Slilanka Tea
The war finish, congratulations
Now, it will aim for the country to develop.
スリランカはインド、中国に次ぐ世界で3番目の大生産国である。19世紀〜からの英国人の入植に始まっていて、全てが欧州風でコッコイイ。
茶は中国から始まったわけだが、中国よりはるかに進んでいる。
私は、1998年(フランス・ワールドカップの年)フランス・ブラジルの決勝をコロンボのヒルトン・ホテルでTV観戦していた。この時のコロンボはヒルトンの22階?の窓ガラスが全て吹っ飛んだ直後であった。LTTEとの内戦の最中であった。
25年間続いた内戦が今年09年春にやっと終わった。11年振りにスリランカを訪れた。
人々の顔は笑顔が蘇っていた。さー元気を出して国造りに精を出そう。私も何かお役に立ちたいものである。この国は、日本人より仏教心が旺盛である。そして、日本を心から好きなようである。
私も、スリランカが大好きである。
高い2本の円筒ビルが世界貿易センタービルである。左の四角にビルが私が泊まっていたヒルトンである。これらの窓ガラスが全て吹き飛ぶ爆薬を積んだ4トン車がヒルトンに突っ込んだ。それから、今年春まで、延々と内戦が続いた。
スリランカの紅茶工場は小高い丘に設えてある。インド洋からの風が吹き込み、茶葉の萎凋に欠かせない。紅茶はこの萎凋の度合いが決め手となる工場はエステートと呼ばれる。
全てが、手摘みである。タミール人の女性が摘み手。男は見ているだけの監督である。一日摘んで16kgが標準で、それ以上摘むと割り増し料金が出る。
女性は哀れな「奴隷」に近い扱いである。
これでは、解放運動が起きる筈である。戦争も終わり、改善されると良い。
日本の茶園に匹敵する、綺麗に管理された茶園が延々と続く。
製造方法は3種ある。いずれもこのような揉捻で40分位グルグル揉む。大きなヒル(button)が特徴。
日本のヒルは親指程で細い。
茶園の中に、日陰を目的とした「木」が植えてある。
太陽光線を浴びすぎると、カテキンが増え、渋い茶となるので、それを防いでいる。
驚いたのが、日本で丁度流行りだした、ポット苗(袋に挿木)が既に行われていたことである。1998年。日本より早くからやっていたのではないかと思う。これで、日本の後藤昇一氏は賞をもらった。
昼に工場にて集荷風景。一人づつ計量される。
一日16kgがノルマである。
手摘で16kgは一生懸命やらないと済まない。
CTCライン。スリランカでは珍しい。しかし、世界の主流はCTCである。ティーバッグ茶はこのCTCで造られる。
CTCはインドが独占している。
これからが、本年2009年7月に11年振りに訪問した記録です。
New Vithanakande Tea Factory(Pvt)Ltd
11年振りに再会した。大歓待を受けた。背後の私邸に一泊した。スリランカ・トップの紅茶工場である。社長夫妻とアーナンダ
経営者の住いは、多くの召使を抱えている。英国の植民地時代が色濃く残る。
Navaratn Pilapitiya 社長私邸。2009年7月
翌日、山間のヌワラエりアで宿泊したときに、いつの間にか、
蛭(ヒル)にやられていた。昔のヒマヤラ遠征でのネパールのジャングルを思い出した。
私が世界で一番好きなホテル。マウント・ラーベーニア・ホテル。
影山、ラクシリ、アーナンダ、リヤナゲ。11年来の親友とホテルで会食。皆元気で頑張っていた。
今回(2009年7月)の訪問では、リヤナゲにお世話になった。彼の豪邸に2泊した。奥さんはやっとこの頃、身篭ったとのこと。おめでとう。
来年は、国会議員に立候補予定。国の将来を慮っての動きである。私欲に走らねば、俺も応援に駆けつける。
マウント・ラベーニア・ホテルは海岸に面し、インド洋からの風が吹き付けていた。
欧州からの客が殆どであるが、内戦で客足が途絶えていたが、これからは復活するであろう。日本客も、危険地帯からの解除により、多くの観光客が押し寄せるものと思う。
帰国を前に、下手なスケッチ・ブックを取り出した。
世界を旅しているが、私が最も好きなホテルである。
2009年7月
1998年の記録:スリランカにはマルコポーロの「東方見聞録」に登場する名山、「アダムス・ピーク」がある。
アルピニストであり、マルコポーロ研究者を自負する自分が、これを見逃すはずはない。休みに、一人で登った。
聖山であり、キリスト教のアダムスであるが、麓は涅槃佛と???。 2時間程石段を登ると、写真の頂上であった。
途中では、誰にも会わなかったが、頂上に達すると、イタりアの二人のご夫人がいた。わざわざ、イタリアから来ていた。
富士山と同じで、「登らぬ馬鹿に、二度登る馬鹿」の山であった。
アダムス・ピーク 絵はがきの航空写真