2015621礼拝説教要旨

説教『まことの主と出会う』

使徒言行録82637

今日の聖書には、エチオピアの宦官という珍しい人物が登場します。当時のエチオピアはアクスム王朝が栄えており、経済力や文化も進んでいました。宦官というのは、去勢をして宮中で働く男の人を言いますが、その国の中では相当に高い地位を与えられます。彼はその意味で成功者でした。

そんな宦官ですが、彼は異国人でありながらエルサレムの礼拝に出て、国に帰る途中でした。当時エチオピアには、ユダヤ教徒がたくさん住んでおり、彼らの周辺には外国人だけれども神を信じる人々がいたようです。おそらく彼もその一人でした。しかし彼が遠いエルサレムまで礼拝に出かけたのには、特別な理由があると思うのです。イザヤ書の564~5節には「宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの契約を堅く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」とあります。宦官であっても、神の民として生きようとすれば、救いを得られる、と書かれているのです。これはわたしの想像に過ぎませんが、この宦官は自分が選んだ道が本当に正しかったのかどうか、悩みながら生きていたのではないでしょうか。いかに人生の成功者といえども、家族がなく、子どももいない状況にあっては、やはり、いろいろと考えるところはあっただろうと思います。もしかすると自分が死んだら、誰からも忘れ去られてしまうのではないか。そういう不安や孤独を感じていたかもしれません。彼がこのとき読んでいた聖書がイザヤ書だった、ということは決して偶然ではなく、彼の不安や悩みの現れであるように思うのです。

そんな彼と、今日、聖霊の導きによって彼を追いかけてきたフィリポが、決定的な出会いを果たします。そのときに読んでいた聖書はイザヤ書53章でした。この個所は、屠り場に連れて行かれる小羊のように、沈黙の中に苦しんで死ぬ、神の義人について書かれた個所です。そしてイザヤ書はこの義人によって、罪深い者が救われていく、という福音も語っています。エチオピアの宦官は、その福音を100%理解していたわけではありませんが、少なくともこの義人が自分の人生と救いにとって関係がある、ということだけは分かっていたのではないかと思うのです。彼はイザヤ書56章の「宦官の救い」という問題にとどまらず、53章における「人の救い」にかかわることについて、大きな関心を持って聖書を読んでいたのです。

しかしどうしてもわからないのが、人々の犠牲となって苦しむ神の義人が、誰なのか、ということです。それまでのユダヤ教の歴史には、イザヤ書53章に該当する「神の義人」は出ていません。こればかりは、旧約聖書を100回読んだってわかりません。なぜなら、この個所は、イエス・キリストのことを預言する個所だったからです。

フィリポは、そのことを宦官に丁寧に説明しました。まさにイエス・キリストが身代わりとなって我々の苦しみと裁きを負って下さったこと、それによって我々が罪赦されて、天に帰ることができること、そして、この福音を信じて生きる者には、洗礼を受けて神の子となる道が用意されていることを伝えました。宦官はそこで完全に福音に目覚めます。するとそこで、水のある場所に出くわしました。宦官は「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」といって、洗礼を受けました。

これまで、宦官はカンダケという女王に、自分を無にしてすべてをささげてきましたが、いまや、このわたしのために一切を捨てて無となられた救い主がおられることを知りました。彼は、この世の理(ことわり)では考えられない、深い神の真理を知りました。そして、本当に仕えるべき、まことの主人がおられる、ということを知ったのです。

この世では、会社があり、上司があり、地域社会があり、学校があり、家庭があり、それぞれ上下の関係によって成り立っている部分があります。時代や場所が変われば、人間が神格化されることもあります。けれどもそうした世界から離れて教会は、この礼拝という場所は、ただひたすら、救いを給うキリストと、命の創造主である天の御神のみを崇めるところでなければいけないのです。忙しくて、様々な事柄に心悩まされるわたしたちであるからこそ、週に一度のこの礼拝において、たった一人の、そしてまことの主に心からの礼拝をささげたいと思うのです。


日本キリスト教団 静岡一番町教会
牧師 兼清啓司

トップページ