厳しかったアルプスでの登攀の数々に酔いしれ、次の未知なる冒険の旅にローマへと向かった。
スーナサをダビンチ空港へ送り届けて、影山、山田、押谷の3名となった。
毎日が驚きの連続。中近東とイスラム。欧米にない歴史文化が心地よく頬を撫でていった。
すべての道はローマに通ず。
我々の出発点は勿論、ローマ・コンスタンチノーブル凱旋門である。
左手には、フォロ・ロマーノが聳え立っている。
ローマを出発し、ユーゴへ向かう。国境の町トリエステの港町では、交通事故に遭遇、1週間の足止めを食らう。
ユーゴに入ると、石畳のハイウエイが延々と続き、タイヤの耐久試験さながらであった。
ベオグラードからブルガリアのソフィアを経由して、トルコに入った。
トルコのイスタンブールは傑作な街である。
1週間居ても飽きない街である。
紀元330年5月11日、ローマ皇帝コンスタンチヌス大帝は都をローマからビザンツに移し、ここを「新ローマ」と名付けた。
約1600年間栄えた。
当時は長安、バグダッドと並んで
世界で最大の都市であった。
そのコンスタンチノーブル(イスタンブール)を過ぎ、ボスポラス海峡を渡り、いよいよアジアに入る。
一路東進し、アナトリア高原の中心地カイセリ市の南に聳えるエルジャス・ダウ峰に向かうも、日程的に断念した。.
左写真・アララット山(5165)
ノアの方舟が流れ着いたと、旧約聖書に記された世界の名山である。
1972年10月
ローマからの長旅のあと、当アラム・クー(4840m)の北壁に取り付いた。
カスピ海の南に東西に延びるエルボールス山脈の盟主アラムクーは800mの大岩壁を誇り、日本人未踏の垂直の大岩壁である。
入山基地のルードバラックの部落から一日で、この山荘に一泊し、翌日、画面中央の岩稜を越えて、岩壁直下にBCをこしらえた。
写真はイラン山協のガイド・アブドリィー
アラム・クー北壁
カスピ海の南に東西に走る、5千b級の高峰が連なる山脈がある。盟主はタクティ・スレイマンという。その北側に4800bの標高で聳えるのが当、アラム・クーである。
高度800bを誇り、ドリュー北壁クラスの難易度スケールである。
下部には氷河もある。
この岩壁は、1972年当時は、日本人の誰もが足を踏み入れていなく、「じゃあ、俺達が挑もう」と言うことになった。
しかし、垂直の岩壁を抜け出た2日目に、頂上直下に達し、私がスリップ・ダウンした。
墜落距離が40bザイルが一杯にくりだし、80bもの距離を墜落。奇跡的に助かった。
これよりシルクロードの山旅
ローマ 〜 カトマンズ 15000キロの旅
ローマ 〜 ベオグラード 〜 ソフィア 〜 イスタンブール 〜 アンカラ 〜 カイセリ 〜シバス 〜
エルジンジャン 〜 タブリツ 〜 テヘラン 〜 ヘラート 〜 カンダハル 〜 カーブル 〜 カイバル峠 〜
ラホール 〜 アムロッツァー デリー 〜 アグラ 〜 カトマンズ
1972年の当時としては、パキスタンのカラチから欧州に走った京都のグループ。朝日新聞社の後援の、深田久弥、長沢和俊、鈴木重彦(名古屋鹿島山荘店主)の欧州からパキスタンまでであった。
各種の情報を得ようにも、何も無かった時代であった。 これだけの距離を自動車ではあるが、走破したのは我々が日本人としては始めてだと思う。
ネパールの首都カトマンズ
ローマから1万3千`の走行を終えて、カトマンズにて旅を終了した。
欧州アルプスでの登山活動三ヵ月。
ローマからカトマンズまでのシルクロード三ヵ月。
合わせて半年の旅を各人65万円の費用で済ませた。
2006年の現在、こうして30年も前の旅を振り返ると、人生に最もすばらしい思いでとなった旅であった。
ガンジス河を渡る愛車ビートル
蒸気の外輪船はまだ走っているのには驚いた。
アメリカ南北時代でもあるまいに。
アフガニスタン、バーミヤン
2001年春にタリバーンに爆破されてしまったが。我々が訪れた1972年10月がご覧の通り立派な形が残されていた。
東西2つの大仏があるが、写真は55bの高さの大きい方。
奇しくも、本日2006年11月12日の中日新聞の1面トップで、東大仏かた胎内仏の経典が見つかったとの報道がされている。
10日間の入院で、日本大使館からは「直ぐに帰国せよ」と云われたが、足を引きづり、アフガニスタンへと向かった。
左写真は、イランの最高峰ダマバンド山である。
イラン富士とも言われている。
スポーツ大臣、アリ・ホッジャーが度々見舞いに来てくれた。三井物産の丸子博之さんにも大変お世話になりました。
日本の宮内庁から、パハレビー国王へ感謝電が打たれました。
これは、我が家の家宝です。
テヘランのイラン山岳連盟会長のサデレアン将軍の耳に当事故が伝わり、やがて、時のパハレビー国王へ伝わり、ヘリコプターの出動となった。
ヘリコに乗った私は、首都テヘランに向けて飛んでいることを知り、事の重大さに気がついた。
パートナーの押谷と私は、何とか800bの岩壁をアップザイレンで下降した。これも奇跡である。
私は、左の写真の如く、顔面はクチャクチャ、しかし、手足は骨折していなく、これが助かった原因である。
夜を徹して、ガイドのアブドリィーがルードバラックの部落に火急を知らせに駆け下る。