201627礼拝説教要旨

説教『小さき者の働き』

ヨハネによる福音書6115

 主イエスは、ガリラヤ湖におられました。人々がその後に続いていました。数は5000人とありますが、これは男性だけの数ですから、実態にはもっと多くの人がいたと思います。そのような大勢の人々が主に従っていたのは、数々の癒しにおいて神の御力を見たからであり、そこに新しい救いの時代を感じたからだと思います。

 主は、ガリラヤ湖周辺の小高い山に登られました。そして弟子のフィリポにこういわれました。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。フィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と、極めて現実的、この世的な答えをしました。

 200デナリオンというと、ざっと200万円分です。仮に5000人で割ると1人400円。そこには女性も子どももいましたから、倍の10000人だと200円。確かに200円ではあまりお腹一杯にならない気がします。きっとフィリポも、そうした現実的な計算をしたのでしょう。目の前に一万人規模の大群衆がいて、何かを求めて主に従っている、という状況において、とっさに現実的な思考になってしまうのも無理はない気がします。

サタンの誘惑のとき、人はパンだけで生きるのではない、と主はいわれましたが、「だけでない」には、肉のパンも生きるのに必要だ、という意味も含まれています。

わたしたちもそうですし、教会もそうですが、この世の部分と霊的な部分と二重性があるのです。霊的な部分ばかりが強調されると、わたしたちは現実離れし、ただ精神論ばかりを追い求め、究極的にはカルト宗教みたいになってしまうかもしれません。反対に世俗の部分ばかりだと、教会は教会であることを失い、フィリポのように、ただパンのために必要なお金はいくらかと考えるだけの集団になってしまいます。しっかりとこの世の現実を生き、その問題に向き合いながら、霊的にはキリストと繋がっていて、神様から命のパンを今日も受けているのだという喜びに満たされていたいと思うのです。

さて、ペトロの兄弟アンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます」といって、一人の少年を紹介しました。アンデレはフィリポと違い、主イエスなら何かをなさるかもしれない、という期待を持っていたのかもしれません。だからこそ、その少年を紹介したのです。でも彼の信仰はそこで止まっていました。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と思ってしまったのです。現実ばかりを見つめて、主イエスが神の御子であることを信じきれない人の姿を現しています。

むしろ際立つのは少年の存在です。おそらくこの少年は、自分が持ってきた弁当を「イエス様使ってください」と申し出たのでしょう。そうでなければアンデレが「お前の弁当を出してくれ」といったことになります。でも、それは違うでしょう。みんなお腹が空いていたのです。少年は、我慢して「ぜひイエス様使ってください」といったに違いありません。

「少年」というのは、ユダヤの世界ではまだまだ半人前です。ちゃんと社会生活を送り、律法を守れるようになって初めてユダヤ人として認められます。この少年と訳されたギリシア語パイダリオンは、一般的な「少年」の意味に加えてさらに「小さな」というニュアンスが含まれていて、英語の聖書でもa little boyと訳されています。ユダヤ社会では取るに足らない、「小さな」この少年だけが、この場所で唯一主イエスのことを信じ「どうぞこのパンと魚を使ってください」と申し出たのです。そしてそのことがきっかけとなって、数千もの人の眼前で、神の御業が示されたのです。

永遠の命に通じる、いつまでもなくならない命のパンが分けられる。この大いなる御業は、小さな一人の少年の信仰から始まりました。彼は誰よりも小さかったけれども、その働きは誰よりも大きいものでした。

わたしたちもまた、小さな一人に過ぎません。けれども、わたしたちに託されている期待も、なしうる働きも、決して小さくはないのです。主のために勇気をもって、わたしをお用いください、といって立ち上がる人間になろうではありませんか。主は「小さき者の働き」を豊かに祝してくださり、何十倍にも、何百倍にも、いやもっと大きくしてくださるのです。そのことをいつも信じて主に向かって立ち上がるものでありたいと思います。

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