皆様方の8年に亘るご支援のお陰で、マルコ・ポーロ踏査行を終結することが出来ました。
ありがとうございました。

本編は最終2010の報告です。御笑覧下さい。

2010年7月10日〜8月23日の記録
 2003年から始めた「マルコ・ポーロ踏査行」は、2010年8月20日に北京にゴールしました。14,480km
の旅でした。トルコ、イラン、パキスタン、タジキスタン、アフガニスタン、中国の人々に大変お世話になりました。
 最後の北京には、名古屋山岳会、寺田製作所社主(静岡県)、掛川市同窓生、親族等の27名もが出迎えて
くれました。
 尚、当記の出版が決定し8月の販売に向けて都内の某社と段取りに入りました。
目途が立ち次第、広報させていただきます。

敦煌西方、玉門関。2008年続き二回目の訪問
著名な観光地であるが、漢の武帝が作った関所
である。著名な逸話があるが割愛。

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真の万里の長城の西の端。ここで終わっていた。
武帝の作った万里の長城の西の端。
2010年7月13日、北京に向けて出発。敦煌市内中心部を出発。7時だと言うのに、やっと明るくなりだしたところ。北京時間で中国は統一されているからである。
スケッチ・ブックを取り出した。2千年の風雪に耐えた玉門関は、見るも哀れな姿で屍をさらしている。
町を出て直ぐに敦煌汽車駅がある。最新の大きな駅である。その駅から直角に東の谷へ延びる道がある。敦煌ばっこう窟へ行く道である。
片道14kmで莫高窟に達した。途中で、自転車の乗り入れ禁止を命じられたので、裏山を越えて、園内までもぐり込んだ。
嘉浴関 敦煌から東へ120km程で安西(瓜州市)に達した。外人のために宿を断わられたらい回しにされた。毎日のことで腹も立たない。その安西から2日で嘉浴関市に達した。
嘉浴関市には見所が数多くある。その内の一つがこの長城である。明の時代の建造で、渤海湾から連なる長城もここで終わっている。立派な長城はここまでである。マルコが通過した元の時代の後である。
嘉浴関 河西回廊の西端のこの町には、立派な関所がある。
西域に出る、入る、の大切な関所である。
河西回廊の南に連なる祁連山脈。
この山脈があるので回廊のアオシスが連なる。
嘉浴関市の名所「長城西端」長城はこの河で終わる。
張液市鐘楼。マルコが一年間逗留した町である。
更に、フビライが生まれたまちでもある。この近くの大仏寺がフビライの生誕地である。
酒泉市内を通りかかると、マルコポーロ像
山丹市で長城と交差。明時代の建造である。
武威87km、蘭州358km(甘粛省都)
旧道はこうしたポプラ並木が残っている。快適である。
永昌市で出会った中国人(朝鮮族)のサイクリスト。
李煥正(43)君はハイウェイを走ってきた。私が2日掛かった距離を半日で来た。じゃー俺も連れて行ってくれとICに向ったが、今度は断わられた。
北にはゴビ砂漠が待ち構えている。ヒタヒタと押し寄せる。
北京農業大学サイクリング部の若者と行き交った。
北京から青海湖まで行くという。
若者達と別れしばらく行くと、突如「黄河」が現れた。
感動した。これだけの感動は人生度々あるものでない。黄河の持つ歴史、長大な流れ、過酷な条件下を何事もない様相で滔々と流れる黄河だからであろう。黄河バンザイ。中衛市手前。
黄河に架かる高速道路は開通したばかり。
中国の国力が黄河を跨ぐ力を築き始めたことである。
内モンゴル自治区臨河市。石炭を運ぶ馬車。トラックばかりでなくこうした馬車も現役である。
包頭市郊外。砂漠地帯に激しい雨が降った。鉄道ガー下は、排水対策なぞない。腰まで浸かる池となった。私は自転を担ぎ草むらを越えた。
夜中にパンクとなった。タイヤが擦り切れていた。
修理が終わったのが深夜の2時。テントで夜を明かした。
次第に目的地、モンゴル自治区上都に近づいてきた。
上都鎮 町中央公園のマルコポーロと向こうはフビライ皇帝。