2009年7月15日〜8月20日の記録です。
3年越しの挑戦で戦乱のアフガニスタンに潜入
・各地でマルコポーロの足跡を確認。
・ISAF、米軍とタリバーンの戦場をかいくぐる。
・憧れのワハーンに入り、ボザイ・グンバースに到達。
・玄奘三蔵の足跡を追う。
マルコポーロ計画は当初7年計画でした。今年は7年目でしたが、あと1年を残しました。
ボザイ・グンバース(ボザイの墓)のスケッチ。ボザイはいつの人かは知る人はいない。文字を持たないワヒ族の悲しさである。サルハドから4日目に達する。急ぎスケッチブックを取り出した。正面奥がワクジル峠への谷。峠へは更に3日かかる。軍資金が絶えて断念した。玄奘三蔵の超えた峠と言われている。
タジキスタン・アフガニスタンのシルハーン国境を越えてアフガンへ入国。クンドゥーズ市内はおびただしい政府軍兵士。に守られていた。夜間はタリバーンに怯えている。
アフガン北西部のシバルガン市内。ISAFの装甲車に近づくと機関砲は私に向けられた。臨戦態勢である。
車上の機関銃が向けられ、私は足がすくんだ。
東方見聞録ではサプルガンと記され現行の当地シバルガンである。アレキサンダー大王が当地の豪族の娘と結婚した地である、
すると、機銃の変わりにデジカメで私を撮影しだした。
街道脇のゾロアスター教の灯火台は政府軍の見張り台と化していた。聖職者の火、王の火、農民の火と3箇所あるはずだが、2ヶ所しか確認できなかった。
古代バクトリア(BC255~139)城址。バルフ。
旧市街では前日2名の民間人がタリバーンに殺害されて、我々は入域を断念した。栄華を極めた城壁には感動した。
地雷原とは知らずに入る。背後の城壁まで行くが、
地元の少年は一歩も進まなかった。
アフガン各地にはこうしたソ連軍の戦車の残骸が数多く見られる。北部同盟ドスタム将軍の戦果である。
米軍戦闘車両十数台がやってきた。行き交う車は停止した。私は車窓からご苦労さんと手を振った。。防弾ガラス越に笑顔の兵士の顔を見た。マザリシャリフ西。
こんな危険地帯の観光客は私だけかと思ったら、フランスの三人と出くわした。マザリシャリフ市内モスク内。
マザリシャリフ市中央のアリー廟。14世紀以降に建造。
中央アジア最大のモスクで、信者達で大変な賑わい。
マザリシャリフ市内。アフガン3番目の大きな町である。
プレイクムリの十字路。シルクロードの分岐点。西に向かえばペルシャへ南はカーブル、パキスタンを経てインドへ。交差点は8/20の大統領選のポスター。42名が立候補。
街頭のお茶。意外にも緑茶がほとんど。紅茶は1袋だけであった。
東方見聞録には「タロカンの南には、全山、塩で出来た山がある、、」その山を訪れた。
マルコの正確さが解った。
前夜の戦闘で2名のタリバーンが射殺された検問所。
銃弾の痕跡が多い。向こうがタリバーンの村。
バダクシャン州都ファイザーバード。バダクシャン州はタリバーンの支配圏でない。安全である。
ファイザーバード
ファイザーバード・ゼバッグ間のケシ畑。ヘロインの原料である。貧しい農民の唯一の現金収入源である。
ゼバッグ。コクチャ川の源流。正面の谷はチトラルへの峠。
マルコが1年間静養した地はここだと思う。
緑豊かな平原になる。魚が獲れる。
イシュケシム。向こうの山はタジキスタン。国境が開かれている。07年は向こうから入ろうとしたが拒まれた。
ワハーン回廊の入口。オクサス(パンジ)川。
国連職員と同宿した。
日本のアフガンへの協力はアフガン人は皆知っている。感謝しているとのことであった。
イシュケシム国境。パンジ川の中州の中立地帯では、毎週土曜日にバザールで賑わう。出店数は両国同じくらいだが買い物客はタジキスタン人が多い。外人を数多く見掛けたが、アフガンからの外人は私だけであった。
左:英雄マスード。右:現職カルザイ大統領。
マスードはニューヨーク・テロの2日前にアルカイダに暗殺された。
イシュケシム政府軍基地。ここでワハーン入域の許可を貰う。
左、今回の私のガイド、シュラリー(29)。彼は当地タジキスタン・ワハーンの生まれである。川を挟んで親戚が別れ離れになってしまった。祖父の実家を訪れた。両者が涙を流して抱き合い、再開を喜んだ。
ワハーン回廊は午後の氷河の増水で渉れなくなる。
朝早く通過しないと大変なことになる。
トヨタ・ランクルしか見かけないアフガニスタン。
この川を渉るには川の弱点を見抜く力が運転手に必要である。
サルハド。ワハーン回廊の中間点。車はここまでである。ここから歩きに入る。
サルハド。西を望む。雄大な景観である。
いざ、サンチョ、出発せい。
馬一頭¥3600(馬方付き)
アガハーン財団医療巡回チーム。中央は女性医師(?)
彼女はタジク人。毎年巡回している。
アフガニスタン・
ワハーン回廊
サルハド
馬方の親戚に草原で食事をご馳走になった。
茶はミルクティーに塩を入れる。
ワヒ族の風習である。
2009年8月3日
アフガニスタン・ワハーン回廊東、ボザイグンバース(ボザイの墓)。標高3907m、N37,08,432 E74,00,561
画面左にとればチャクマクチィン胡に達する。正面の谷を更に3日南下すればワクジル峠に達するが、軍資金が費えてここまでとした。ボザイはいつの時代の何者かは分からない。広島の平井氏が世界的な研究者で彼の著書で再度確かめたい。
今回の踏査行の終点である。再びこの地を訪れることはないであろう。急ぎスケッチブックを取り出した。巻等のスケッチ。
さらばサルハド。
サルハド。少女の後ろの谷はバロンギル峠への谷。パキスタンのチトラルに抜ける道がある。
帰路、ワハーン谷に初めての飛行場が完成し初飛行が行われていた。4ヶ所に砂道の滑走路の空港が秋までに出来る。遠い手の届かない秘境ワハーン回廊にも現代文明が押し寄せている。私は、最もいいときにワハーンを訪れる事が出来た。ガイドのシェラリーの御蔭である。シェラリーありがとう。
今年も中日新聞「静岡県内版」に五回に亘り連載されました。
7年連続で中日新聞にリポートとして掲載させていただいております。
結構見てる人がいまして、催促が来ています。ネタのないときのピンチヒッターとして、穴が開かない役目のようです。
でも、原稿料をいただける私にとっては大切な収入源です。
中日09年9月26日 朝刊
掛川市民大学校、大学院の公開講座で今年も講演。
掛川市は市民が金を出して新幹線駅を作った町である。
先代の榛村純一市長が大変熱心な方でした。全国で始めて「生涯学習都市宣言」をした町です。そんな流れを汲む、市民大学講座に最初の年から講演させていただいています。今年は70名ほど来られた。
上海へ来る前は、各地で年間十数回の講演をしていました。