2015年7月5礼拝説教要旨 説教『まだ生きている』 使徒言行録20章7〜12節 パウロがトロアスという港町にやってきて、人々に説教をしていました。場所は三階建ての建物で、時間は夜でした。8節によれば、たくさんのともし灯がともっていた、ということですから、大勢の人が熱心にパウロの説教を聞いていたことがわかります。 問題は、そのときの説教の時間です。聖書によりますと、この時の説教は夜中まで続いたようです。少なく見積もっても5〜6時間くらいは説教をしていたと思います。するとエウティコという青年が、腰かけていた三階の窓から落ちてしまいました。9節には「パウロの話が長々と続いたので、ひどく眠気を催し」とあり、パウロの説教が長かったので、エウティコは眠ってしまった、と読めます。本当にそうでしょうか。もしパウロの説教が、眠ってしまうほどつまらない、内容の乏しいものだったとしたら、そもそもこんな一晩中のつまらない話を聞きに、誰も行かないと思います。エウティコは3階の窓に腰かけていましたが、窓辺に座らなければならないほど、多くの人であふれかえっていた、ということを意味します。パウロの説教はやはり熱を帯びたものだったと思います。 トロアスというのは大きな港町で、いわゆる港湾労働者たちがたくさん住んでいた地域です。あくまでも想像ですが、エウティコがそういった港で働く肉体労働者だった可能性もあります。一日働いて本当は家に帰って眠りたいのに、わざわざ三階建ての集会所に赴き、パウロの話を聞きに行ったのです。その場にいた、入りきらないほどの聴衆も同じ気持ちでした。聞きに行くだけのものを感じるから聞きに行くのです。その場にいた者は皆、夜中になっても真剣にパウロの話を聞いていたのでした。 どんなに福音に満ちたすばらしい御言葉が語られていても、残念ながら人はしばしば寝てしまいます。肉体が弱いからです。我々はしばしば信仰が要求する事柄を肉体が応えられない、ということを経験します。それは単に礼拝中に寝てしまうということだけでなく、現実として我々はそういう弱さを引きずって、この場所に来ている、ということです。 ゲッセマネの祈りの時、主イエスが血のごとき汗を滴らせつつ、一生懸命祈っておられるときに、ペトロたちは寝てしまいました。そのとき、主イエスは「起きていなさい」とは言われましたが、叱責はされませんでした。ましてや、そのことで彼らを裁いたりはなさいませんでした。 そういう意味からすると、今日の話でエウティコが窓から落ちて死んでしまったのは、彼の信仰的な弱さを示しているのではなく、神の御言葉に与りながらも、肉の弱さに死んでしまう、我々罪人のそのままの姿を示しているといえます。つまり彼の姿は、説教後にすっかり神から離れて自分勝手な生活をしてしまう、肉の弱さに死んだ我々の姿なのです。神の御言葉の前にありながらも、その御言葉に目をつぶり神に向かう命を失ってしまう我々のことなのです。 エウティコが地面に落下したとき、パウロは説教を中断して彼のところへ行きました。そして彼の上にかがみこんで、こういいました。「騒ぐな。まだ生きている」。肉体の弱さを持ち、罪の中に死んだようになってしまった我々も、「まだ死んでない。生きている」と聖書はいうのです。自分の罪深さ、弱さを発見し、どうしようもなく首をうなだれている者であったとしても、この御言葉によってもう一度命を吹き込まれるのです。 エウティコは、パウロのその宣言において生き返りました。そしてもう二度と眠ることはありませんでした。彼は霊的に覚醒したのです。 世の旅路に疲れ、自分の弱さに打ちひしがれて「もう死んだ」と思うとき、「まだ生きている」と語る聖書の御言葉と聖餐によって、もう一度力強く立っていきたいと思います。
日本キリスト教団 静岡一番町教会
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