201553礼拝説教要旨

説教『命を横たえる』

ヨハネによる福音書151217


 教区通信の書評を書くために、現在ボンヘッファーについての本を読んでおります。ボンヘッファーはドイツを代表する神学者ですが、ヒトラーとナチズムを明確に批判し、さらには抵抗運動に参加したことでも知られます。彼が批判したのは政府だけではありません。この暴挙を許し、かつときに後押しさえしていた当時の教会についても痛烈に批判したのでした。ボンヘッファーは1943年、反政府活動のため逮捕され、ドイツ敗北の3週間前、194549日に処刑されました。

彼が残した神学的思索や論文は数多くありますが、どれも底でつながっています。それは「神と救い主であるキリストに服従する」ということです。有名な「信じる者のみが服従し、服従する者のみが信じる」という言葉が残されています。信仰と服従は切って離せません。また彼は服従を論じるとき、しばしば「安価な恵み」と「高価な恵み」という言葉を用いて説明しました。安価な恵みによる生とは、神に愛されているという前提に留まる生き方です。わたしは愛されています、救われています、と認識さえしていれば、あとの信仰生活に何も変化がなくても、神は赦して下さるだろう、という考え方です。そういう行き過ぎた信仰義認が蔓延していると彼は主張したのです。

そうではなく、命をかけてキリストはわたしたちを救って下さったのだから、わたしたちも命がけでキリストに服従しなければならない、とボンヘッファーはいいます。

その服従の仕方はいろいろありますが、特に当時のドイツにおける服従とは、国家を揺るがすナチズムに服従するのか、それともこれに抗うため、神に従って立ち上がるのか、ということでした。そして彼自身、神に対して服従することの意味を、ヒトラーに抗うという行動で自ら形にしたのです。

安価な恵み、つまり約束された神の愛と恵みにあぐらをかいてしまうときに、わたしたちは神と隣人への眼差しが閉ざされます。神の独り子がわたしのために死なれた、という値高い恵みを、そうした安価な恵みで終わらせずに本当の意味で内在化するときに、わたしたちはキリストによって、神に対して服従し、隣人に向かって自由に命が開かれていくのです。

このような、値高い神の愛を形にするとき、その人の生き方が犠牲的な他者愛に向かっていくのは、申し上げるまでもなく、キリストに従っているからです。主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」といわれました。そして、自らそのように実行されました。神から愛されている、という一つの前提を、永遠に消すことのできない結果とするために、主イエスは十字架にかかられたのです。それが高価な恵みです。

ボンヘッファーがいう真のクリスチャンの生き方とは、このキリストに服従する、ということなのであり、この高価な恵みを、神と隣人に対して明らかにしていく、というのです。

ではどうすればいいのでしょうか。わたしたちは「どうせわたしなど・・・」と誰もが自分の弱さや愛のなさに悩みます。しかしながら自分の弱さを勝手に前提化することは、神に愛された自分を捨て、安価な恵みに走ってしまうことを意味します。まずキリストを信じて、神の愛を他者への愛として形にするために、一つ高い道を選択してみる。そこに神の御心にかなった結果が示されるのではないでしょうか。

今日の13節に「命を捨てる」という言葉が出て来ましたが「命を捨てる」というのはとてもハードルが高いように思います。これは直訳は「命を横たえる」あるいは「命を置く」です。まさしく主イエスは友として、わたしたち罪人が救われるようにと、自らの命を横たえてくださいました。わたしたちには誰かのために命を捨てるなんてことはできないけれども、キリストにならって、この身と命を置く、ということはできるのではないでしょうか。

人間にとって最後にできることは倒れることです。でも、単に倒れるというよりは、誰かのために身を横たえる、そんな自分でありたいのです。十字架という高価な恵みを忘れず、神に服従し、そしてときがくれば神に向かってこの身を横たえる者でありたいと思います。

 

日本キリスト教団 静岡一番町教会
牧師 兼清啓司

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