2005年(第三次) 4千bのザクロス山脈を越え、
灼熱地獄のペルシャ湾、熱風のルート砂漠を越え
アフガン国境に至る。
親切な多くのイラン人に感謝。アッラー・アクバル
- July 14 Tokyo-Tehran
- July 15 Tehran-Kerman
- July 16 Kerman-Mahan
- July 17 Mahan-Bam
- July 18 Bam
- July 19 Bam-Jiroft
- July 20 Jiroft-Kahnuj
- July 21 Kahnuj
- July 22 Kahnuj-Rudan
- July 23 Rudan
- July 24 Rudan-Minab
- July 25 Minab-Bandare Abbas
- July 26 Bandare Abbas
- July 27 Bandare Abbas-QotoAbad
- July 28 QotoAbad-Haji Abad
- July 29 Haji Abad
- July 30 Haji Abad-Sirjan
- July 31 Sirjan
- Aug 01 Sirjan-Bardsir
- Aug 02 Bardsir-Kerman
- Aug 03 Kerman
- Aug 04 Kerman
- Aug 05 Kerman-Ravar
- Aug 06 Ravar
- Aug 07 Ravar-Rigerstan
- Aug 08 Rigerstan
- Aug 09 Rigerstan-Ganogan
- Aug 10 Ganogan-Tabas
- Aug 11 Tabas
- Aug 12 Tabas-Bosaruyeh
- Aug 13 Bosaruyeh-Ferdows
- Aug 14 Ferdows-Ayesk
- Aug 15 Ayesk-Qaen
- Aug 16 Qaen-Ebahima bad
- Aug 17 Ebahima-Taybad FINISH2347km
- Aug 18 Taybad- by bus
- Aug 19 Tehran Manasl member's party
- Aug 20 Tehran Embassy Afghanistan
- Aug 21 Tehran-Tokyo
- Aug 22 Tokyo
出発前に戸塚掛川新市長に挨拶。励まされる
ケルマン空港には自転車を預けたアリさんが出迎え
地震の甚大被災から懸命に再開した安宿
アクバル・ツーリスト・ゲストハウス
地震で壊滅されたエルゲ・バム。私は、イランで最も憧れていた地だけに残念。
ザクロス山脈の遊牧民
モハマド・シャドウネジャデ(39)先生。
彼に励まされて、彼の家に一泊世話になった。
都市カマディーについて(東方見聞録)
上記した二日行程の傾斜地を下りきると一大平原にさしかかる。この平原のかかり口にカマディーという都市がある。ここも昔はすばらしく立派な町だったが、侵略者たるタルタール人の数回にわたる攻略を受けて、今では往日の面影を留めないまでにさびれている。この平原の暑気は恐ろしく厳しい。
愛宕松男 訳 平凡社 p73
この坂を下り終えると、すさまじい暑さとなった。
マルコの記したカマヂィーという町は、現在も見つかっていなく、現在のジロウフトである説が有力である。
二日の下り、五日のレオパール平原。平原は緑が多く、生き物も豊富である。
正に、ピッタリである。
マルコの観察は、恐ろしいほど正確に観察している。
イランで見る最も大きな川の流れ。
この水はやがて砂漠へと到達し、塩湖となり消え失せる。
マルコは五日間掛ったレオパール平原。
緑豊かな裕福な土地である。
マルコが引き返したホルモズ港に達した。
ダウ船に似た船。マルコの時代は帆船であった。
マルコの時代を彷彿させる港の景色であった。
船が帆船であれば、ぴったりである。
FOROOGH BANDAR HOTEL のオーナーは
私の計画を応援。宿泊代100ドルを只にしてくれた。
ボルケという暑さ、イスラムの二つの意味合いを持つという。
札をちらつかせて撮影に成功した。奇妙なマスクをしたご婦人方に出くわした。
常時2千メートルの高度は酸素も薄い。坂も急である。
遊牧民が現われた。
18日振りにケルマンの定宿AKHAVAN ホテル
にかえると、満室であった。向かえのNAZ ホテルへ
イランのポリスは皆大変親切である。
私は、事故のことを思い、積極的に接触した。
2660mの標高のクーパンジ峠にやっと達した。Sirjan−Bardsir
少年(右)は私の計画を知り、ジュース代をとらなかった
シルジャンのホテルのオヤジは手のひらを上に向けて、「この通りまったいらな道である」といったが、とんでもない。
600mも上がっている。
峠の標高は2660mであった。(写真上の2枚)
背後の山はクー・パンジと言う。
すばらしい景観であった。陽射しは強いものの、吹き抜ける風は心地よいザクロス山脈の香りを載せた涼風であった。
店番の少年(左上の写真の右の小さい少年)は私の計画を新聞を読み知ると、ジュース代は一切取らなかった。
この坂を自転車で越えてきた人間をはじめて見たのではないかと思う。
やがて少年は、使い慣れたノートを取り出し、私にサインをねだった。
JAPANESE MARCO POLO 影山 淳 と書いた。
峠からの下りは、延々と快適な走行が続いた。鼻歌「知床旅情」十八番を歌い、下った。
イランでは大都市以外は全く宿泊施設がない。
ドルの両替も州都でないと不可能。
従って、野営は強盗等で危険であり、民家を頼るしかない。
よくしたもので、必ず、誰かが現われた。
英語の話せる「先生」が多かった。
一般人の生活が解り好都合でもあった。
自転車の旅はすばらしい。
乾いた砂漠の熱風を肌であじわい、民衆の心の触れ合いをも持たせてくれた。
アッラー・アクバル
意外な事に、砂漠の夜は、夜露が全く降りなく、快適そのものであった。日中は50〜60度の灼熱地獄も夜の11時ごろには快適になり、毛布を一枚被った。
アリさんの家に泊めてもらった。家族が全員庭で蚊帳を吊って寝ているのには驚いた。私にも新品の蚊帳が用意された。
アリさん、顔つきが悪く、最初は警戒したが、BANK
MELLAT(国営銀行員)と言うことでお世話になった。テヘランのパルビン、メヘリーとおなじぎんこうであり信用した。
行けども行けども遥か彼方の地平線。日中にはトラックも熱くて走らない。殆どが休んでいる。
キルマン国立図書館でマルコポーロの書物を探してくださいと頼むと、親切に直ちに捜してくれた。美人職員は上手な英語で説明してくれた。
左の厚い本は、アルホンゾ・ガブリエルの「マルコポーロ・イン・ペルシャン」で早速テヘランのパルビンに電話して購入し、帰国時に日本へ持ち帰った。日本には翻訳されていない。
私のイラン国内のルートは当著書のルートを辿っている。
タブリツ大学の先生による勧めである。
ジローフトを早朝に出発。大都市であり、町の東側のバイパスを経て郊外に達する。
マルコの言うとおり、緑豊かな大草原が続く。五日間の平原から、二日間の小砂漠を越えると、ペルシャ湾に達する。とマルコが記した地方である。
正にマルコの言うとおりである。
この平原はまずまずに通過した。
しかし、小砂漠に入り地獄を見た。昼過ぎとなり、余りの熱さに橋の下に潜り込んだ。日陰はどこにもない。
夕方の日暮れまで待とうと、橋の下に入ったのは良いが、砂漠が熱せられ、表面をなめる熱風が押し寄せてくる。
私の持っている安物の寒暖計は44℃にたしたままちっとも動かないが、熱風の温度は80℃以上はある。
私の仕事はお茶の機械屋であり、乾燥機の温度は手をかざせば分かる。
次の町に着いたのは、深夜2時すぎであった。カヌージの町である。
カヌージでは、追いハギに遭うし、逆に親切な大学教授に助けられもした。
学説・カマディー について。
世界のマルコポーロ研究者の中でカマディーの町がどこなのか、諸説紛々としている。私は、カヌージ(Kahnuji)ではないかと思う。
マルコの記憶ではカマディーと発音されているが、それが訛って、現在ではカヌージとなったのではないか、と思う。
現在のジョローフトがマルコの言うカマヂィー(カヌージ)であろう。
小砂漠を過ぎて、ルダンと言う町に着いた。2日間ユセフの家にお世話になった。
若いときに船乗りとして日本を度々訪問していて、英語も話すし、良い男であった。町の菓子屋である。
離婚して、やもめ暮らしで、好きなだけ泊まってゆけと進められた。
この地では、金持ちの部類で、クーラーの効いた家は快適であった。 日中は、熱くて仕事をしている人はいない。陽が沈むと、夕方から町が活気付く。
一日の始まりは「夜」であるとのキリスト教はじめ言われていることが分かる。
本年の最難関のルート砂漠の横断に差し掛かった。
キルマンで十分な休養をとり、早朝3時半に出発した。この日は、二日間で、砂漠手前のラバルの町に達する予定であったが、途中で宿泊可能な場所がなく、ズルズルと走行してしまい、夕方5時にラバルの町に達した。
この地方では大きな町であるが、やはりホテルはなかった。
困り果てていると、人相の悪い男が現われた。英語の話せる男はバイクに乗り、「俺の家に泊まれ」と声を掛けてくれた。
しかし、余りにも人相が悪く、職業を聞いた。「バンク・メラート」といった。テヘランの友人メヘリーと同じ銀行員である。国営銀行である。
これは間違いない、と後に続く。かなり走り、郊外の狭い農家の通りへ入っていった。
アリ氏は婿さんであった。趣味が洋画を描く事であり、市民講座の先生をしていた。
翌日は休養日とし、彼の絵画教室を覗かせてもらった。
きれいな若い女生徒ばかりであった。
街中のカルチャー・センターで昼中を休養した。
夜10時の出発とした。砂漠は173kmあり、時間10kmしか進めない。
17時間掛るわけで、午後の灼熱地獄を避けるためには、この時間である。しかし、当地の夜の10時は、夕方であり、市民の夕食時間はこれからである。子ども達は深夜の12時まで表通りで遊んでいる。
10時の出発には、アリの友人のバイクが1台と、ポリスのバイクが1台の2台のバイクに挟まれて町を出た。
郊外で彼等と分かれた。フォダファフェース。
1ピッチ1時間走り、小さな峠で一服していたら、トヨタ・ランクルのパトカーが現われた。昼に私を遺跡へ案内してくれたポリスが乗っていた。
彼の車に後ろから照らしてもらい、快調に進む。午前2時に州境に達した。砂漠の岩山を背にして、ポリスの大きなビルが建っていた。
「この先は危険だから、明るくなるまでこの中で休んでゆけ」と何度もすすめてくれた。
冗談じゃーない、ありがたいことであるが、明るくなく前に、少しでも砂漠を越えなくてはならない私は先を急ぐ。一人ぼっちの暗闇の砂漠の横断に入る。
遥か前方に、オレンジ色の外灯が見えてきた。もしや、集落があるのだろうか、1時間ほどでこの灯に達する。工場入り口の外灯であった。
こんな砂漠の中に水はあるのだろうか、何をする工場なのか。
夜が明け始めた、東の空が白み始める。ほぼ6時である。
しかし、太陽が赤く丸く地平線に現われると地獄の始まる。怯えにも似た恐怖心が沸いてくる。睡魔にも襲われ、横になり少し休む。
果物類がおいしい。ぶどうが好きで、いつも持っている。
長い直線を北上すると、地図上にも直角に右折ケ所に達した。少し行き小高い峠に達した。来た道、行く道が遠方まで見渡せる。草木の全くない、荒涼とした赤い土漠が続いている。
あと50kmを残してへばってきた。体力の限界を越えている。何よりも夜を徹しての走行がきつい。昼近くなって、気力も萎えてきた。橋の下に2度潜り込んだ。
日陰に入るものの、地表をなめて来る熱風はドライヤーの温度である。
ゴールのリゲルスタンの集落が彼方に見えてきた。あと20kmであるが、弱い向かい風となろ。ペダルを踏む力がなくなった。尻も痛い。あと5kmからは、歩き出した。自転車を引いて、ヨレヨレでリゲルスタンの集落に達した。
何もする気力もなく、ただ呆然と商店の軒先で身体を休めた。
当然のことながら、宿泊施設はなく、モスク付近で夜を明かした。
砂漠横断を終えたリゲルスタンには、温泉があった。政府が10年ほど前に掘り当てて、国民の憩いの場として管理していた。兵士が管理していた。
誰もが、パンツをはいて入れる。源泉は、手も入れれない高温であった。
温泉と言うより、プールである。白い壁に囲まれた隣のプールが女性用の温泉である。
イランでは、海岸の海水浴場も男女別々の場となっている。
厳格なイスラムの男女感である。
リゲルスタンで一日休み、2日目には、タバスに達した。タバスは、カビールとルート砂漠の中間に位置する古くからの砂漠の要衝である。シルクロードとしても古くから栄えた大きな町である。
スウェンヘディンも自動車で通過している。
マルコはこの町へは、南のクーボナンから8日間で砂漠を横断して、この町タバスに達している。
左写真はタバスの手前の山岳路。50km程行くと標高をドンドン下げて、再び灼熱地獄の砂漠へと向かった。
タバスまで5kmの看板に万歳三唱。
左・タバスの町の入り口。午後2時で暑さで市民は一人も見掛けない。皆、土の家の中で日中をやり過ごす。
自転車で走るなぞ、狂気の沙汰である、とホテルの主人に言われた。
町で唯一のホテルに宿泊していると、オーナーが自宅に招待してくれた。
ご馳走を一杯出してくれた。プールがあり、息子と泳いだ。砂漠にプールを所有している資産家である。
銭を持っている人は、持っているもんだ。
タバスの果物や。
マルコが侵入してきた方向にタクシーをチャヤーターして出掛けた。地域の川が流れ込み、やがてはこの様に干上がってしまう。残るのは白い塩の原が霞む地平線まで続いている。
十三世紀の昔、マルコ・ポーロ一家は、この砂漠越えを見聞録に詳しく記している。
タバスを抜けても、何日も砂漠が続いた。
砂漠にはこの様な避難所の窟が作られていた。
草木の全くない、日陰のない砂漠ではこんなにありがたい場所はない。ヤレヤレと大休止となる。
今年から、背中にギンギンのゴザを被った。茶畑で使用する日本の百姓の知恵である。
極めて快適であった。
足も熱くて耐えられなく、今年から、このギンギンを靴に被せた。
イラン東部、アフガニスタンに近付いた。
ホラーサン地方の羊飼い。
ツノカイーン地方。
下の写真は、風車による動力で穀物類の
臼挽きをした、遺跡。
現在では使っていないようである。
砂漠の農家に泊めていただいた。
アリさんは優しかった。夜の砂漠は、カラリとした涼しさで、青空の中庭にフトンを敷いて寝た。
在テヘラン・アフガニスタン大使館。ハビブ・タクハリ領事。
ぜひ来年も旅を続けよ、と励まされた。
アフガンは北部は安全である旨、親切に各種情報をいただいた。
アフガニスタンとのイラン側の国境の町タイバドで今年の旅を終えた。
2348kmの走破。
タイバドの町から、タクシーをチャヤーターし、アフガンの国境線まで行って来た。上記写真
国境は毎日開いている。外人の姿は見られなかった。両国の往来、貨物のトラックの行き来が多く見られた。
毎年世話になっているテヘランの友達達。
メヘリー一家。