2014330礼拝説教要旨

説教『雲の中で御言葉を聞く』

マルコによる福音書928

牧師 兼清啓司  

 わたしは山に登る趣味はありませんが、時々ニュースなどで登山やハイキングを楽しんでいる人を見ると、山に登ってみたいなあ、などと思います。「なぜ山に登るのか」と聞かれて「そこに山があるからだ」と答えたのはイギリスの登山家マロリーです。彼がエベレストで遭難したとき、下のベースキャンプから雲の合間に一瞬だけマロリーが見えたそうです。でもすぐまた雲が覆い、それから二度と彼を見ることはありませんでした。山というのは容易に人の命を奪います。やはり下界(この世)とは切り離された特別な場所だということを認識させられます。

聖書にも山に登る話がたくさんあります。有名なのはモーセです。モーセは、シナイ山に登って神から十戒が刻まれた二枚の石版を直接受け取りました。聖書の世界において、なぜ山に登るのか、というと、そこで神と出会い、神の御言葉を聞くから、ということでしょうか。

シナイ山でモーセが神の御言葉を聞いたとき、山は雷鳴がとどろき、厚い雲が覆っていたとあります。そこはもはや神の世界であり、容易に人間は近づくことはできません。ただモーセだけが雲の中に入ることが許されました。神は雲の中からモーセに語りかけ、そこで大切な約束を授けられたのです。

また、今日の新約聖書でも山の話が出てきます。あるとき主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた、とあります。そこで弟子たちはいくつかの不思議な体験をします。

まず、主イエスのお姿が変わり、真っ白に輝きました。白く輝いたというのは神の栄光を表しており、主イエスが人間でありながら本来は天に属する方、光り輝く神の子であるということを示しています。

第二に、彼らはそこでエリヤとモーセに出会っています。エリヤは生きたまま天に上げられた人物です。またモーセについても申命記34章に「誰もその墓を知らない」とありますように、ユダヤ人の間ではまだ生きているという伝承があります。その彼らがやってきたことは、旧約から続く救いの約束が今まさに成就しようとしている、という神のメッセージです。

しかし「弟子たちは非常に恐れいていた」とあります。それはそうです。主のお姿が輝き、モーセとエリヤが登場して話し合っていたとすれば、普通ならとても現実のこととして理解できないでしょう。ペトロは感極まって一種の忘我状態となり、主イエスに「あなたの小屋と、モーセの小屋と、エリヤの小屋を建てましょう」といいました。

そこで雲の中から声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子。これに聞け」。紛れもなく神の御声でした。目の前で起こっている出来事が神のご意思に基づくことである、という決定的な宣言であるとともに、これから起こる出来事(受難と十字架、ならびに弟子たちの苦難)について、心を動かさず、ただキリストにのみ従え、というメッセージです。

わたしたちは、いつもいつも平坦な道を行けるわけではありません。人生の途上で、自分の意志で、あるいは強いられて、高い山に登ります。そこはしばしば厚い雲に覆われ、視界は遮られてゆくべき道を見失います。

しかしそこが神と出会う場所、だとしたらどうでしょう。苦しいとき、見えないときこそ、神の御声は一層力強く響き、心の中にこだまします。その声は、神の愛する御子、イエス・キリストに従うことを求めます。それが希望となり、唯一の道しるべとなります。なぜ山に登るのか。わたしたちの答えは、そこで神と出会うから、です。

マロリーはエベレスト人類初登頂がかかったアタックで命を落としています。彼が人類初のエベレスト登頂を果たしたか、その前に亡くなったかは不明で、いまだに議論が続いています。しかし、ある人はこんなことを言っています。「生きて帰ってこそ登頂だ」。つまり、登山家といえども、山は登ったら降りてこなければ意味がない、というのです。

わたしたちが高い山を登るとき、そこで疲れて死んでしまってはいけないのです。必ず生きてそこから帰ってこなければいけない。登るときも降りるときも、ただ御声に聞き、主に仕える信仰によって歩き続けたいと思います。