2016年12月4日礼拝説教要旨 説教『秘められた計画』 ローマの信徒への手紙16章25~27節 先日、教会の子どもたちと映画を見ました。「サイモン・バーチ」というアメリカの映画で、主人公は生まれつき体に障害を持つ少年です。彼はまじめなクリスチャンですが、破廉恥な事件を引き起こしたり、教会の神父に盾突いたり、どちらというとやんちゃな少年です。障害ゆえに、身体的には身長が極端に低く、運動能力も低く、障害を持つために親からも見放されていた彼は、ずっと自分が生まれてきた意味を探していました。自分だけに与えられた、神様のプランがあるに違いない。でもそれが何かわからない。そんな悶々とした日々と過ごしていました。 あるとき、教会の子どもたちと冬のキャンプに出掛けました。帰りのバスで、大きな事故が起こってしまいます。そこで、彼はその体の小ささを生かして、狭いバスの中から、たくさんの子どもたちの命を救うことができました。彼でなければ、助けられない子どもたちがたくさんいました。そのとき彼は、それが自分に与えられた神様の計画だと気づいたのです。 映画の中の話ですが、このストーリーは、聖書の重要な思想と共通する部分があります。大切な計画は、あるときまで隠されている、ということです。そういった考えをギリシア語でミュステーリオンといい、人間の言葉では説明がつかない神の摂理のことをいいます。神様が人を救い出す、というご計画は、神の領域に属することですので、人の言葉や常識では説明できないものだ、というのです。 しかし一部の人間には、それが前もって知らされることがあります。その一人が洗礼者ヨハネです。福音書によりますと、洗礼者ヨハネはかつて預言者イザヤが語った「荒れ野の道をととのえよ」という御言葉を、救い主を迎えるための使命として受け止めました。神の隠されていた計画が今や実現する。その備えをしなければならない。そのように信じていたのです。そして実際に、彼のところから、イエス・キリストの活動が開始され、ミュステーリオンの内容が世界に対して明らかにされていったのでした。 その計画の結実が、十字架と復活でした。あれほどはっきりと、世の人々に告知されうるしるしがあるでしょうか。多くの人々の前で、キリストは処刑されました。そのことによって人の罪が代理的に罰せられ、なんぴとも救われていくという、「神の救い」の動かしがたいしるしです。主は三日後に復活なさいました。この出来事もまた、すべての人々に永遠の命を与えるという、これ以上ないほどはっきりとしたしるしでした。こうして、ずっと長い間隠されていたミュステーリオンが、キリスト・イエスにおいて開かれることになったのです。 新約聖書のミュステーリオンについては、もう一つ見ていかなければならないところがあります。ローマの信徒への手紙11章25~26節を読みます。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」。もともと神を信じていたユダヤ人たちが、主イエスを十字架につけ、キリストを信じる人たちを迫害したが、そのことによって実はキリストの福音が世界に広まっていく。そのとき、迫害したユダヤ人は信仰に立ち返る。パウロは、そのようなビジョンの中にミュステーリオンを見ていました。 神の秘められた計画というは、マイナスをプラスに変える、不思議な力があるのです。主イエスの場合、神の子の死という出来事が、罪の赦し、そして復活の命というプラスにつながっていきました。先ほどの映画の話で言えば、障害をもって生まれた、ということが、その体を活かして他者の命を救う、ということにつながったのです。 わたしたちの人生に起こる、マイナスだと思えるあらゆる出来事も、ミュステーリオンというフィルターを通してみると、まったく違う意味を持つかもしれないのです。その人には、その人にしかできない業がある。その苦しみを負った者でしか、共感できないつらさがある。その経験をした人にしか、語れない言葉がある。それはわたしたち人間の尺度でははかれないことです。神様がその人にだけ用意なさった計画です。 わたしたちには一人一人、何かの秘儀が与えられているはずです。今はわからないかもしれない。でもそれはいつか必ず明らかになる。それを信じるのが信仰です。わたしたち一人一人が、神様の用いられる、生ける道具であるように祈り続けたいと思います。
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