2012715主日礼拝説教要旨

説教『祈りの生活』

テサロニケの信徒への手紙一51218

牧師 兼清啓司

 

「祈り」は、信仰生活において基本中の基本というべきものです。パウロも「絶えず祈れ」といって教会の信仰者を奨励しています。なぜ祈りがこれほどまでに大切なのか。そして我々は繰り返し祈るのか。それは祈りが、我々にとっていわば呼吸と同じであり、命にかかわる生命維持活動だからです。祈らないと生きていられない。それが祈りです。

 ある学校の子どもたちに「神を信じている人」と質問してみました。ほとんど「いいえ」という答えでした。「では、祈ったことがある人」と質問すると、ほとんどの人が手を挙げました。彼らなりに苦しいことや辛いことがあったのでしょう。祈りは苦難を生きるすべての人に与えられた権利です。しかし、困ったときや苦しいときにだけ祈る、というのでは、祈りがその人の中で本当の力になりません。むしろ苦しくないとき、何もないときにこそ祈る。それでこそ神様との太いパイプができて、本当に苦しいときに、素直に大胆に祈れるし、そこでより大きな励ましを与えられるのです。

では何を祈るのか。それは感謝です。報告ではなく、感謝です。朝起きてから今までの間に、感謝すべきことを数えたら、両手ではきかない。普段からそのような感謝を喜びの中で、神様に祈ることがとても大切です。

 高齢であっても「わたしは健康で何でもできるから」と、ヘルパーも頼まず、自分一人で生活している方がいます。それはそれで素晴らしいことですが、いざ体に何かあったときに、慌てたり、困ったりすることがあるようです。健康で何でもできるけれども、週に一回くらいは・・・ということで、公的介護サービスを利用している人は、いざというとき大変心強いです。同様に、困難がなくても普段から真剣に感謝を祈り続けている人は、きっといざというときにも確かな祈りが出来るのではないでしょうか。

 ある牧師が祈りについて興味深い文章を書いていましたので、紹介いたします。この人は、亀谷凌雲という牧師ですが、波乱に満ちた人生を歩んでおられます。生まれは寺の息子で、仏の道を極めんと、東大の哲学に進んで仏教の猛勉強をします。しかしそこでキリスト教と出会い、大きく影響を受けました。卒業後、金森通倫という救世軍の牧師と出会いました。亀谷青年はいろいろと質問した後、最後に「祈り」について聞きました。亀谷凌雲先生が属しておられた浄土真宗は「祈る」という習慣がなく、かわりに「南無阿弥陀仏」とお経を唱えることで上なき平安と喜びがある、と教えられていたからです。金森牧師は、「君は祈ったことがあるかね」といいました。亀谷青年は「ありません」と答えました。「なら祈ってごらんなさい。祈ればわかりますよ」と金森牧師はいいました。しかしそういわれても、浄土真宗の住職として信仰の篤かった亀谷青年は、まだキリスト教の祈りということがわかりませんでした。

 後日、亀谷青年は、またもや金森牧師を訪ねました。どうしてもキリスト教のことを聞きたいのです。その際、金森牧師は「君、これからは何でも祈るのだよ」といいました。それからの亀谷青年は、理屈抜きでなんでも祈りました。そのころ学校の教師をしていたのですが、授業の前にはよく祈りました。すると祈らない時よりも力が与えられ、生徒への愛も増してくることを感じました。そのほか、なんでもいいから日常のことを祈り続けました。すると生活の中で、祈ることの素晴らしさ、大切さを肌で知るようになったのです。後に、亀谷青年は、聖書が愛読書となり、ついに洗礼を受けクリスチャンとなりました。さらには住職を辞め、牧師として神に仕えたのです。

祈りは力です。祈りは喜びです。祈りは命です。おそらくここにいる多くの人は、聖書とキリストによってすでに祈りの力、素晴らしさを教えられていることでしょう。しかしわたしたちは、もっともっと祈ることができるのではないでしょうか。今日の聖書にあるように「絶えず祈る」「どんなことでも祈る」そういう祈りの生活を一層充実させることにおいて、神様との深い交わりが与えられ、喜びと平安に満たされた人生を送るのです。そして天に召されるときにも、神へのまったき信頼の中で祈りながら、あるいは祈られながら、この世の命尽きるならばこんなに幸せなことはないと思います。これからも祈りの生活を続けてまいりましょう。