菩提(ぼだい)を弔ったといわれています。
 楠木正勝公は、応永11年(1404)(一説には、応永18年)1月15日行年61歳で、ゆかりの奈良県吉野郡十津川村字武蔵の地で生涯を閉じられました。

 寺は、天文9年(1540)一時衰微(すいび)しましたが、元和3年(1617)、龍穏寺(りゅうおんじ)十八世洲珊嶺渚禅師(しゅうさんれいしょぜんじ)が菅沼の現在地に甘露寺を再興し、曹洞宗に改めました。再興に最も尽力された二世鉄心御洲禅師(てっしんごしゅうぜんじ)は龍穏寺の二十二世であり、更に大本山永平寺の二十九世になられた高僧です。

関東大震災で倒壊した本堂
関東大震災で倒壊した本堂
(屋根上に立つ十八世深谷道契老師)

 五世の元禄2年(1689)に本堂を再建、七世の代に祖師堂(そしどう)鐘楼(しょうろう)等を整備、十八世の代には関東大震災により倒壊した本堂を再建しました。そして、先住の二十世の代に書院・総祠堂(そうしどう)等を建立し、現住の代には、平成8年春、本堂の大改築をなして、今日に至っています。

 甘露寺では、平成3年(1991)春、菅沼ツウジハナ(現国道246号バイパス菅沼交差点・小山町立青少年会館付近)の地に『甘露寺開創の地』の碑を建立し、昔を偲び今日あることの喜びを新たにして、感謝をあらわしました。

 又、平成14年5月下旬には、開基様の六百回忌を1年後に控えて、奈良県十津川村にある楠木正勝公の墓参を行うと共に、分骨をして頂き開基塔に納骨し、平成15年5月24日六百回忌の法要を済ませることができました。

 甘露寺本堂横手の小高いところに、開基塔と並んで宝篋印塔(ほうきょういんとう)がありますが、この宝篋印塔は菅沼地先ツウジハナから移されたものといわれています。その銘文によりますと、応永7年(1400)に甘露禅寺住持比丘徳勝によって、立てられたことがわかり、寺伝の一部が裏付けられます。この宝篋印塔は、昭和48年(1973)小山町の文化財第1号に指定されました。

楠木正勝公の墓 開基様の分骨を納めた石櫃 甘露寺の開基塔と宝篋印塔
楠木正勝公の墓
(奈良県吉野郡十津川村)
開基様の分骨壺を
納める石櫃
左:分骨を納めた開基塔
右:宝篋印塔(指定文化財)