日本の中の韓國を訪ねて (1)

鬼室神社()
石塔寺(いしどうじ)三重塔

 司馬遼太郎氏の著作を読んでから一度訪れたいとかねて思っていた近江の中の二つを尋ねました (2001.08.09)
(参考文献:司馬遼太郎『街道をゆく 韓のくに紀行』,滋賀県日野町および蒲生町ホームページ,
石塔寺三重塔現地解説板,阿育王山石塔寺略縁起など)


鬼室神社(きしつじんじゃ)
 
近江朝廷(天智<てんじ>天皇:(626〜671))が大津に都を定めた頃、現在の韓国、時の百済(くだら)国から我国へ渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が、この神社の本殿裏の石祠に祀られているところからこの社名がつけられました。  古くは不動堂と言い小野村の西の宮として江戸期まで崇拝された社であり、小野の宮座である室徒株(むろとかぶ)によって護持されてきました。
 また今日では鬼室集斯の父と考えられる鬼室福信将軍が大韓民国忠清南道扶餘郡恩山面の恩山別神堂に祀られているところから、姉妹都市としての交流が盛んに行われています。

※ 鬼室集斯(きしつ-しゅうし (?〜朱鳥三年(668)没?)とは…
百済復興運動(白村江の戦い(660)等)挫折後に渡来した百済人。「日本書記」によると天智4年(665)2月鬼室福信の功によって小錦下(後代の従五位下)の位階が授けられ、同8年の余自信ほか男女700余人とともに近江国蒲生郡に遷されました。 集斯への小錦下授与は同10年正月条にも「小錦下を以て鬼室集斯に授く〈学歴頭〉」とあって重複していますが、前者は天智の称制元年(662)から、後者はその即位元年(668)から起算したためです。  (阪本太郎・平野邦雄監修『日本古代氏族人名辞典』〔古川弘文館〕より抜粋。) 集斯は渡来早々文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭(ふみのつかさのかみ)」に補せられています。
【住所】 滋賀県蒲生郡日野町小野(コノ)
【交通】 近江鉄道桜川駅から中之郷方面行バス中之郷(停)下車。 徒歩約30分 (車でないと不便)

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 このような 鬼室神社用道標 が 国道307号線大谷交差点 から始り,要所要所に建てられています。


 神社のある小野(コノ)は谷間の小さな集落で,村道は車のすれちがいも難しい。 稲田の中の中央の小さな森が鬼室神社です。 谷の奥に見える山は綿向山(わたむくやま 1,110m),竜王山(826m)等。

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 村道の進行方向(東)に向かって右手に神社があります。 神社への歩道入口左に説明看板が立てられています。(この看板の説明は巻末に付け加えた)
 神社への歩道入口右に鬼室神社石碑があります。 この右手に駐車場(4台程度)もあります。


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 社殿は神楽を上げる舞台らしい<『街道をゆく』より>。 鳥居の下の小石柱の寄進者は滋賀県韓国人商工会です。
 社殿の背後に高さ1mほどの石の神殿<石祠>があります。


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 社殿の裏にある小さな神殿<石祠>は儒礼による墳墓形式のもの。 江戸時代に,儒医西生懐忠が苦心の末解読した刻文は (右)庶孫美成造 (正面)鬼室集斯 (左)朱鳥三年戊子十一月八日没 とあったとのこと__『街道をゆく』より

観光ガイド滋賀県日野町へ http://www.biwa.ne.jp/~hino-to/ に日本語の説明文と韓国語説明文がある。敢えて韓國語文を日本語に直訳すると以下のようになる。

鬼室神社
近江朝廷が大津に 都を(王宮として)定めた頃、現在の韓國、当時の百済國からわが國へ渡来した多数の渡来人の中の優秀な文化人であった鬼室集斯という高官の墓がこの神社の本殿裏の石祠< seog-sa>に祀られて(座祀< jwa-sa>されて)いるために,この神社の社名がつくられた。
 昔は不動堂と言い小野(コノ)村の西の宮として江戸時代まで崇敬された神社であり,小野の宮座である室徒たち(室徒株)の力により護持されている。
 また 今日では鬼室集斯の父親,福信(フクシン)将軍が大韓民國忠清南道扶餘郡恩山面の恩山別神堂に祀られて(座祀< seog-sa>されて)いることから,姉妹都市としての交流が盛んになっている。



石塔寺(いしどうじ)三重塔
 
石塔寺の三重塔(国宝阿育王塔)は様式・手法などから奈良時代前期の造立とみられ,この地に移住してきた百済の渡来人との関連があると推測されています。 塔は花崗岩製で,塔身は初層が二石,二、三重は一石とし,三重の塔身には小さい方形孔を掘ってあります。 屋根勾配はゆるくむくり,軒反りはゆるやかで軒口を造ります。 相輪は後補のものです。 この塔は各重の逓減が大きく,総高さが7.6m余りの壮大な層塔で,現存の石造層塔としては最大で最古の遺品です。
寺伝によれば次のような由来が残されています:釈迦入滅一百年後,印度の阿育王(アショカオウ)が八万四千の舎利塔を造り世界に撒き給う。 日本に二基来るうち一基は琵琶湖水中に,一基は当山中に埋まれり,然るに平安中期,比叡山の僧寂照法師,入唐し五台山清涼寺にて修行中,唐僧よりこのことを聞き,日本に知らせたり。・・・・・・・・時の帝一乗天皇に奏するに・・・・・・・・帝勅平恒昌をつかわし・・・・・・・・発掘せしに,大塔出現したり,云々と。
この塔が縁となって,大韓民国 忠清南道扶餘郡場岩面と姉妹都市のつきあいが始まりました。 石塔寺は「本朝高僧伝」によると聖徳太子によって建立されたと伝えられます。しかし応仁の乱,織田信長の元亀の兵火等に罹り,伽藍文献等を焼失し,八十余坊を数える末坊等も僅かに小字名等に残るばかりです。
【住所】 滋賀県蒲生郡蒲生町大字石塔
【交通】 東名高速道路八日市ICを出て南へ6km
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 村を貫く本来の参道。 今は町並みを迂回する広い道路を経て,自動車で直接,寺の横の駐車場へ入ることができます。
 正面の長い石段を登りつめたところが平地になっていて,石塔群があります。 石塔寺本堂は石段下の右手にあります。

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 おりしも激しいにわか雨が降った直後で,熱くなった石から水蒸気が立ち昇っています。
 三重塔の右奥に無数の,形も様々な石佛がびっしり並んでいます。


−−キーワード=蒲生氏の出身地,佛教文化,百済人,日野商人,蒲生(がもう)=古代の鴨(加茂)族<出雲系>?−−

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