第5次 マルコ・ポ−ロ計画 2007 リポート
アフガンに入国を断念するも、禁断のパミール高原の横断に成功。
ワハーン回廊から〜パミール高原を抜け、カシュガルに達する、謎のルートを確認した。これは大発見である。
July 23 Nagoya - Beijing - Urumchi
July 24 Urumchi
July 25 Urumchi
July 26 Urumchi - Dushanbe
July 27 Dushanbe
July 28 Dushanbe
July 29 Dushanbe
July 30 Dushanbe - Kala-i Husein
July 31 Kala-i Husein - Khorog
Aug 1 Khorog - Ishkashim
Aug 2 Ishkashim - Khorog - Ishkashim
Aug 3 Ishkashim - Darshai
Aug 4 Darshai - Zugvand
Aug 5 Zugvand
Aug 6 Zugvand - Zor Kul
Aug 7 Zor Kul
Aug 8 Zor Kul - Murghab
Aug 9 Murghab - China Kulma pass - Murghab
Aug 10 Murghab - Jelondy
Aug 11 Jelondy - Khorog
Aug 12 Khorog - Dushanbe
Aug 13 Dushanbe
Aug 14 Dushanbe
Aug 15 Dushanbe
Aug 16 Dushanbe - Urumchi
Aug 17 Urumchi - Beijing
Aug 18 Beijing - Nagoya
昨年に続き、今年(2007)もアフガニスタン・ワハーン回廊への入域を企てて、タジキスタンにやってきた。
しかし、折り悪く、韓国の人質26名の二人目が処刑された8/1に国境のイシュカセムに達した。
2日間に亘る交渉も水の泡、KGBまで出てきて脅された挙句に、アフガンへの入域を断念せざるを得なかった。
左図はタジキスタンの観光ガイドブックのコピーである。
アフガンータジキスタンの古代シルクロードである。
マルコは世界の定説では、Balkh-Kunduz-Fayzabad-Zebak-Lyangar--
Murgab-Tashkurgan-Kashgar
である。
今回は、、「東方見聞録」の中でも、最も魅力的な、この部分の踏査となった。
私の個人的な思いは、ワハーン回廊のワクジル峠を抜けてタシュクルガンに達するルートに固執していた。
なぜならば、7世紀の玄奘三蔵がインドからの岐路に通過した峠が」ワクジル峠であったからだ。
しかし、アフガンへの入国が閉ざされた現地での判断で、急遽、ノーマルルートの踏査にに切り替えた。
徒歩でもなく、自転車でもなく、車でのパミール高原の横断となった。
ゾルクル湖周辺は、外国人の入域禁止区域でもあり、軍基地で、許可を採っての入域となった。
大変魅惑的な横断となった。
この領域に侵入した日本人は私が二人目ではないかと思っています。
パミールに住むタジク人のズズバイさんの言である。最初の日本人は広島の平井ドクターであろう。(本人にまだ未確認)
TAJIKSTAN
中国 ウルムチ 紅山公園
公園での若い夫婦
オーストラリア ブリスベンから来た、ワヒ族のグラフ
氏。私の英語の通訳として雇った。
長野の田村氏紹介のタシ・ヌル・マイマイティーさん
旅行会社の日本語通訳。大変親切なガイド。
タジキスタン・ドシャンベで合流したシェラリ(27歳)
タジキスタン言語大学 日本語科 講師
ワハーン回廊一帯のワヒ族。今回の旅で一番働いてくれた
ドシャンベの英語のガイド
日本人と全く同じ顔立ちである。
ドシャンベ・ホテル アベスタ
1泊60jも取られたが、他に格好なホテルが無く、ここに長く泊る。アベスタはゾロアスター教の経典の意
首都ドシャンベ
ご婦人達の服はマルコポーロの時代と同じ、ブカブカ
タジキスタン外務省。
撮影禁止だが、撮った。
ドシャンベの東の小高い丘から市内を見下ろす。旧ソ連邦の中で最も貧しい国である。
ガイドのシェラリの学友の家に、途中宿泊した。
Saghirrdasht Pass (3252m) 国道1号線で砂利道。
画面左側は地雷原。1998年にやっと内戦が終了した。
峠の東側の地雷原。
国連派遣戦争監視団の一員として、銃弾にて亡くなった、秋野豊氏の慰霊碑。1998年没。
断崖絶壁を縫うように進む。砂利道である。反対側から、中国製の小形乗用車と数多く出会う。中国〜タジキスタンを結ぶ唯一の道路である。
ワハーンから流れ出るパンジ川。
川の向こうはアフガニスタン。
谷あいを延々と進む。それにしても流れが急である。
中国ウルムチのスケッチ。
シルクロードのウルムチの面影が無くなり近代的なビルラッシュである。
鯉魚山公園からのスケッチ。
夕焼けの空に彼方の天山山脈が見えた。
界隈第一のコログの街に達した。
ドシャンベから410km、砂利道。
コログの町
ツーリスト事務所の紹介で泊ったアパ
コログの町
驚いた。フランス人のサイクリスト(52歳)と出会った。毎年世界各地を自転車で走っている。
この道を自転車で走破するとは立派なものである。エールを送る。
ドシャンベから530kmでアフガニスタンの国境、
イシュカセムに着いたが、前日韓国人捕虜が殺された。我々のアフガンjへの入域は閉ざされた。
川向こうは、アフガニスタン。
イシュカセム
19世紀後半 英国のジョン・ウッド大佐により発見されたビクトリア湖。現在ではゾルクルとパミール語で呼ばれている。
ゾルは「良い」の意味。ヅーが訛ったもの。湖まで歩いていこうと歩き出したが、とてつもない距離であることがわかった。
遥か彼方に、黒い豆粒の様なものが、放牧の牛、羊、ヤギ、ヤクの群れである。 標高4200m
激流は次第に緩やかになり、コログに近づいてきた。
イシュカセムの出入国管理事務所。隠し撮り。
税関、イミグレ等全ての機関がこの建屋に居る。
ソ連時代のオンボロビル。二日間スッタカモンダカした。
イシュカセムを出ると、両岸が迫り、川向こうはアフガン。
コログのツーリストオフィースのワタニ氏の実家に泊る。ワタニとシェラリは親戚であった。
目一杯のご馳走で歓迎してくれた。
この谷に住む種族はワヒと言う。ワヒはイスラム教徒であるが、戒律の緩やかなイスマイリー派である。
女性もスカーフはしているものの、チャドルは被っていない。夜遅くまで女性達に囲まれて、歓談した。
憧れの地カライパンジャに達した。画面中央の川向こうの小高い丘に古城あり。
今は、増水していて渡れないが、冬になれば誰れもが行き来する。シェラリーの祖母の在所は川向こうで、子供の頃はいつも行き来してた。との事である。
ヒンズークシュの山並みが続く。山名が解らない程数多くの6千m級の山が続く。、
アフガン入りを諦めて、自動車でのパミールの横断に切り替えた。
数少ない車を探して、イシュカセムを発ち、ワハーン回廊の深部へ向かう。
ズグワンのシェラリの実家に1泊し、裏山へハイキングに出掛けた。すばらしい景観であった。
ワハーンの重要な分岐点。真っ直ぐに延びるのがワハーン渓谷。左がパミール川。
我々は左のパミール川を遡った。
スチュ−パと呼ばれる神聖な場所。仏教、ゾロアスター、イスラム混合の村人の神社
ワハーン谷からパミール高原へと進んだ。さらばワハーン
ガイド、シェラリの家族。ズグワンにて
フランス人サイクリストが唯一行き交った車であった
最奥の集落ランガールの上部のパミール川を渡る橋
カルガシュの軍基地の司令官の許可を得て入域
一般者はゾルクル湖へは入域禁止地域である。
マルコの記述通り、平原に大きな川が流れている。
四角の標識はタジキスタン・アフガニスタンの国境
道は悪路と化し、やがて定かでなくなってきた。
標高4千mに達し、酸素不足からエンジンストップの連続
中央アジアの雄大な景観を行く
モンゴルの末裔を思わせる2頭の馬が峠に現れた。
憧れのゾル・クル湖に達した。
当計画のスタートの何年も前から、地図や文献で思い馳せて来た地である。
当湖を最初に西欧に伝えたのが、英国の探検家ジョン・ウッドである。しかし、彼はビクトリア湖と自国の王朝の名を冠した。
今でもほとんどの地図がビクトリア湖である。
しかし、近年はゾル・クルと昔から地元の人たちに呼ばれている名になっている。
ゾルはズー(良い)の訛ったもので、クルは湖のパミール語。
パミール語はシュグナン族とワヒ族が用いている言葉。
シェラリの友人のクチーナに立ち寄った。
夏の放牧小屋は石で囲った頑丈で暖かい造りである。
どこのクチーナに寄っても大歓待を受ける。
それだけ、彼等は退屈している証である。
探し求めていた「マルコポーロ山羊」を発見した。シェラリーは昨年16頭も射止めたとのこと。
ゾルクル湖東端。中央の谷の右がアフガン、左がタジク領の国境がはしっている。
Kokjigit (4262m) 湖 (三つの湖の意)。 付近に三つの湖がある。
ここが西に流れるパミール川と東に流れるアクス川との分水嶺となる。
この川は下流で合流しパンジ川となり、アラル海へと注ぐ。大海には達しない。
今までのクチーナとは違ったモンゴル式のパオが現れた。
タジク人の放牧民ズズバイさんの集落であった。総勢32名の大所帯であった。
きれいなパオの中で歓待を受けた。驚いたのが、「緑茶」が出されたことである。
仕事柄、紅茶と緑茶の境界を発見するに至った。帰国後11月の学会で発表した。
左タジク人のスルトン・ベコヘ・スズバイ(52歳)スンイー派
右ワヒ族ニク・パッショ(27歳)イスマイリー派
ニク・パッショ氏はシェラリーの友人。モスクワの大学卒。あだ名は、ビン・ラーディンと呼ばれていた。
夕闇迫るパミール高原はどこまでも続く。 古代の旅人達は、どのようにこの道を進んだのか。
界隈随一のムルガブの町の朝。遥か東方に中国のムスターグ・アタ峰が望まれた。
ムルガブの町には、木が全く無いと聞いていたが、まさにその通り。住人に聞くと、塩分が多く、植えても枯れてしまう、とのことであった。
それにしても、貧しい町であった。ソ連時代は裕福であったようだ。
クルマ峠の手前で国境となっていた。国境に達し、撮影禁止でモタモタしていたら、折り良く、中国とタジクの政府高官の車がやってきた。ドサクサに紛れてパチパチと撮ったが、やがて、ふんぞり返った役人に追い返された。
今年こそはアフガン・ワハーンの入域だ、とばかり、勇んでタジキスタンに着いたが、何事も自分のペースで事が進む訳が無い。
タジキスタンのKGBに脅され300ドルも巻上げられ、アフガン入りが敢え無く消えた。
ところが、転んでもタダで起き上がらない習性が、60歳になってやっと身に付いた。
ならばと、世界のマルコポーロ研究者の定説となっているパミール高原の横断に急遽変更した。
結果的に、すばらしい成果を挙げる事ができた。ワハーンから、カシュガルに至る、世界の謎のルートをつきとめた。