2014316礼拝説教要旨

説教『悪との戦い』

エフェソの信徒への手紙61020

牧師 兼清啓司  

 今日読みましたエフェソの信徒への手紙6章には、迫り来る脅威に対して信仰者としてどのように向かい合えばいいのか、ということが書かれています。12節を読みましょう。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」。支配と権威というのは、ユダヤ教指導者やローマ帝国のことを言うのだと思いますが、「悪の諸霊」とある通り、そのような人間的権力集団を背後から操る悪魔的な力にこそ対抗せよ、というのです。

わたしたちが誰かと争いになって、相手を憎い、と思っても、その人間が本当に悪意をもってわたしたちに攻撃を仕掛けているのかどうか、よく考えてみる必要があります。むしろその背後に、わたしたち同士を争いへと駆り立てる悪魔的な何かがあるのではないかと思うのです。

コリントU1123節以降には、パウロが受けた数々の迫害が書かれています。「投獄されたこと、鞭打たれたことは多く、石を投げつけられたり、同胞や異邦人からも苦しみを受けた」。

しばらく前のテレビに「やられたらやり返す」というのが流行りましたが、あれは仕返しすることができない人間が多いから流行るのです。しかしパウロはやり返せないのではなく、神にお任せしているのです。従って彼は、一度たりとも迫害者たちをののしったり、復讐を誓ったり、ということはありませんでした。パウロは敵ではなく、敵の内部にあるもの、あるいは背後にあるものを見据え、これと向き合おうとした、といえます。

13節を読みます。「だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」。

邪悪な日というのは、イエス・キリストの救いが理解されない時代、という意味です。抵抗せよ、とあるように、不正義に対して受け入れたり、妥協したり、という態度は許されません。相手を攻撃して屈服させる、ということでもありません。抵抗する、抗うのです。

これは敵をやっつける、ということとも違います。申命記32章で「わたしが報復する」と神さまがいわれるように、わたしたちの相手が打ち負かされる必要があるとすれば、それは神のなさる業です。それを自分でしなければならないと勘違いするから、争いが起き、戦争が起き、苦しみの連鎖が止まらないのです。

信仰において、戦うのではなく抗うために、神の武具が必要です。実は、神の武具というの防具のことです。14節からかいつまんで読みますが、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」。神の真理、神の正しさ、そして平和の福音が、わたしたちを敵の攻撃から守るのだ、というのです。

わたしたちはいつも自分が正しいと思い、そして相手が間違っていると思います。しかしあのイラク戦争のとき、アメリカ国内のキリスト教会がみんなその戦争に賛成しました。その悪魔的な空気のことを思うと、自分が正しいと思うのではなく、神に向かって何が真理と正義なのかを常に求め、謙虚にわたしは本当に正しいのか、という問いを忘れないことは重要です。神の武具はそういうときに必要なのではないでしょうか。

 聖書は、唯一の武器である霊の剣を取れ、といいます。霊の剣とはこの場合、御言葉であると書かれています。どんなときにも主の霊に満たされて、そして唯一の武器である御言葉を語り続けること。わたしたちにできることはそれしかないのです。それが相手に届くか届かないかは神様しかご存知ありません。でもそれを信じて語り続けるのが、教会の業なのです。

18節から20節にかけて、祈りなさいが2回、祈ってほしいが2回出てきます。そのうち前半の2回は自分のための祈り、そして後の2回は他者のための祈りです。敵を前にしたわたしたちが、真剣に自分のために祈り、真剣に他者のために祈るとき、教会は力強くなり、福音の神秘を大胆に語っていくことができるのです。