甘露寺は、五世祖嶽和尚によって元禄2年(1689)に本堂が再建され、七世禅嶺和尚によって、鐘楼や祖師堂などが整備されて、寺院としての体裁が完備されました。
 しかしながら、その後地震や台風などの被災、又明治維新での国の施策(神仏判然令)など、多くの苦難の時を経て来た中で、何時の頃からか梵鐘はその姿を消し、山門も強風の被害を受けて倒壊してしまいました。

 何とか境内を昔の姿に戻し、寺院本然の姿を整えたいという檀信徒の強い願いから、昭和51年(1976)梵鐘の再鋳造と山門の復元事業が行われました。

完成した鐘楼 復元された山門
完成した鐘楼、屋根もきれいになりました。 復元された山門

 当時の「梵鐘再鋳と山門復元事業趣意書」には、次のように書かれています。

 殷々響き渡る除夜の鐘は素より、暁を呼び、夕を告げる寺の鐘の音ほど、私達の心に敬虔な祈りと寛ぎを覚えさせるものはありません。人生の哀歓は鐘の響きの中に()められていると申しても過言ではないと思います。
 又、山門をくぐり、石段を登ってお寺詣りをする風情は、大鳥居をくぐり、玉砂利を踏んでお宮詣でをする心の清々しさにも比すべく、私達佛教徒には、ほのぼのとした安らぎを覚えさせます。
 然しながら、当甘露寺には、鐘楼はあっても梵鐘がありません。又、山門は本堂の床下に解体のままという侘しい現状であります。これを、なんとか昔あったような梵鐘を再鋳し、山門を復元して、甘露寺本然の姿に再現したいという念願は時既に久しく、今やその悲願は檀信徒の声となって澎湃として湧き上がって居ります。
 因みに、梵鐘がいつ、どうした理由で鐘楼から姿を消したのか、それは詳かではありませんが、これが新鋳されたのは、享保13年(丁未、1727年)で、今を去る249年前であります。その歴史的考証は、この梵鐘と親子関係にあった本堂内の殿鐘(梵鐘新鋳の時残りの地金で3年後に鋳造された小鐘)が、戦時中供出された際、北駿郷土史研究会が、北駿一帯の寺院のこの由来を記録に残して後世に伝承するため、丹念に調べて廻り、当甘露寺に於ても、その殿鐘に刻まれてあった銘文から梵鐘新鋳の年代が確認出来たのであります。従って、昭和51年は実に梵鐘新鋳250周年という、記念すべき年に当るわけであります。
 一方、昔甘露寺正面の参道入口を飾った山門は、傍の大公孫樹と共に、当山のシンボルとも言うべく私達の子供の頃、この山門付近が子供達の唯一の遊び場となったことや、あの頃の山門の輪郭などが今は懐かしい想い出となって、私達の胸に去来するのであります。
 ところが、昭和9年頃、一夜突如として襲った強風(一名角取り(おろし)に、口惜しくも、山門は倒壊の憂き目に遭い、爾来、再建の日の目を見ず、いつしか四十有余の歳月が流れているのであります。
 由来、山門・鐘楼は、何れも禅寺の所謂七堂伽藍に欠くことの出来ない堂塔の中に数えられ、寺院はこれに依って寺院本来の風格に臥竜点晴の装いを凝らすこととなり、檀信徒の心の拠りどころとして、一段と壮厳の光彩を放つものと私達は信ずるものであります。
 就ては、茲に檀信徒並びに一般篤志家の方々の浄財の御寄進を仰ぎまして、梵鐘新鋳250周年記念事業として、由緒ある梵鐘再鋳と山門復元の悲願を達成致したいと念願するものでございます。(後略)

                昭和50年4月8日
                       法雨山甘露寺  檀 徒 総 代
                               護  持  会

殿鐘の銘文の拓本 殿鐘の銘文
殿鐘の銘文の拓本
(谷戸 故湯山厚氏蔵)
殿鐘の銘文
(享保15年秋9月の年号が明記されています)

梵鐘の無い鐘楼 山門の無い正面参道
梵鐘の無い鐘楼(修復前) 山門の無い正面参道
重石を下げて鐘楼のテスト 工事中の山門をバックに記念撮影
鐘楼の強度を調べるため
重石を吊り下げテストもしました
復元工事中の山門をバックに
奉仕作業の皆さん

甘露寺梵鐘銘(新梵鐘の銘)
 甘露寺の新梵鐘銘は、永平寺の貫主であった丹羽廉芳禅師によって作られました。以下の文は、その因縁について書かれたものですが、原文は漢文であり、読解が困難なため、訳文(岩田 晶氏訳)をご紹介します。

甘露寺梵鐘銘

静岡県駿東郡小山町菅沼法雨山甘露寺は、初め真言宗箱根金剛王院の末寺也。楠正勝公嘉慶元年の開基。
公は南朝の忠臣大楠公の第三子正儀公の長子にして、応永の乱の後に大和十津川に逃れ出家入道して正巌徳勝と号し、斯の寺に住す。応永七年建立の宝篋印塔有り。天文九年衰癈す。爾後、元和三年、後の永平二十九世鉄州御州禅師、寺を現在地に移し、本師龍穏の十八世洲珊嶺渚禅師に請いて開山為らしめ、自ら第二世に居る。元禄二年、五世不峻祖嶽和尚本堂を再建中興す。享保十二年、七世癡兀禅嶺和尚、新たに梵鐘を鋳し、鐘楼、山門を築く。然りと雖も、斯の鐘何れの時にか紛失せり。昭和五十一年は七世和尚新鋳より、二百五十年記念に相当。現住二十世如拙興道和尚、與且つ信、衆と謀り且つ力を戮せ再鋳を発願し、来りて銘を余に乞う。
因りて銘を作る。銘に曰く
  洪鐘(いがた)より出で、山麓に高く懸る。
  一(しょ)両杵すれば、心軟らかなること綿に似たり。
  三杵四杵すれば、身静にして禅に入る。
  霊峰をこう揺し、諸天をいん動す。
  (せん)尖角角とし、妙を説き玄を説く。
  百鳥法を(たた)え、龍虎穏やかに眠る。
  華鐘再び鋳し、宝器新に(みが)く。
  法雷轟響して、罪(けん)を滅除す。
  甘露慈潤して、青蓮を湧出す。
  (じょう)嫋たる餘韻、よう流清泉のごとし。
  浄財の施主、皆な(とも)に肩を(なら)ぶ。
  諸願成就し、功徳無辺なり。

             昭和五十歳次乙卯十一月吉日
                       駿陽羽鳥洞慶院
                            独住第六世瑞岳廉芳撰

                            現甘露廿世如拙興道恭
                              (嶋崎興道謹書)

新梵鐘の銘文 新梵鐘の残鉄で作られた小鐘
新梵鐘の銘文 新梵鐘の残鉄で作られた小鐘

梵鐘再鋳・山門復元が成ったことを喜び、奉賛歌が作られています。
(梵鐘初鋳二五〇周年記念−昭和51年4月8日)
梵鐘再鋳・山門復元奉賛歌