2013年4月28日主日礼拝説教要旨 説教『代価を払って買い取られた』 コリントの信徒への手紙一 6章12〜20節 牧師 兼清啓司 先日の保育園の礼拝では、創世記第一章の話し、アダムとエバが蛇にそそのかされて、善悪を知る木の実を食べた、という話をしました。そのとき、人間は善と悪を知り、争いや殺戮、貧困と経済的搾取を歴史に呼び込むことになったのです。 しかし、わたしは保育園の子どもたちにこういいました。人間が善悪を知る木の実を食べた、ということは、悪いことだけでなく良いことも知ったはずだ。悪いこともできるけど、いいことも出来る。さあ、みんなはどっちを選ぶ?子どもたちは全員が後者のところで首を縦に振っていました。 この世に生まれてから、まだ4年か5年くらいしかたっていない子どもたちですが、神に期待されている良い生き方を、自分たちで選べる、という自由をすでに獲得しています。今日の聖書で使徒パウロが書いていることも、実はそういうことではないかな、と思います。 12節で「わたしたちには、すべてのことが許されている」と二回繰り返されています。これは、パウロがいっていたことではなく、当時のコリントという町においてしばしば見られた「何をしてもいいぞ」という行き過ぎた自由主義のことです。コリントという町は、当時の先端を行くギリシア的な町の代表で、商業的にも成功していました。そのせいもあり、人々の道徳面、特に性的な風紀の面では大きく乱れていたといわれます。その世俗の自由主義が、教会の中にまで侵入していたのです。 かつて、日本の社会が戦争をしろ、アジアを支配しろ、という色に染まっていったとき、その感覚が教会内部にも持ち込まれ、馴染んでしまいました。もちろんすべての牧師や信徒がそうだったわけでは決してありませんが、あちこちの教会で、戦争を肯定する説教がなされた事実を消すことはできません。あるいは、学生紛争の時代、教会でも若者たちがヘルメットをかぶり、礼拝をジャックし、さらには暴力も振るわれたりしました。 コリントの時代と今と、全然状況は違いますけれども、世俗の圧力が教会の壁を越えて内部に侵入する、ということは何も変わっていないのです。 パウロは語ります。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」。わたしたちは、この礼拝堂を出ると、一週間世俗の中に身を置きます。そこでの影響を受けるな、といっても、それは無理な話かもしれません。しかしキリストの福音よりも世俗の価値観を優先させて、自分勝手に振舞うならば、それはキリストの体にふさわしくないことです。世俗に身を置く時間が長く、また影響を受けやすいわたしたちだけに、常に「わたしはキリストの体である、復活の命を受けた者である」という意識を忘れないようにしたいと思うのです。 もう一つ、今日のところでパウロが言うのは「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」ということです。代価を支払って買い取られた、というのは、奴隷を買い取るときのことをいいます。わたしたちが罪というものに縛られ、奴隷状態だったとき、キリストが尊い代価を支払ってわたしたちを買い取り、自由の身にしてくださった、というのです。 わたしたちが神の御前にあって、自分という存在と、その過去を振り返るならば、そこに一人の罪人がいて、罪の支配化にあったことを認めざるを得ません。しかしいまや、キリストにおいてわたしたちは自由なのです。世俗の価値観に浸り、神のことを思わず、罪に身をゆだねて生きることもできる。でも神がお喜びになる、神の栄光を現すよりよい道を選択することもできるのです。それがわたしたちにとって最大の自由であり、最大の喜びです。 「神の栄光のために」。それが、昨年から続く教会形成のテーマです。わたしたちは、小さくても、弱くても、この与えられたこの身において、神の栄光を現したいと思います。わたしたち一人一人が、キリストに連なる枝なのです。精一杯、この世に命ある限り、神のために、すべてをささげて生きていきたいと思います。
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