201538礼拝説教要旨

説教『自分の十字架を背負う』

ルカによる福音書92127


 よくドラマや小説などで「わたしはこれから十字架を背負って生きていきます」といった言葉を聞いたりします。広辞苑で「十字架を背負う」を引くと「罪の意識や苦しみを身に受け持つ」とありました。でも、主の言われる「十字架を背負う」というのは、「罪の意識や苦しみを身に受け持つ」ということではありません。今日はそのことを考えてみたいと思います。

 主イエスが弟子たちにご自分についてどう思うか、とお尋ねになったとき、弟子たちは「あなたは神の子メシアです」と答えました。これは正しい答えです。けれども、弟子たちはまだ完全に信仰が確立されていたわけではありません。なぜなら、彼らが本当の意味で主に従う弟子となるのは、十字架と復活を経なければならないからです。でも、キリストはそんな弟子たちに真理を語り始められました。それは不完全な弟子たちに対する期待や信頼があったからです。

 主は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」といわれました。「必ず多くの苦しみを受け」「復活することになっている」とあるように、これはもはや神が定められたことであり、後戻りできない救いの歴史であるということです。それは、キリスト教の極めて中心的なことがらです。

 これほどまでに重要なことを不完全な弟子たちに語られた、ということは、主は100%を求めておられない、ということを意味します。主は不完全、不信仰な者でありながらも、我々を召し、生ける神の働きを伝える者としてお用いになってくださるのです。

しかし、いつまでも不完全なまま、不信仰なところにとどまっていいか、という疑問もあります。主イエスは、真に主に従おうとする生き方が、どういうものであるかを教えられました。それが23節以降です。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。「自分を捨てよ」とあります。ここでいう自分というのは、神と隣人を考えない利己的な自分のことです。自分の物語は、自分自身の中で終わる。神も必要ないし、救いも必要ない。そのような神と関係が遮断された、自己完結の人生は、まったく虚しいものです。創造主がわたしたちの命を可能としてくださったこと、そして主イエスが命を捨ててまで救いを与えてくださったことに対して、真に申し訳ないことです。従って、自分を捨てるということは、利己的で傲慢な自分を捨てて、軸足を神に移すということです。

その中で、主は「自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」といわれました。この自分の十字架というのは、冒頭に申し上げたような、自分の犯した罪や一般的な苦しみでは、意味が通じません。これは、神から期待されている、果たすべき使命のことです。実際にこの御言葉を聞いた弟子たちの多くは殉教しました。彼らは主が十字架に付けられた際に、自分の身を守るために利己的な行動を取りました。けれども十字架と復活の後、軸足を自分から神の方へ移し、期待される使命のためにすべてを献げる者となったのです。おそらくそのときに彼らの背中を押したのが、今日の御言葉です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」。

彼ら弟子のような生き方と信仰を、そのまま我々が実践するということはできないかもしれません。時代が違いますし、社会が違います。それでも我々は我々なりに、自分の十字架を見つけていくしかないと思います。

実は、今日読んだルカ福音書には、マタイやマルコにはない表現があります。「日々」十字架を背負う、という御言葉です。一生かけて、人生かけてという大それたことではなく、むしろ一週間、一ヶ月という日常的な生活単位の中で、神の期待される使命を見つけていくことはできると思います。我々が本当の意味で傲慢な自分を捨てることが出来るならば、それが見えてくるはずです。

いつまでも「不完全な自分」の中に居続けるのではなく、より完全な方へ、より神に近い方へ、小さくてもいいから一歩を踏み出したいのです。そんな我々の小さな奉仕と献身が、実は主の十字架とつながっています。

御国の建設のため、主の御心がこの地で成るために、自分を捨て、十字架を背負って、主の御跡に従いたいと思います。


日本キリスト教団 静岡一番町教会
牧師 兼清啓司

トップページ