2015104礼拝説教要旨

説教『弱き者に寄り添う心』

フィレモンへの手紙820

 フィレモンへの手紙は、新約聖書のなかでも特に変わった書物です。最も短く、内容も一点に集中しています。それは、オネシモという一人の奴隷を赦してやってくれ、ということでした。当時、コロサイ教会の中心的な信徒だったフィレモンに奴隷として雇われていたオネシモは、そこから逃げ出し、当時、牢屋に収監されていたパウロを訪ねます。しばらくしてパウロは、フィレモンに、どうかオネシモ赦してやってくれ、とこの手紙を書いたのです。

 なぜこんな個人的な、ローカルな話題が新約聖書27巻の一つに納められているのでしょうか。そこには罪の問題、囚われていた者の解放、すなわち救いの問題、さらには教会は弱い立場に追い込まれた人をどのように見るのか、という隣人愛もテーマとして含んでおり、教会がいつも考えていなければならない事柄だったからです。

 それにしても、オネシモはなぜフィレモンの所から逃げ出したのでしょうか。一つ言えることは、彼はただ単に自由になりたくて、脱走したのではない、ということです。もしそうなら、パウロの所に行った時点で足が付き、連れ戻される可能性があるからです。むしろ、彼が逃げたのは、パウロのところでキリストの福音について確かめたいことがあったからです。

 おそらくオネシモは、フィレモンに付いて教会に出入りしているうちに、「奴隷も自由人もなく、ユダヤ人も異邦人もない」という福音に触れたものと思われます。あらゆる身分、出身、人種、職業、などの区別はキリストの前に意味がなくなる。なぜならばすべての人間が罪人だからだ。そのよう福音的命題について、パウロに直接聞きたかったのではないでしょうか。そしてオネシモは脱走後、パウロから教えを受けて、いよいよキリストの救いを確信して生きる者になったのです。

パウロは10節で、オネシモのことを「監禁中にもうけたわたしの子」といっています。彼は立派なクリスチャンです。パウロにしてみれば、とてもかわいい、子どもみたいなものであり、同時に福音を分かち合う、主にある兄弟です。彼をずっと手元に置いておくことも考えましたが、どうしても一つの事が気になって仕方ありませんでした。それは、オネシモが逃亡奴隷であり、この世の制度上ではいまだにフィレモンの奴隷のままである、ということです。18節によれば、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら」とあります。霊的な意味では、クリスチャンとなり、罪の奴隷から解放されたオネシモですが、やはり現実世界で主人のところから逃げ出したまま、というのは、パウロもすっきりしなかったのではないでしょうか。

 パウロはフィレモンのもとにオネシモを送り、きちんと赦してもらうことを望みました。もちろん殺されてしまう可能性もあります。でもパウロは、クリスチャンとしての信仰を持つフィレモンを信じました。パウロは、あえて神学的議論をせずに、現実的・実践的な願いだけを書きました。ローマ、コリント、ガラテヤなどが神学的、論理的なことを中心に書かれているとすれば、ここはまさに実践を受け持つ書です。やはり聖書には両方必要なのです。パウロは、フィレモンを信頼して、理念ではなく実践を行ってくれることを期待したのです。

 結果はどうなったのか。皆さんはどう思いますか。聖書のどこにも結果は書いてありません。

 角度を変えて考えてみましょう。この手紙は、当時コロサイだけでなく、付近の教会で回し読みされたと考えられています。だとすれば、コロサイ教会に戻ったオネシモが殺されたり、教会から追放されたとしたら、この手紙が今のように聖書の一つとして残されていたでしょうか。そうではなく、彼がフィレモンに赦され、コロサイ教会の仲間に受け入れられたという事実があったから、これこそが神の福音を真実に語るものだ、として受け継がれていったのではないでしょうか。

 キリストは徹頭徹尾、弱き者に寄り添われました。我々もまた、その弱き者の一人です。だとすれば、我々は、ああよかった、キリストが救ってくれた、では済まないのではないでしょうか。今度は、我々が自分の周りにいる人々を、どのように見つめていけばいいのか、何をしていけばいいのか、それを今日の聖書から教えられるのではないでしょうか。我々は、聖書の論理や概念の所だけを読んで、お腹いっぱいになってはいけないのです。

 

静岡一番町教会

牧師 兼清啓司

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