第一次(2003年)トルコ(ライアス)〜イラン(タブリツ)    長年捜し求めたライアス港は中世の佇まいの港であった。
日程記録 2003年
July 23 TokyoーIstanbul−Adana
    24 Adana
    25 Adana
    26 Ayas−Kozan       94km
    27 KozanーFeke       141km
    28 FekeーGuzehim     195km
    29 GuzehimーPinarbasi 293km
    30 PinarbasiーSarkisla  423km
    31 Sarkisla
Aug  1 SarkislaーSivas     503km
     2 Sivas−Imuranli     609km
     3 ImuranliーRefahiye   675km
     4 RefahiyeーErzincan  741km
     5 Erzincan
     6 ErzincanーTercan   833km
     7 TercanーErzurum   916km
     8 Erzurum
     9 ErzurumーHorasan 1017km
    10 HorasanーAgri    1115km
    11 AgriーDugubeyazit  1205km
    12 Dugubeyazit
    13 Dugubeyazitー?    1324km
    14 ? −Tabriz      1509km
    15 Tabriz
    16 Tabriz
    17 Tabriz
    18 TabrizーMt Sabalan climb
    19 Tabriz
    20 TabrizーTehran
    21 TehranーAlamout
       HASSAN SABBAH CASTLE
    22 Tehran
    23 TehranーIstanbul
    24 Istanbul
    25 IstanbulーTokyo
    26 Tokyo(11:30)
Fekeからの20km余の長がーい坂を登り終えて、峠から振り返ったトロス山脈。地中海気候の影響で山肌には松の木が茂っている。
トルコの道路は最悪。
遠望では分からない路面が、実は、このような豆板状である。
砕石は尖って針の山である。
延々と20〜30kmと毎日続いた。歩くこと度々であった。

Sivasは大都市である。アジア・ハイウェイの西端でもある。マルコもシバスタの名で記している。
中世と現代とが、ごちゃ混ぜになった都会である。
トルコ、クルド共に、大変親切な人々である。
この子供たちが、私が帰るとい云ったら、何でも泊まっていけ、とせがんだ。
クルド人が現れ、夕食に招かれた。
泊まっていくよう誘われたが、テントを張り終えているし、お断りした。
Saeid Mehdinezhad と弟。彼が私の計画の最大の協力者である。日本に4年滞在経験あり。日本語に堪能。英語も私より遥かに上手である。タブリツ大学の教授と折衝。マルコのルートを調べ上げた。
イラクとの戦争では前線には出向いたものの、事務関係の部署に廻されて、鉄砲を持って這いずることはなかったとのこと。
彼は大変クレバーで、「豚の肉ほど旨いものはない」とこっそり私に告げたことがある。
優秀なイラン人は殆んどが国外に出てしまったと嘆く。

イランはゾロアスター教の国で、イスラムは7~8世紀にアラブから入ってきた宗教で、現在の、スンニー派とシーア派の争いの元である。イランは誇り高い民族である所以である。
サイードがある時、云った。「ゾロアスター教徒になりたい」と。
女性怪物サイクリスト。ドイツ人女性の超美人。
バンコックからインドシナ半島北上ーネパールーインドーパキーイランと走破してきた。女性一人旅。
Turkey の東の果て、アララット山。5123m
旧約聖書、創世記のノアの方舟で余りにも有名。
Turkey−Iran border
1972年に車で通過した記憶がよみがえった。
国境通過はトルコーイラン共に極めて簡単。30分。
エルズルム博物館で出会った女性。
持っていた日本製カメラが調子が悪く、直してくれち頼まれたが
製茶機械屋の私では無理であった。それにしても美しいご両人であった。
M.KEMAL ATATURK
1923−

現在のトルコ共和国の初代大統領。
トルコへ行くと、札、通り、ビル、何から何までアタチュルクと名が付く。これ程までに個人崇拝が徹底されている国は他にないであろう。
だから、独立後のトルコは発展しないと思う。

第2、第3のアタチュルクの出現を期待しています。
独立を勝ち得ただけでは駄目で、EUへの加盟が叶う国になってほしい。
博物館。町の中央の公園の一角にあるきれいな佇まいである。入り口正面には、紀元前後からの為政者の胸像が並び、歴史の街の風情を感じた。
30年前のヒマラヤの同僚、ムハマッド・ベヒザデがゴールのタブリツの手前60kmのマラン峠で待っていた。
涙流して抱き合った。看板には日本語で「ガンバッテクダサイ」と書かれていた。
右からm息子のサイード(25)、娘のサハシ(17)、私、ベヒザデ、米国人。
米国人は私とトルコでの知り合いで、メキシコ人を装っていたがすぐにばれて、ベヒ家族と同行して迎えに来てくれた。
 マルコは父のニコロと叔父のマッフェオに連れられて、1271年暮れに、当地小アルメニアのライアス港に上陸した。
 父ニコロはモンゴルのフビライ・ハーンからの請託を受け、二度目のカタイ(中国)への旅である.

 私の旅の出発地は、当然のことで、当地ライアスと決めた。
しかし、国内で懸命に探したが、解らずじまいで、トルコへ旅立った。

現地で探せば解るであろう、と思っていた。
案の定、三井物産の手配してくれたガイドの車で、地中海のイスケンデルン湾に向かうと一発で、ライアス港は見つかった。

予想以上の、中世の趣を残した小さな港であった。
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第一の2003年は、トルコのライアスからイランのタブリツまでの、1300kmの走破で、自転車の旅を終えた。
 来年の継続のために、自転車はタブリツのベヒザデの家にデポした。
そして、イランの首都テヘランへ空路向かう。
目的は、恩人サデキアン将軍の墓参りと、マルコ・ポーロが山の老人として記しているアラディオン城の探査である。
テヘランに着くと、マナスルの友人達の暖かい歓迎を受けた。
そして、来日時に、我が家へ宿泊した、パルビンとメヘリー家へ、ホーム・ステイすることとなった。
 
 パルビン家族を含めて、4家族で、私の長年の夢であった、山の老人の秘境へとハイキングに出かけた。
 早朝5時に四台の車で、エルボールズ山脈を越えて、アラムート谷へと入った。
写真は、途中の食事の風景。

道は、テヘランから西のカズビンに向けて150kmのアジアハイウェイを進み。カズビンの手前から、北に連なる山脈を越える。峠は2700mの標高で、北のアラムート谷は、雲に消されて見通しが利かない。
 気温がかなり下がった。
長いつづら折の急な断崖絶壁を幾度となく曲がり、谷底に達した。谷の川は、日本の谷川と同じく、清流が激しく流れ下っていた。
 水田には稲穂がたなびき、緑が豊富である。
この谷ならば、どこからも攻め入られることはないであろう。

数百年に亘り、暗殺集団として、中近東一帯を怯えさせた篭城に相応しい地形と食物の豊富さである。
ハッサン・サバーブ城の看板が掲げられていた。
大きな奇岩の大山の上に聳える。城主はアラオディンといった。

我々は、駐車場からこの写真の岩山を左裏から廻り込んで、頂上へ達した。

道は、観光者向けに整備され石の階段を30分程で、岩山のてっぺんに抜け出た。

外敵からの篭城にはもってこいの地形である。
モンゴルの軍勢が、ここだけは最後まで手をつけられず、
1262年から三年がかりで、モンゴル領主アラウによって平定された。
英語のアサシン(暗殺)の語源となった地である当地は、
後年になって分かった暗殺された近隣の国王や王族はシリア、エジプト、エルサレム、ペルシャ、モスール(現イラク)ハマダン、等々と、現代国際テロ組織「アルカイダ」以上である。

マルコの東方見聞録には当城の詳細が記されている。

山上に達し、四方を4000b級の山々に囲まれ、長く語り継がれた歴史ある「風」がなりよりも頬に心地良く感じられた。

写真はアラムート城址より南のエルボールズ山脈。

2003年(第一次)でお世話になったイスタンブールの三井物産社長の額賀寛さん(右)の自宅屋上。ボスポラス海峡を見下ろす世界最高の見晴らしに感動。
堀口氏、(中)、桜井氏(左)。

三井物産には大変お世話になった。感謝申し上げます。

額賀さんは一ツ橋大山岳部OB。
本社の元専務の丸子(マルコ)博之氏の紹介でした。
丸子博之さんは、私が1972年にイランのパハレビー国王の命でヘリコプターで救出されたときの、テヘランの連絡先をお願いした恩人でした。
南北アメリカ大陸、オーストラリア、タイ〜中国を経由してきた怪物に出会う。6年前にスペインを出発、まだこれから、アフリカ経由で祖国へ帰還とのこと。イラン国境より3日目。