1972 名古屋山岳会 アルプス&シルクロード登山隊
鈴木真吾(42)、影山 淳(26)、山田 巌(27)、押谷嘉浩(28)
アルプスのみ (瀬戸水南山岳会)
6月24日(横浜港)〜9月3日(ローマ) アルプス編
9月7日(ローマ)〜11月13日(カトマンズ) シルクロード編
登攀の記録
7/15〜16 グランキャピサン東壁ボナッティールート 影山、山田
7/18 エギーユM 山田、押谷
7/23〜26 ドリュー北壁 影山、押谷
7/24〜25 モンブラン・ノーマル 山田
7/30〜8/1 グランド・ジョラス中央側稜 影山、山田、押谷
8/4〜5 モンブラン・ノーマル 影山、押谷
8/13 影山、山田、アイガー北壁に取付も雨天で引返す
8/22〜24 マッターホルン北壁、影山、山田、押谷
ジョラスとマッターホルン」の三大北壁の2本の登攀に成功した。
ジョラスの中央側稜は日本人初登攀となった。
シャモニ針峰群の山田。
ガストン・レビュファ「星と嵐」の世界である
シャモニの早朝。
六時始発のケーブルに乗るには、寒いひっそりとした街を抜けていく。日中は国際観光都市に急変。
愛車ビートルと鈴木、影山、シビリ(イラン)、山田。
シビリとは街中で偶然出会った。テヘランのアデリーの友人であった。
ドリュー北壁の下部クーロワール。セカンドの押谷。
中央部の二日目の悪天とルート難度はあったが、下降のアップザイレンが延々と続き、やっとの思いで氷河に降り立ち、
氷河で再び迷路に迷い込み、小屋で3日目の夜を過ごした。
ドリュー北壁には、色とりどりの水晶が見られたが,
登攀に専念。
テラスでビバークする相棒の押谷。これだけ大きな快適なテラスは五つ星と呼ぶ。ぐっすり寝込んだ。
グランド・ジョラス北壁。レショ避難小屋から。
当遠征の主目標であるルートは、中央右側から左上の稜線に抜けている岩稜である。正面はウォーカー稜。
当時の日記より
7月29日
待ちに待った好天が続きだした。ドリュー北壁の疲れも抜けきらぬが、絶好のチャンスとばかり決行した。
与呉氏を混じえて5名でシャモニのレストランに立ち寄る。ワインで前途を乾杯し、ステーキを腹いっぱい詰め込む。
モンタンベールへの電車は観光客でいっぱいである。モンタンベールよりあおぎ見るドリュー針峰は何度みても圧倒される気迫で迫ってくる。
ランベール・クラック、ピエール・アランリスと数日前に悪戦苦闘の場所が心なつかしく目に映る。
隊長も我々とレショ小屋まで入山すると言うことで、4人でメールド・グラス氷河を歩く。ハイカーでごったがえす氷河も、レショ氷河に入ると我々だけとなった。氷河の右岸に小さなレショ小屋が見えだすと、グランドジョラス北壁も目の前に立ちはだかっていた。
小屋は日本人パーティーを含めて満員の盛況である。西に傾き始めた夕日をを受け、グランド・ジョラスは、黄金色に染まり、しばしの間見とれていた。
コックの山田が作ってくれた夕食を腹いっぱい詰め込んで、毛布にくるまった。
薄暗くなると小屋の中はシーンと静まりかえった。ほとんどのパーティーがウォーカー稜へ取り付くようである。その中で、フランス人の若者二人は我々と同じ中央側稜へ取り付くと言っていた。
彼等の一人は我々の小さな体を見て、「中央側稜はウォーカー稜よりも厳しいが、君達で登れるのか」と話しかけてきたから、私は「もちろんだ」
と返事をした。
以下省略。
(二日後には彼等を助ける事なぞ思いもよらなかった。)
世界のアルピニストの目標グランド・ジョラス北壁。
アルプスで最も困難なルートと言われている。
標高差千六百b。世界の精鋭クライマーが集結する。
ツェルマットからのマッターホルン
アイガー北壁に取り付くも、雨天で断念した。最後のチャンスをうかがっていて、マッターホルン北壁に挑んだ。
8/22〜24 影山、山田、押谷の3名で挑む。
欧州の夏は既に終わり、秋風が吹き出していた。世界各地から来ていたアルピニスト達は、日増しに消えていった。
シャモニに居た植村直己も自転車でコペンハーゲンに旅立っていった。
グリーンランドのエスキモーに犬ソリの教えをこうために。
シュワルツゼー
ヘルンリ小屋を出て、暗がりの中を取り付きまで達すると、何と、先行パーティーがいた。ポーランド人であった。
我々には既に赤毛唐の欧米人へのコンプレックスは全くなかった。
ジョラスでは、仏人二人は我々がいなかったら死んでいたであろう。
このマッターホルンでも同じであった。瞬く間に追いつき、我々が前に出た。ルートも私が全て見つけて進んだ。
マッターホルン北壁はルートの難易度は低い。ほとんどが4級程度である。しかし、ルートファイテングは難しい。
2日目は雪の降るかなりの悪天となる。チリ雪崩のバンバン落ちる中で、ルートを探すとなると、かなり困難となる。
我々は、4~5日分の食糧、燃料を持っているので、ゆっくり確実に登っていった。
又しても、ポーランド・パーティーは遭難した。頂上に抜け出たが、ヘリコで降りていった。夜通し登っていたので、凍傷にやられたのであろう。
一晩目はツェルトもなく食料もなく、雪の狭い棚で一夜を明かしていた。二晩めは凍え死ぬので、夜を徹して登っていたが、暗くてルートが解らなく、、、。
初日は快晴の好天気であったが、二日目は一転吹雪となった。チリ雪崩の中をひたすら登り続けた。
吹雪と云っても、日本の冬山ほど寒くはない、5月の剣と云ったところである。
2日目には、夏とはいえど吹雪となった。チリ雪崩の中を黙々と登る。終始トップで私がルートを拓いた。
残置ピトンを見付けるとホットした。
これでルートは間違いない、と。
欧州アルプス三大北壁の一つのアイガー北壁は登れなかったが、ジョラスとマッターホルンの二本を登ることが出来た。
次の目標「シルクロード」の旅に向けて、インスブルック、チロル、ドロミテ、ベニスを経て、ローマへと向かった。
写真はスイスの田舎町。
アルプスの記録
グランド・ジョラス北壁中央側稜(クロ稜) 日本人初登攀
欧州三大北壁、アイガーは名古屋山岳会OBでもある高田、マッターホルンは芳野、ウォーカー稜は独標の石井、伊佐、等に登られていた。私が、高校時代から憧れていたこれ等の難ルートは、やっと地力が付き海外に目を向けたときは、既に全てが日本人にも登られていた。
しかし、そうした中で、登られていない最も困難なルートが、グランド・ジョラス北壁中央側稜であった。
当遠征の主目標であった、ジョラスの中央側稜を、日本人として初めて完登することが出来た。
1972年8月1日12時5分であった。
更に、アイガー、マッターホルンへ向けて動き出した。しかし欧州の秋は、8月になると始まっていた。
アイガー北壁には1週間いた。取り付いたものの、雨が降り出し、やむなく撤退した。
次に狙ったのが、マッターホルンである。アイガーより易しいと思ったからである。
頂上直下で2晩目のビバ^クに入った。
ここから稜線に抜け出るのに、8ピッチほどあった。
ルートファンティングが難しく、仰ぎ見る雪と岩の弱点を突いた。
最後の2ピッチは5級であった。後続のフランス人の二人も引っ張り上げた。
終始トップでリードした私に、フランスの二人は、絶賛の言葉を掛けてくれた。
我々がいなかったら、彼らは死んでいた。
中央氷田をラストで上がってくる山田。
垂直距離1600mの壁の大きさが解る写真である。急峻でもある。
影山、押谷、山田の順で登る。
ラストの山田は重い荷物を背負っている。
私は、個人装備だけの身軽でルートを探しながらの登攀である。
最初の難関、下部氷田を攀じる影山。
アイス・ハンマーとバイル、12本出っ歯のアイゼンを用いた。
ザイルは8mm、80m、エーデルリット製
をドッペルで行く。
クロ稜
フランス人登山家ミッシェル・クロの名が由来。
稜線の向こうはイタリアである。
下降路はイタリア側へ降りた。
マッターホルン北壁に挑む