201439礼拝説教要旨

説教『主は苦しんでおられる』

ヘブライ人への手紙21418

牧師 兼清啓司  

 ヘブライ人への手紙は新約聖書の中でも一風変わった概念を持っています。それはキリストを大祭司として扱っているところです。大祭司は国の最高責任者でありますが、同時に神と人とを執り成す仲介役でもありました。たとえばヘブライ51節にはこうあります。「大祭司はすべての人間の中から選ばれ、罪のための供え物やいけにえを献げるよう、人々のために神に仕える職」とあります。従って、この手紙でイエス・キリストが大祭司である、というとき、その意味は主イエスは神の権威の実行者であると同時に、人間の代表として救いと赦しを願う仲介者である、というのです。

214節では、キリストは、神の子でありながら、わたしたち人間と同じように血と肉を備えておられる、とあります。それは「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。キリストが人となられたのは、わたしたち罪と死に苦しむ者を救い出すためでした。

人は誰でも死ぬのが怖いです。しかしここでいう死の恐怖というのは、肉体の死のことではなく、罪のゆえに永遠に神との関係が閉ざされてしまうことを言います。神のない世界に永遠にほっぽり出される。それは肉体の死よりも恐ろしいことです。まさに聖書の時代、永遠の神との関係途絶を宣言していたのが実際の大祭司です。大祭司は神に期待される働きとは正反対のことをしていたのです。

そこで神はキリストを真の大祭司としてお遣わしになり、神の義において救いを宣言なさいました。それがヘブライ書のいわんとするところです。しばしばイエスは神ではなく、神の愛をもっともよく表す人間であった、という言い方がなされることがあります。つまり厳密に言えば、イエスは神ではなく、卓越した何かを持つ人間であったという考えです。

そうだとすればキリストの苦しみは虚しいものになってしまいます。17節を読みましょう。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。「すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」という宣言は、キリストが人間になられた、ということを示しています。そしてキリストが人となって苦しまれたのは、わたしたちの罪を贖うためであり、そこから、神の御子はあなたたちのすぐ近く、あなたたちの間におられる方なのですよ、という福音を聞くのです。

もしあの場で死んだ方が神ではなく単なる人間であったなら、一人の人間が最高の隣人愛を示したに過ぎず、罪の赦しは起こりません。ありません。神が御子を世に遣わし、罪なきまま処断されたことにより、永遠に人間の罪が赦されるのです。それ以外に真実なる人間の救いはないのです。

 18節を読みましょう。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 キリストのご受難は、我々罪人の救いのためだけではなく、今弱さのゆえに、あらゆる試練を受けている者への連帯でもあります。もしキリストが、実際の大祭司のように人々から遠い存在であられ、またそこからただ「救われた」と宣言なさるだけなら、本当の意味で人間は救いを確信することが出来なかったでしょう。そうではなく、主がわたしたちと同じ肉体を持たれ、同じように苦しまれ、そしてわたしたちのために死んでくださったからこそ、救いを近いものとして感じることが出来るのです。

 わたしたちは、人生においてしばしば「なぜこんなことになってしまったのか、どうして私だけが苦しむのか」という理不尽な出来事を経験します。この試練にはまったく意味がなくて無駄なものだった、という虚しさも感じます。しかし、キリストは違いました。神が人のために死ぬという究極的な理不尽が、どんな意味を持ち、何ももたらすか、それをご存知の上で、すべてを成し遂げてくださったのです。それを信じながら生きるキリスト者は、自らの身に生じた理不尽にも、なにかの意味がある、そしてその解決のときまで、キリストが共にいてくださるという平安を覚えるのです。

 キリストは苦しんでおられます。わたしたちのために。でもそれがわたしたちに残された希望であり救いです。