2013年7月21日礼拝説教要旨
説教『罪人は招かれる』
マタイによる福音書9章9〜13節
牧師 兼清啓司
主イエスは地上で宣教活動をなさるため、12人の弟子を召されました。そのうちの一人が、今日のマタイです。彼は徴税人でした。徴税人は一般的な労働者より裕福でしたが、ユダヤ人たちからひどく嫌われていました。その理由は不正です。徴税人たちはあらかじめローマから徴税の権利を買って、税金を集めます。その分がすべて自分たちの利益になるので、不正が横行しました。
また、彼らはローマ帝国のために働いたので、「穢れている」として忌み嫌われました。誇り高きユダヤ人たちにとって、神を信じて生きるはずの同胞ユダヤ人が異邦人のために働くことは、律法と神に対する重大な裏切り行為であり、許せませんでした。
ただ、わたしたちはしばしば絵本や紙芝居に出てくるような、徴税人=極悪人、というイメージを持つべきでないと思います。徴税人の多くは、「徴税人の頭」と呼ばれる人間に雇われた下っ端であり、マタイもそうだったといわれます。上司からはハッパをかけられ、人々からは嫌われ、精神的にかなりハードな仕事です。マタイはなぜ、そんな仕事を続けていたのでしょうか。それはやはり経済的な魅力があったからだと思います。本質的な弱さを抱え、それに抗えないで生きている。それはわたしたち人間そのままの姿です。
そんなマタイは主イエスと出会いました。主はマタイに歩み寄り「わたしに従いなさい」と声をかけられました。マタイは「座っていた」と聖書にありますが、座って何をしていたのでしょうか。もし仕事をしていたら、そのことがなにか書かれても良いように思います。たとえばペトロやヨハネたちが召されたときには「網を打っている」「網の手入れをしている」とあり、彼らが仕事中であったことが書かれています。でもそういう記述がなく、ただ座っていた、としか書いてありません。
福音書を読む限り、マタイはただ座っていた、という印象を受けます。人は疲れたとき、座り込みます。このときマタイは疲れており、自分の仕事について、人生について、神様との関係について、座って思いをめぐらせていたのかもしれません。
そのときに主イエスから「わたしに従いなさい」という御声を聞いたのです。そのとき、マタイは自分を縛り付けていた一切のものから解き放たれました。お金という引力や、間違っているかもしれないけどこれでいいのだ、という惰性の力に打ち勝って、主に従う決断をしたのです。彼は主の御言葉によって、昨日までの自分とはまったく違う、新しい人間となったのです。
10節以降の話は、弟子となったマタイの家で、一緒に食事をしていたときの話です。そこには徴税人や罪人と呼ばれる人たちもいました。彼らはマタイと同じように、罪に縛られ、誰からも顧みられることなく、虚しさの中で生きていました。ファリサイ派はこれをみて「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問いただしました。ユダヤ人は食事を神の恵みを分かち合う神聖なときと捉えており、そこに罪人が同席するなど考えられないことでした。主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」といわれました。
従来のユダヤ教的な救済観では、罪人や徴税人たちは救いの対象外でした。「罪人は裁かれる」それが旧約聖書の救済観です。しかし主イエスは新しい救いの世界を示されます。「罪人は招かれる」です。罪人や徴税人たちはわたしたちの代表です。人間性や性格とは関係なく、弱さがあり、不完全であり、悪しき惰性によって生きていた人たちです。そんな人々を主は食卓に招いてくださいました。この食卓に、わたしたちも招かれています。わたしたちは、すべての悪と罪から解き放つ、「従いなさい」という御言葉を聞いたのです。自分の弱さや罪に打ちひしがれて、下を向いているわたしたちの顔を上に神の方へと向けさせる御言葉です。
わたしたちは、今日、その呼びかけと招きに応えたいと思います。そしてマタイのように新しくなった自分を実感して、主のために働く者とされたいと思います。
|