2016612礼拝説教要旨

説教『十字架は敵意を破壊する』

エフェソの信徒への手紙21122

 旧約聖書の律法は248の義務と365の禁止、合計613の項目から成っている、といわれます。今日の聖書にもあるように、それは「がんじがらめの戒律」であり、人々はそのことで苦しめられていました。そのような縛りの中にある人々のために、キリストが十字架にかかり、罪の赦しという新しい契約、新しい律法をもたらしてくださいました。

 しかし主による新しい律法も、実を言うと、決して簡単なことではありません。マタイ5章では、主は「ファリサイ派以上の義を求めよ」といわれます。義というのは正しさということです。たとえば「あなたの隣人、あなたの敵を愛せよ」と主は言われますが、これはある意味で旧約聖書のどの戒律よりも厳しいものです。実現が困難なのです。でも「どうせ無理だからこの程度でいいや」といって、隣人愛に生きる信仰を勝手に低く設定してはいけないと思うのです。なぜならば、わたしたちはすでに究極の隣人愛である、主の十字架によってとらえられ、救いの命を受けているからです。この主の十字架を無意味なものにしないために、わたしたちは高い心を持って、新しい律法を守らねばならないのです。

 この問題は、例えるなら高校の野球部に似ていると思います。高校野球部の球児たちに「目標は?」と聞くと多くの場合、「甲子園で優勝!」という答えが返ってきます。けれども硬式野球部は全国で3000校以上あり、実際は難しいと本人たちもよく知っています。それでも、内面の思いだけは純粋に優勝だけを追い求めようとするのです。それが美しいのです。どうせ優勝できないから「僕らはこの辺でいいや」という練習の仕方をしていたら、そのチームは強くなれるでしょうか。その野球部に所属している以上は、たとえ現実は遠くても、内側ではひたすら優勝に向かって進んでいるからこそ、強くなれるのです。

 隣人愛、敵愛の精神も同じです。確かにそれらの実現は大変困難ですが、だからといってあきらめるのでなく、キリストによって神の子とされた者、神の国に所属する者として、心を高く上げて進んでいきたいと思うのです。

 当時の異邦世界に教会ができ始めたころ、教会内部で深刻な対立がありました。ギリシア系のグループとユダヤ系のグループが、お互いに敵意むき出しで、相手を裁いていたのです。多くの人が躓いてしまいました。今日の手紙は、そのような人たちに向けて書かれました。エフェソの信徒の手紙の著者は、キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と語ります。

キリストの十字架は、究極の義、究極の隣人愛、そして究極の敵愛です。これに照らせば、どの人間も、不義と、不信仰と、エゴイズムに満ちている、と言わざるを得ません。互いに裁き合っていたギリシアグループ、ユダヤグループも、結局は神からご覧になればどちらも本質的には罪人の集まりに過ぎず、本来は裁かれるべき存在です。けれども、キリストが十字架において、どちらの人たちも救ってくださったのです。「あなたのためにも」「わたしのためにも」キリストは十字架で死んでくださったのです。どんな罪人も分け隔てなくキリストに愛されているのです。そこでわたしたちと敵との間にある壁が意味を失うのです。ですから、「お前が悪い」といがみ合うことは、まったく無意味です。この尊い十字架の愛から、わたしたちは真の隣人愛に向かって歩み始めるのです。キリストの十字架が我々を相対化します。

たとえ実現が困難だとしても、高校球児がいつも甲子園優勝ということを頭の片隅に置いているように、我々もまたキリストの十字架ということをいつも忘れずに、隣人愛(ひいては敵愛)に生きるということを心掛けなければいけないのです。

 2122節を読みます。「キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです」。キリストの愛に比べれば、本当に小さなわたしたちが、この教会や、神の国を建設していく一枝となるのです。キリストが要石として、わたしたちの教会を組み上げてくださるのです。主が、十字架によってとらえ、生かし、用いてくださる一つの枝として、これからも歩んで参りましょう。


トップページ