イランの息子タムラ・ヘンディー(前左)と日本の父田村(前右)

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2016 日本 イラン・ダマバンド峰親善登山隊
JAPAN Mt DAMAVAND(5609m) FRIENDSHIP EXPEDITION 2016

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最後の訪問地、イスファファンに着いた。2泊した。
前記のペルセポリス等に較べると16~17世紀の古都で、日本人にはさほど興味がない。私も然り。1597年サファビー朝の都である。丁度江戸の始まりである故。
しかし、イラン人はイスファファンが大好きである。日本の京都と言ったところ。  イスラム色一色である。
更に北へ進むと、パサルガダエに達する、私は前回は見逃したので何としても行ってみたかった。ペルセポリスより古い遺跡群で、BC546年頃のキュロス大王U世墓である。その後、ダレイオスT世に引き継がれ、シュシュへ都は遷る。シュシュは遥か西である、行ってみたい所である。
アサディーとのツーショット
アルタクセルセスT世墓前
何のために塔屋か、今尚不明。ゾロアスターの祭火が大方の見方。入口の左に聳える。
ダレイオスT世墓
ダレイオス三世墓
世界遺産の中の世界遺産ペルセポリス
中東の三P と言われる、ペトラ(ヨルダン)、パルミュラ(シリア)、そしてこのペルセポリスである。
半日、自由時間となり、早速一人でTaxiをとばし、やってきた。
キャリーム・ハーン城塞
ヤズドから一日かけて、シーラーズへ向かう。
キャリーム・ハーン城塞
ここに骸を並べ「鳥葬」とした。
1963年より禁止された。現在はイスラム式土葬
ヤズド南郊外、「沈黙の塔」
ゾロアスター教の鳥葬の場
左ラバルのアリさん、右アサディー。 ヤズド市内
教祖ゾロアスターの肖像画
生誕は紀元前630年頃シースターン(アフガン西部ヘルマンド河)生まれ。553年頃77歳で亡くなる。名古屋大学、伊藤教義が最有力。

1500年燃え続ける火
我々25名が到着した夜に、テヘラン市民ホールで2〜3百名の参加の元で盛大な歓迎会が開催された。主催者として、アサディ元将軍が挨拶した。今までのいきさつから始まった。
 アサディ は1976年の遠征時は、国王の親衛隊中尉で体育教官であった。しかし、登山は全くの素人であった。登頂隊員に選ばれたが、前日の7500mで羽毛服を強風で飛ばされた。
登頂時も頂上手前で羽毛ミトンを飛ばされ、滑落もした。よくぞ生還したものである。 頂上での滑落は私のピッケルが抜けかかって止まった。登頂翌日の下降時にも7600のスノーエプロンで滑落したがFixで止まった。 彼にしてみれば、寒くてつらい登頂であった。と今回の手記に記してあった。 彼も死を覚悟し、私も死を覚悟して挑んだマナスルであった。アッラーアクバル。
その彼を日本へ招きたい。実現が迫ってきた。

Tehranに戻り、最後の1日を自由時間とした。私は一人、数年前に脳ガンで亡くなったパルビンの墓参りに行った、旦那であったムチタバがホテルに迎えに来た。大変聡明な女性であった。ご冥福を祈る。
ラバル
40年振りの再会を喜ぶベヒザデと清水Dr。Tehran空港、2016年8月7日(写真の時間は日本時間)二人は共に1976 IRA-JAPAN Mt Manaslu(8156m) Expedition Member であった。

頂上(5609m)。 日本勢25名中13名。イランも3人のガイドの若いものが5200mでゲロゲロしやっと登頂。と結構困難な山であった。半数しか登れなかった。
頂上からの北方の眺望。カスピ海は見えなかった。山頂北面は残雪が多い。万年雪であろう。
Tehran
Esfahan
Yazd
Damavand
1976年、日本・イラン合同マナスル遠征隊は長野山岳協会と愛知県山岳連盟が共催し、日本山岳協会主催の行事となった。
隊長には、日本山岳協会長:渡辺公平、 登攀j隊長に長野の田村宣紀となった。後援は長野県と信濃毎日新聞。双方数千万円の資金を担ってくれた。イランは国防、教育訓練費として6千万円が供された。
 そうしたこともあり、今尚友好親善を続ける我々に対しての励ましの記事を掲載してくれた。
 国際社会からは、核査察拒否で経済制裁を科せられたり、米国大使館占拠で今尚国交断絶中の米イ間であるが、民間の我々がささやかではあるが、こうした外交を続けていることの評価だと思う
ナグシェ・ロスタム 
アケメネス朝(BC550〜330)の歴代の大王墓
東のラフマト山から望むペルセポリス全景。なぜこの地が世界の中心であったのか、ロマンである。
屋根の塔は、冷風を吹き込む「バードキール」と言う。この地方の名物である。
遠く沙漠を越えて東数百キロのラバルの町からアリさんが駆けつけてきた。10年前に自転車の旅で私を泊めてくれた銀行員。左腕はバイクで近頃転倒した傷。
ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ

ヤズドは今尚ゾロアスター教徒の残る地である。
7世紀にイランへイスラム教が押し寄せ、ドロアスター教は駆逐させられた。家族に一人でもイスラム教徒がいると全財産がイスラム教徒へ渡された。バザールではゾロアスター教徒は締め出され
た。衣類の染色も許されず、しいたげ続けられた。やがて、インドへ逃れた。
牧農の火、祭司の火、王の火の三であるが、このアーメドは知らなかった。数千年前から燃え続ける火である。三種共に
奥ノ院。三つの火が灯る。祭司(アーメド)左白帽子。我々の歓迎の意味で「火」を焚いてくれた。
私は2004年以来2回目の訪問。12年振りだがちゃんと保護されてほっとした。イスラム一辺倒で気になっていた。
イランが発祥の地ゾロアスター教聖地、チャクチャク寺院は砂漠の険しい山裾
山を終えて18名が南の観光に1週間向かった。最初のカシャーン。砂漠の町であるが湧水が豊富。はしゃぐ宮下嬢。
お蔭様で私は極めて快調。入山日は足がつったが、一夜明けると快調であった。
5200mを過ぎるとなだらかになる。するとあっちこっちに噴煙を噴き出す小さな穴が現れた。硫黄臭くなった。日本なら入域禁止であろう?。
早朝6時出発を暗く、6時半に出た。5千前後から脱落者続出。この写真の地は5千前後。頂上の噴煙が見える。
ヴルガヘ・セボンモ(4150m) BC。 当初は上部の山荘に宿泊予定だが、着いてみると満杯で締め出されていた。イラン山協の招きの客が締め出されるとは?。これがイラン流である。
遅れて着いてみると、テントだとのこと。これも致し方ない。むしろこの方が良かったかも。しかし狭かった。飯炊きが頑張ってくれた。
Shiraz
プロール(1合目)2100m。 ここまで一般車が来れる。この建屋はイラン山岳連盟の所有である。ここらかジープで山道に入る
Tehran エンゲラブ・ホテルを宿とした。
過っては最高級であった。
ママプールの墓。ダマバンド登頂最高数を誇ったイラン屈強のアルピニストであった。優しい男であった。
イラン側隊員も半数が亡くなられ、墓参りをする。ハクビッツ総隊長の奥さんの案内。ご夫妻で40年前に富士山へ来られた。
40年前のイラン山岳連盟の会長・サデレアン将軍のお墓をお参りする田村。将軍の来日からマナスルが始まった。
ハクビッツ総隊長も高齢ではあるが、健在で車いすで登壇した。これが日本側の目的であった。ハクビッツが生きている間に、。
日本美女軍団に囲まれてご満悦の影山
生まれ変わってもロバにだけはなりたくない
後列:左より、山田巌、神田節子山田麻紀子(後ろは山田明?)、飯田千枝子、風間毅、女性(不明)、サイード、春原岩治、小川正育、清水公男、渡辺富夫、冨田京子、ダットファルマ、
                                                       竹内俊子、冨田唱悟、ヨセフ・ヘンディー、唐木芳子、山田峰史、宮下通枝、薄葉正雄、林正昭、吉田則彦(最上右)
前列:左より、木村博、河合和郎、田村宣紀、影山淳、アサディー、ガイド、ガイド、タムラ・ヘンディー。
頂上直下から。岩がゴロゴロしているところが頂上
頂上からの東を望む。
BCから12時間程で往復した。のんびり登山であった。冬は面白そうだ。フォローザンが頂上で冬に吹雪かれて亡くなった。
歩き始め、25名+10名(イラン)の大パーティー
ペルセポリス
グスファンド・サライ3100m。 ここから歩き。荷はロバ。ここにはみやげ物屋、食事もあり。
BC4200に登れずここで2晩明かした人もいた。
父が愛した「ダマバンド」の見えるところに息子がレスランを持った。泣かせるね―。 そこを40年前の岳友が遠く日本から訪れた。
マナスル隊員、ママプールの息子。父親そっくりである。
彼の営む立派なレストランで朝食となった。 何よりのご馳走であった。
首都から2時間ほどで、ダマバンドが見える峠に達する。
日イ親善の源は、アラムクーでの影山の墜落事故をパハレビー国王のヘリによる救出が源である。その時のガイド、アブドリィー(右)と影山(中)がいきさつを紹介した。
日本からは5名の元隊員が訪れ、壇上で紹介された
信濃毎日、静岡新聞が今回は良く書いてくれた。
その一端である。