謎の僧 『 南 岳 』


 15代住職の律三和尚が昭和32年に記した「壽眞庵記録」という文書があります。
 その冒頭は、「黄檗宗壽眞庵記」と題され、「大正8年2月3日宗務本院提出書類に拠り誌す。」とされています。

 その中に以下のような記述があります。

 嘉永4年2月10日同町出火の際 祝融の災に罹り本尊を餘すの外悉く烏有に歸せり 現在の堂宇は後 南岳和尚在住中再建せられたり

 消失した寿真庵の建物を南岳和尚が再建したという内容だと思います。

 しかしながら、その「壽眞庵記録」に記された暦代住職の中に南岳和尚の名は見当たりません。
 それどころか、黄檗宗の師弟関係を記した「黄檗宗鑑録」を探しても「南岳」の名前を見つけることができません。この「黄檗宗鑑録」に名前が記載されていないということは、黄檗の法を嗣いでおらず、住職になる資格が無いことを意味します。

 それでも、南岳という人物の記録がほかに無いわけではありません。

 白岩寺には、南岳和尚が諸国を行脚したときの往来手形が保存されています。この往来手形は、当然関所を通るためのものですが、修行僧が旅の途中で死んだときのことをその土地の人にお願いする文が書かれています。
 つまり、南岳和尚は、白岩寺で修行していたということです。

 





日付は、享和元年(1801年)酉八月と記されています。



 また、「近世黄檗宗末寺帳集成(竹貫元勝編著)」で整理された天保末寺帳には以下のように記されています。
 宝蔵下

 駿州志田郡島田宿白巖寺末
           寿真庵

           住持 南岳

 「天保末寺帳」というのが、単純に天保年間の末寺の状況をまとめた登録台帳だと考えれば、南岳は、1830年から1843年までの間、あるいは、その期間を含めた時期に寿真庵を守っていたということになります。

 寿真庵の歴代住職の示寂年(没年)をみると、第6代義豊が文化11年(1814年)示寂(没)で、第7代慧燈が安政元年(1854年)示寂(没)となっているので、第6代義豊が亡くなってから慧燈が第7代住職になるまでの間に南岳が住していたと考えるのが普通だと思われます。
  
 ここで、「壽眞庵記録」にある、「嘉永4年(1851年)に火災に遭った」という記録をあらためて検証してみます。
 嘉永4年が西暦1851年であることから、寿真庵が再建されたのは、第7代慧燈が亡くなる安政元年(1854年)までの3年間に絞られます。そうなると、慧燈が寿真庵の住職であった期間がごくわずかということになってしまいます。

 これらのことを年表に整理すると次のとおりです。
1801年 享和元年 南岳和尚が白岩寺の修行僧として行脚に出る。
1814年 文化11年 第6代義豊 示寂(没)
1830年 天保元年 天保年間
「天保末寺帳」に住持南岳とある。
1843年 天保14年
1851年 嘉永4年 寿真庵焼失
南岳和尚が堂宇再建
1854年 安政元年 第7代慧燈 示寂(没)



 いずれにしても、南岳和尚の人物像についてはよくわかりません。

 南岳和尚と慧燈和尚が同一人物であるとすれば、つじつまが合うような気もしますが...



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