続思い出
護持会前顧問 菅沼 岩田貞行
嶋崎興道老師を語る(私の役員時のご住職)
深谷博道老師が大本山総持寺へ招かれた後、博道老師の意にかなったお坊さんとして嶋崎興道老師を甘露寺にお迎えすることになったのです。老師の容姿は、仏像のように彫りが深く目鼻立ちの通った細身で風格のある聡明な老師さんでした。
ある時老師が私に「甘露寺を七堂伽藍のような寺にしたいものだ」と話されたことがありました。そのためか老師は書院、鐘楼、総祠堂等の整備を進めていたのはその一環であったのかと思いました。
甘露寺の七堂伽藍を夢見ていた老師は、突然藤沢にある天嶽院の住職に迎えられ、そちらに行くことになったと聞きあまりにも急なことなので驚きました。天嶽院は小田原北条家の菩提寺で七堂伽藍の大変格式のある寺院です。その後甘露寺の親睦旅行で伺った時には興道老師から手厚いおもてなしを受けたのです。老師が甘露寺を七堂伽藍の寺にしたいと云われたことを思い出しました。
天嶽院の住職となられた老師は、甘露寺の大般若会には毎年必ずお越しになられ、本堂の床の間のある部屋の席でおつとめをされていました。大般若会が終わりお礼の挨拶に伺うと、決まって云われた言葉が「甘露寺を頼みますよ」という言葉でした。遠く天嶽院におられても甘露寺を思って下さっていることにありがたいことだと思いました。また老師からは、達筆で、富士山や達磨の絵などを墨絵で書いた年賀状を、毎年頂いていました。
厳格で聡明な老師は、その後体調を崩され平成二十七年三月四日九十五歳の生涯を閉じられたのです。お骨は分骨していただき甘露寺歴代住職の墓地に埋葬されました。
岩田肇さんと柳井藤義さんを語る
本堂の左手に清流が音を立てて流れ落ちる「戒心の滝」があります。この滝は岩田肇さんと柳井藤義さんが丸太三本で三股を組みチェンブロックを取り付けて、あの大きな石をソロリソロリと慎重に動かし積み上げた滝です。現在のように重機がまだ使われていない時、二人は毎日真っ黒になって一生懸命、石と取り組み築き上げた滝で、その技術は大したものだと感心していました。私も時々手伝いをしましたが、三股を使いこなす技術を持った人は、今ではいないと思います。
このように二人が無心になって築き上げた滝の名前は、岩田肇さんが深谷博道老師から生前授かった戒名「戒心」からとって名付けられたのです。
また、書院の床の間に観音像が安置されていますが、この観音像の台座は我が家の屋敷にあった紅葉の古木の根っこを二人で何日もかかって掘り出し磨き上げた台座です。
戒心の滝や、観音像を見るたびに二人がなりふり構わず一生懸命に働いている姿が浮かんできます。
岩田肇さんは昭和五十七年九月二十七日、八十歳で、柳井藤義さんは平成三年五月三十日七十八歳でお亡くなりになりました。
日比野忠雄さんを語る
寺の年中行事の一つに、皆さんが楽しみにしている親睦旅行があります。旅行の目的地が決まると日比野さんは、参加者が楽しく安全に旅行ができるようにと下見をしてきてくれます。どこに何があるか、時間は大丈夫か乗下車場所は等、細部にわたり調べ日程を作ってくれます。
旅行の募集をするといつも大型バス二台分余りの申し込みがあるため皆は早めに申し込みます。当日は日比野さんが作ってくれた計画通りに進み、旅は盛り上がり事故一つなく安心して楽しく旅行ができました。
また、大般若会には素晴らしい生花を生けて下さったり寺の諸行事にはよく気が付いて率先して参加し、盛り上げてくださり楽しく行事ができたのも日比野さんがいてくれたからだといつもありがたく感謝していました。
湯山宏一さんを語る
平成十五五月二十四日甘露寺開基正厳徳勝和尚六百回忌記念事業として、寺宝である日本一の準提観音大幟の御開帳、稚児行列をはじめ様々な催し物を行いました。老若男女二千三百人余の参詣者があり、事故一つ無く盛会に終わることができました。それには湯山宏一さんを忘れることはありません。
催し物が決まると日程を決めなければなりません、準備万端整っていても雨が降ってはどうしょうもありません。心配した湯山さんは御殿場測候所に行ってここ数年間降雨の無かった日を調べあげ五月二十四日が振っていないということで決定されたのです。
また大幟を揚げるにはどうしたらよいか、昭和十年十一月十七日準提観音大幟開眠供養として掲揚された写真を見ると丸太を組んで揚げたようです。今まではなかなか丸太を組む人もいなく検討の結果大型クレーン車二台を使って掲揚することにしたのです。
湯山さんは風によってクレーン車が横転しないか、揚げた大幟が破れないか、このような状況を心配し、クレーン車のオペレーターと綿密に協議し、絶対に事故を起こさないよう慎重を期しました。
また湯山さんは警察や消防とも協議を重ね万全な対策を講じて下さいました。当日は晴天に恵まれました、時々風がありましたが打合せどうり皆さんが対応してくださり無事故で終わったのも湯山さんのこのような気配りがあったからこそです、縁の下の力持ち的存在の人でした。
湯山さんは、皆さんから惜しまれ平成二十四年二月十二日六十八歳の若さでお亡くなりになりました、これからまだまだ寺のため、社会のためにご尽力いただけると思っていただけに残念でなりません。
信頼関係の言葉「おらっちの寺だもの」
私は昭和五十年四月から今日まで四十七年余り役をさせていただいています。この長い年月の中でいつも感じることは、寺と檀信徒との関係です。寺の諸行事を行う時には皆さんのご理解とご協力が何よりも必要です。時には大勢の人に役をお願いすることがあります、その際には誰もが「おらっちの寺だもの」といつて喜んで引き受け協力をしてくれます。ありがたいことだといつも思っていました。
このように寺と檀信徒の良好な関係は歴代の住職と檀信徒が長年にわたり培われてきた信頼関係そのものだと思います。
今まであまり語られてこなかった一つに本堂改築事業を記念して、寺の裏山にケヤキを植樹したことです。ここには間もなく成木として利用できるヒノキが植林されていましたが、大風により大部分が倒木してしまいました。この跡地を地拵えしていつの日かまた本堂改築等があつた時に利用できるようにと、今から準備をしておこうと、ケヤキの苗を植林し毎年撫育管理をしています。
倒木してしまったヒノキも、きっと当時のひと達も、寺の改築等があった時に利用するように、植林されたものだと思いました。
このように檀信徒の皆さんは、寺を思い隆盛を念じ、親しみをもって菩提寺甘露寺を「おらっちの寺」と呼んでいるのです。
長い年月には色々と人との出会いがありました。一人ひとりの思い出が沢山ありますが、紙面の関係割愛させていただきます。ありがとうございました。(令和三年十月記す)
追記、この原稿は、令和5年4月8日発行の護持会会報に掲載出来なった全文を載せたものです。