平成23年11月17日
金谷コミュニティ委員会広報部
牛尾応援歌
五和村青年団牛尾支部の作成した応援歌について
はじめに
金谷コミュニティ委員会ホームページのコンテンツのひとつである「金谷の情景・こころの風景」を作成中に「牛尾応援歌」についての情報を集める必要が生じた。牛尾住民のご協力により資料が確認作成できたので以下に記述する。
1.作成年について
「聞き取り調査」
関係者に聞き取り調査をした結果、戦前昭和16年ごろまでさかのぼることが確認できた。追加の聞き取りで、さらにそれより前だとの情報もでてきた。
「作曲者についての情報からの調査」
作曲者は滝本栄作と牛尾構造改善センターに掲載の額に明記されている。
滝本氏については青年団牛尾地区担当の小学校教諭との言い伝えが残っている。そこで、「五和村村報」の記載から滝本栄作教諭を捜してみたところ、昭和9年5月号の学校通り欄に昭和9年度学級受持が記載され、そこに「瀧本榮作(金谷宮崎町)」との記述があった。
それによると、五和小学校尋6ノ1の担任教諭に任命、さらに五和青年訓練所の学科指導員にも任命されていた。
教職在校年については、昭和9年以前の「五和村村報」には教員名の記載は無いので着任は確認できない。昭和10年の村報5月号の記載から3月に転退任したことがわかる。したがって、「担当教職者」との言い伝えから推測するに、応援歌作成年は昭和10年以前と推測される。
「特殊事情の推測」
他地区に同様の応援歌が無いことを考えると、牛尾地区あるいは五和村に何らかの事情があったものと考えられる。
そこで、「五和村村報」の記載に何かあるかを検索してみた。
@昭和8年6月号に、「昭和5年5月31日の天皇行幸を記念日として県をあげてお祝いをする。ついては軍人分会、男女青年団、学校等は特に記念式典を挙行する事になりました。」との内容の記載あり。
A昭和9年1月号に「榛原郡青年訓練所振興会主催の郡下全町村青年訓練所生徒連合大演習が五和、金谷地内で挙行され北軍530余名が村内に宿泊、親切に待遇された。これに対し関係者より謝意がよせられた」との記述あり。
B昭和9年7月号に「榛原郡各種団体連合行幸記念式が5月31日相良小学校に於いて在郷軍人連合分会、消防組、男女青年団、青年訓練所および榛中、榛女、相良家政生徒等総員2900余名参加して行われ本村より16名が出席した」との記述あり。
C昭和9年9月号に「県下青年団弁論大会出場、8月31日に浜松市公会堂に於いて開催の静岡県青年団弁論大会に本郡代表として牛尾鈴木幸一君は2等に入賞しました。」の記述あり。
D昭和9年10月号に「本村訓練所に於いては振興をはかるため各字に組長、副組長、各年次に班長、副班長を置いて自治的に活動するようになりました。」との記述あり。
小学校への寄付品に、二宮尊徳肖像画22枚(各教室分)青年報徳読本巻一(60冊)
E昭和9年12月号に「学校便り−陸上運動会11月1日と13日の2日間開催。今回のプログラムへは競技、体操、遊技等を加へ興味あるものを演出することにつとめたため観衆も予想外に多かったと思います。部落対抗リレーに於いては・・・。」の記述 あり。
F昭和24年10月号に「五和村第2回村民体育大会が9月に開催された。」と記述あり。
考査
以上の記述を整理すると昭和9年9月から11月の五和尋常高等小学校陸上運動会までの間に作成した可能性が大きいと推測できる。
また、瀧本教諭の転出により曲作りが出来る者がいなくなったことも部落応援歌が牛尾だけにしかない理由にもなろう。
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2.歌詞、楽譜について
@大石一雄氏より入手した歌詞は以下の通り。
歌唱は八木幸雄氏にお願いして音源を保存した。
五和村青年団牛尾支部牛尾応援歌
牛尾応援歌
作詞 瀧本榮作
作曲 瀧本榮作
あかいしさん うるお
1.赤石山を 閏して
なが き おおかわ
流れ来たりし 大川の
きよ なが うぶゆ
清き流れに 産湯して
いま た けんじ にひゃくめい
今起つ健児 二百名。
あさひ は はっこうさん
2.朝日に映ゆる 八光山
みどり あわがたけ
高オたたる 淡ヶ岳
けんじ えいこう
これぞ健児の 栄光と
もうこ いま お
猛虎のうそぶき 今起こる
こううん なが なつ ひ
3.高雲流るる 夏の日も
ふ ぶき ふ ま ふゆ よ
吹雪吹き巻く 冬の夜も
ち まき ふみ ひも と
千巻の文を 紐解きて
しせい こころ そだ
至誠の心 育てなん
たいほう つばさ
4.ああ大鵬の 翼もて
なん てん ほく ち か めぐ
南天北地 駆け巡り
わか ぜんと おも
若き前途を 思うとき
われ ちしお たか な
我らが血潮は 高鳴るよ 注1、「我らの」?
うし お けん じ いま た
5.牛尾健児は 今ぞ起つ
あか こころ かげ
赤き心に 影もなく 注2、後に「若き」に変更した?
ぜん と
前途さえぎる ものもなく 注3、「さえぐる」?
まな くに
いざ学ばなん 国のため
注1.2.3.は八木幸雄氏の覚えている歌詞との相違点
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A牛尾構造改善センターに掲載の額は故臼井清氏、永井保氏らが寄贈したもので、歌詞は大石(石川)政二助役、又平歯医医院の奥様の筆と表装によるものである。
これに記載の歌詞は1番から3番までで、当初から間違っているとの声がでていた。
大石一雄氏の歌詞との相違点
1番 きたりし−−−きたる
2番 欠落
3番 夏の日も−−−夏の日と
至誠の心 育てなん−−−いざ学ばなん 国のため
4番 欠落
5番 前途−−−前進
いざ学ばなん 国のため−−−いざに健児 いざゆかん
B大石孝著の「村の生いたちと歩み」(平成19年発行)の28ページに記述がある。
そこには製作年について、昭和5、6年と記載している。
大石一雄氏の歌詞との相違点
1番 きたりし−−−きたしし *写し違いか
2百名−−−有余名
2番 八光山−−−白光山 *写し違いか
3番 至誠の心−−−誠の心 *写し違いか
5番 欠落
C4月15日、臼井利之宅より八木幸雄氏に「当方に応援歌のカセットテープがある」との電話あり。早速、入手のため伺ったところ制作昭和9年、歌っている歌詞は昭和19年当時のものであるとの資料が添付されていた。6月10日、このテープは荒見学舎の八木道子氏と北川治氏が平成5年に作成したもので、歌唱は荒見学舎児童、演奏はPCであることが判明。これより採譜をおこなった。
大石一雄氏の歌詞との相違点
1番 きたりし−−−きたるる
2百名−−−有余名
3番 こううん−−−たかくも *読み違えか
至誠の心 育てなん−−−いざ学ばなん 国のため
4番 駆け巡り−−−駆け巡る
5番 いざ学ばなん 国のため−−−今起つ健児 いざゆかん
−−−ふれーふれー牛尾牛尾
D以前、八木幸雄氏の娘さんが採譜し、牛尾区民大会でテープを流し歌ったことがあるとの情報を得た。歌ったのは河村多喜雄氏と八木進氏である。
6月21日、八木進氏宅にテープと楽譜が保存されていることがわかり、データ保存作業を行った。(エレクトーンとピアノ演奏)
尚、歌詞資料には昭和30年8月との記載がある。大石氏歌詞との相違点は、赤き−−−若きと最後にうしお、うしお、うしおと付け加えた点である。
3.資料保存作業
5月31日、八木幸雄氏にカセットテープのカラオケにより歌っていただき、録音保存を行った。歌詞は大石一雄氏のものである。
金谷コミュニティ委員会としてユーチューブにアップして公開した。
9月29日、全資料を整理して、本誌とデータCD(音源データ)を牛尾自治会に提供した。
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4.楽譜についての考査
臼井宅テープからピアノの先生が採譜した楽譜
![]() ハ長調に転調してみました。
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八木進氏宅から入手した楽譜
![]() 本テープを牛尾区民大会で区民に聞かせたところ、一部音程が間違っているとの指摘があった。
最終小節の部分が荒見テープと違っている。
そこで、この2つを基に妥当な線で作譜してみました。
応援歌らしく1拍前にだして、単純な拍子で。
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![]() 5.楽曲についての考査
言い伝えのなかに、「元歌は中国地方のほうだよ」という情報があった。
そこで−昭和9年、応援歌−という項目で検索した結果、大阪府立「北野高校応援歌」がでてきた。この学校のHPによると、−−−応援歌第一(『澱江春の』)の曲は軍歌で歌われ、当時どこの小学校の運動会でもこの曲が流されていたので、ひとつ陳腐でないものを作ろうではないかということになった。−−−
この応援歌第一は旧制一高校第11回記念祭寮歌「アムール川の流血や」(明治34年)の流用である。
引用 北野高校HP(http://www.osaka-c.ed.jp/kitano/)
応援歌第二は旧制山口高校の応援歌の流用で作ったとの記述から、−旧制山口高校−で検索するとやはり応援歌のうちの一つは一高の「アムール川の流血や」の流用となっている。当時は、著作権問題は考えずに曲を流用して歌詞のみ替えて歌っていたようだ。そこで牛尾応援歌の楽譜を再度考査すると、リズムは「アムール川の流血や」と同じと考えられる。そこで、以下の楽譜とした。
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6.作詞作曲者を特定する写真について
五和小学校創立100年祭を記録したネガ(横岡新田・鈴木久司氏所有)のなかに五和小学校昭和10年卒業記念写真があった。
帯金貢校長(在任昭和9年の1年のみ)の記念色紙と文章が寄稿されているので、写真も提供したのかと思われる。
五和村報記録では「6−1・児童数男42名」となっているので、高い確率で瀧本榮作教諭である。
昭和10年卒業写真 男子42名 帯金貢校長(当時42才) 瀧本榮作教諭(左側)
![]() 下の写真は、五和小学校創立100年祭記念誌に掲載の帯金校長以下教師の写真です。
![]() 前列左から石川勇次、杉山英太郎、帯金貢校長、渡辺俊雄、野崎栄三、不明の各教諭。
上段右端 瀧本榮作教諭
尚、昭和6年の卒業記念写真に瀧本教諭は写っていない。五和着任は昭和6年4月以降である。
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7.歌詞についての考査
@大石一雄氏より入手した歌詞と資料として残っている昭和19年以降の歌詞との相違点は「赤き心」と「若き心」である。現在では「赤き心」とは使っていないと思うが昭和9年当時はどうであったのか調べてみた。
作詞者、時代背景を総合して検証
作詞者 ・・・明治生まれの教師
時代背景・・・事変が勃発し戦争の色濃くなる。天皇の神格化。報徳運動。修身教育強化。
IEによる「赤き心」「昭和9年」の検索により以下の情報を得た。
文献1
日本には古来、神道(しんとう)という宗教があります。神道は、私の知る限り、世界中でユダヤ教にのみ、きわめてよく似ています。また、とくに古代ユダヤ教に非常によく似ている、といってよいと思います。
この神道の中心的な伝統として、「清き明(あか)き心」(清明心)があります。清く明るい心と書く。くもりなく、すがすがしい心です。やましさのない、晴れ渡った心。邪心のない、二心でない、清らかな心です。神様の前にそういう心でいることが一番大切なのだ、という教えです。
この清き明き心は、日本人が美徳とする正直、誠実、思いやり、忠実などの土台となったものです。また、卑怯(ひきょう)なことをしないなど、人間の様々な徳の基礎となるものです。私は、清き明き心という神道の教えが古来、日本人というものをつくってきたと考えています。清き明き心は、今日ではふつう清く明るい心と書きますけれども、『日本書紀』の中では、「清き赤き心」という文字を使っています。
(引用−清き明き心−http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/message004.htm)
文献2
昭和九年高知高等学校寮歌「仇浪騒ぐ」
E三千の書は捨つるとも 赤き心を捨つべきや
聞け狂風の吹き荒ぶ あゝ飄々と吹き荒ぶ
(引用−−http://www5f.biglobe.ne.jp/~takechan/kotikyourou.html)
【日本書紀 卷第一 第六段 一書第二 読み下し】
一書に曰く、素戔嗚尊、將に天に昇らんとする時に、一はしらの~有り。 羽明玉(はかるたま)と號す。 此の~迎え奉りて、瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにのまがたま)を進(たてまつ)る。 故、素戔嗚尊、其の瓊玉を持ちて天上(あめ)に到る。 是の時に、天照大~、弟(いろせのみこと)に惡しき心有らんと疑いて兵(いくさ)起こして問い詰めき。 素戔嗚尊、對(こたえ)て曰く、「吾(あれ)來る所以(ゆえ)は實(まこと)に姉(あねのみこと)と相い見えんと欲(おも)い、亦、珍しき寶たる瑞八坂瓊之曲玉(みづのやさかにもまがたま)を獻(たてまつ)らんと欲(おも)うのみ。敢えて別(こと)に意(こころ)有らず」。 時に天照大~、復た問いて曰く、「汝が言(こと)の虚(いつわり)實(まこと)は何を以ちて驗(しるし)と爲さん」。 對えて曰く、「請う、吾と姉と共に誓約(うけい)立てん。 誓約の間に女(おみな)生(な)さばK(きたな)き心と爲せ。男(おのこ)生さば赤き心と爲せ」。 乃ち天眞名井(あめのまない)三處(みところ)を掘りて、相い與(とも)に對い立つ。 是の時に、天照大~、素戔嗚尊に謂いて曰く「吾が帶(はか)せる劒を以ちて、今當(まさ)に汝に奉つらん。 汝は汝が持てる八坂瓊之曲玉(やさかにのまがたま)を以ちて、予(われ)に授くべし」。 如此(かく)約束(ちぎ)りて、共に相換えて取る。 已にして天照大~、則ち八坂瓊之曲玉を以ちて天眞名井に浮き寄せて瓊の端を囓(く)い斷ちて吹き出ずる氣噴(いふき)の中に化生(な)れる~は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)と號す。 是は遠瀛(おきつみや)に居(いま)す者也。 又、瓊の中を囓い斷ちて、吹き出す氣噴の中に化生れる~は田心姫命(たこりひめのみこと)と號す。 是は中瀛(なかつみや)に居す者也。 又、瓊の尾を囓い斷ちて吹き出す氣噴の中に化生れる~は湍津姫命(たぎつひめのみこと)と號す。 是は海濱(へつみや)に居す者也。 凡て三はしらの女~。 是に、素戔嗚尊、持てる劒を以ちて天眞名井に浮き寄せて、劒の末を囓い斷ちて、吹き出だす氣噴の中に化生れる~は、天穗日命(あめのほひのみこと)と號す。次に正哉吾勝勝速日天忍骨尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほねのみこと)。 次に天津彦根命(あまつひこねのみこと)。 次に活津彦根命(いくつひこねのみこと)。 次に熊野樟日命(くまのくすひのみこと)。 凡て五はしらの男~。 爾(しか)云う。 引用 (http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_02/yomi.htm)
【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 読み下し】
一書に曰く、日の~、素戔嗚尊(すさのおのみこと)と天安河(あめのやすかわ)を隔てて相い對(むか)いて乃(すなわ)ち立ちて誓約(うけい)て曰く、「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」。 是(ここ)に日の~先(ま)ず其の十握劒(とつかのつるぎ)を食(は)みて化生(な)れる兒は瀛津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)、亦の名は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)。 又、九握劒(ここのつかのつるぎ)を食みて化生れる兒は湍津姫命(たぎつひめのみこと)。 又、八握劒(やつかのつるぎ)を食みて化生れる兒は田霧姫命(たぎりひめのみこと)。 已にして素戔嗚尊、其の左の髻(もとどり)に纏ける五百箇統之瓊(いほつのみすまるのたま)を含みて左手の掌の中に著(お)きて便(すなわ)ち男を化生す。 則ち之を稱して曰く、「正哉(まさか)吾(あ)勝(かつ)」。 故、之に因りて名を勝速日天忍穗耳尊(かちはやひあめのおしほみみのみこと)と曰う。 復(ま)た右の髻(もとどり)の瓊(たま)を含みて右手の掌の中に著(お)きて天穗日命(あめのほひのみこと)を化生(な)す。 復た頸(くび)に嬰(うな)げる瓊(たま)を含みて、左の臂(ただむき)の中に著(お)きて天津彦根命(あまつひこねのみこと)を化生す。 又、右の臂の中より活津彦根命(いくつひこねのみこと)を化生す。 又、左の足の中より之速日命(ひのはやひのみこと)を化生す。 又、右の足の中より熊野忍蹈命(くまのおしほみのみこと)、亦の名は熊野忍隅命(くまのおしくまのみこと)を化生す。 其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の~、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の~の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の~の生める三はしらの女~を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る~、是也。
『』は『干』也。此を備(ひ)と云う。
引用(http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/yomi.htm)
物語はこの後、天の岩戸の段になる。ちなみにこの時生まれた男子の子孫が神武天皇である。
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A歌詞の特定
「赤き心」に続く歌詞は「影もなく」であり、このような文献からみれば「若き心」では意味が浅い。
よって、筆者としては、大石一雄氏の歌詞「赤き心」が原文に使われていたと考えている。
以上
8.追加事項
2011/09/20
八木道子氏より荒見学舎バージョンの楽譜を大石孝氏経由で頂いた。以下に掲載する。
右側の歌詞をテープでは少し変えて歌っている。
![]() 2011/09/26
帯金貢校長の遺族である静岡市の八木伸一郎氏に確認したところ、帯金貢校長は記念写真の中の右側の教諭と
指摘されました。
本誌掲載者名について
牛尾在住者
八木幸雄、臼井利之、八木進、河村多喜雄、永井保、北川治、大石孝、又平奥様、
故臼井清、故大石一雄、
その他地域
八木道子、大石政二、鈴木久司
2011/11/08 大石一雄氏死去
おわりに
今回の調査終了後、大石一雄氏が急逝したのは大変残念であった。時空列順に文章を追加したため、まとまりを欠く資料となっているがあえてそのままにしておく。
関係者一同のご努力により復活したこの「牛尾応援歌」が後世に永く伝えられんことを切に祈る。
2015/12/15 資料追加
瀧本榮作氏については、静岡大学の同窓会名簿・昭和3年3月静岡師範専攻科卒業に記載の滝本栄作氏と同人物かと思います。
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