ハイテクの町 小山 岩田 明
テスラという電気自動車が世界中で大変な人気だそうだ。2003年にカリフォルニア州シリコンバレーで誕生したこの新興企業は大変な勢いで成長し、株価の時価総額では、トヨタ自動車を上回ってしまったそうだ。その間、20年足らず。会社の歴史や規模、生産台数では全く及ばない新進の企業が、新しい技術と製品で市場の評価を得ているようである。また自動車業界は100年に一度の変革期と言われ、ガソリンやディーゼル車から電気自動車などへの変換が進むようである。素人の私などは、電気自動車が増えればそれだけ電力需要が増え、火力や原子力発電所が増えることになりはしないかと憂うのだが、車が出す排気ガス、熱による公害や環境汚染の方が火急の課題なのだろう。
シリコンバレーや中国の深圳は、新しい企業が多く生まれ、育ち上場する場所として有名である。最近は地価の高騰で住居費が高くなり過ぎて、敬遠される向きもあるようだが、若く才能豊かな経営者たちが、斬新な発想で起業をする場所だ。私の故郷、静岡県駿東郡小山町は、100年前そんな場所だった。
1868年に明治維新が起こり、この年が明治元年となった。明治政府が江戸幕府にとって代わり、日本に文明開化の波が起こる。鎖国が解かれ、人々は海外から学ぼうと精を出し、それまでチョンマゲだった人が、洋服を身に着けるようになった。引退したばかりの関取が親方になると、まだ断髪式を終えていないので、髷(マゲ)を結ってから背広を着てテレビ出演をするが、あんな違和感が日本中で起こっていたのであろう。
明治5年には日本で初めての鉄道が、東京新橋から横浜までの間で開通する。そしてその17年後の明治22年に、新橋駅から神戸駅までの600.2kmが鉄路で結ばれ、東海道線が完成した。この当時、今の御殿場線が東海道線だった。熱海、丹那トンネル経由で現在の東海道線が開通するのは、それから半世紀後の昭和9年(1934年)の事である。東海道線が開通したことで、当時数件の家しかなかった小山、当時の静岡県駿東郡六号村字小山にも停車地ができた。
明治29年(1896年)、この山間のへき地、小山に富士紡績株式会社が設立された。この場所が選ばれたのは、「川」が原因である。富士紡績の発起人たちは東海道線の車窓から小山の川、豊かな水と地形を見ていたのである。小山は富士山の裾野が相模湾へと広がる傾斜の途中に位置し、坂が多く、また富士山の雪解け水が流れる川が多くある。富士紡績株式会社の発起人、森村市左衛門達らは、この川の水量に目を付けた。川に設置した水車を回し作った動力を利用して、紡績業ができるのではと考えたのである。
流水量1分当たり38トンから1500馬力の動力を作り出せる、アメリカ、モルガンスミス社の原動機が輸入され、翌年、工事が着工。明治31年9月に工場が稼働し、製品の生産が始まった。開業当初は二つの工場で絹糸の生産を開始したのだが、世の中の需要が綿へと移る中で、富士紡績はさらに大きな構造転換を図る。綿糸用の第3工場を建て、この工場の機械を稼働させる動力として水車ではなく電力を採用し、水力発電所を一緒に建設してしまったのだ。
会社の設立から15年たった大正元年(1912年)には、富士紡績は4つの工場と3つの水力発電所を持つ企業となっていた。
工場内の活気は新しい機械設備のみならず、そこで働く人たちからも湧いてくる。日本中から「工女」と呼ばれた数千人の従業員が集まり、突然小山町に住み始めたのだ。また電力生産のおかげで、小山には町中に電灯が配備され、夜は明るく、若い女性たちがたくさんいる街へと変貌したのだった。
かつて夜は暗かった。夜は提灯の明かりを頼りに、外を歩かなければならなかったのだが、明治16年、東京の銀座に初めて電灯が灯った。その翌年に京都の祇園、さらに翌々年、大阪の 道頓堀に電灯が設置される。しかしこれは大都市の中心部での出来事で、地方の山村に電灯が灯るようになったのは昭和の初期だ。ところが小山は明治後期に、不夜城のごとく光り輝く山村となったのだった!
小山町のウェブサイトにも掲載されている「和田豊治伝」から、当時の様子を描いたものを紹介する。
十数年前にありては小山は駿東郡六号村に於て一字のみ、二十二年に東海道に鉄道線路の敷設せられし時、停車場を此地に設くるがため取って駅名としたに過ぎず。然るに富士紡の此地に立てらるるや、鳥逕獣道は変じて工場となり、鮎澤川の渓谷は電灯煌々たる不夜城となり、菅沼村二十四戸、六号村五戸、小山舊地区下郷に四十七戸、藤曲に六十八戸、其他付近を合算して三百四五十戸に過ぎざりしもの、今や数千戸、住民三萬除人ありて居然たる大市街となる。小山の発達は實に日本村落変遷史上の一大驚異と云はざるべからす。
私の家からほんの100メートルほど歩いたところと、裏の山の上に、それぞれ大きな貯水地がある。山は傾斜が厳しく、左右に大きく曲がりくねった道があり、地元では、この道を「七曲り」と呼んでいる。七曲りを登りきったところにある貯水池に溜まった水が、道の脇にある太い水道管をいっきに流れ落ち、その下にある須川発電所で、いまでも水力発電がおこなわれている。化石燃料に依存しないクリーンな電力を作り出す発電所で、町の誇りの一つだ。
昨年1年間、小山で生活をした。100年の時を経て、町の様子は変わり、当時の活気も今は昔となったが、一方で町には新しい息吹がたくさん芽吹いている。 新しい道路事業や工業団地。おいしいパン屋さん、自家焙煎のコーヒーショップなど起業をする若い方々がおり、新しいエネルギーを感じ取ったものだ。役場にも優秀な人材が多いのだろう。新型コロナのワクチン接種会場の運営など、素晴らしく工夫されていた。私の記憶にある子供のころのワクチン注射は、列を作り順番に打たれたものだが、小山のワクチン接種会場では、一度座ると移動の必要がない。ブース内に設置された椅子に座ると、書類を集める方、問診をするお医者さん、注射を打って下さる方が、向こうからやって来て下さり、こちらは隣の町立図書館で借りた本を読みながら、くつろいで待っていればよかった。接種は、あっという間に終わってしまった。実に効率的に運営されていて、感心させられた。小さな知恵、創造力の積み重ねが、私たちの町を少しずつ良くしていく。町に芽生えている、たくさんの息吹から、「光り輝く山村」を再発見することができた1年だった。
追記、この原稿は令和5年4月8日発行の甘露寺護持会会報に掲載できなかった全文を載せたものです。