2010年10月17日主日礼拝説教要旨
説教『神の刻印』
ヨハネの黙示録7章2〜4節
牧師 兼清啓司
むかし、オーメンという怖い映画があって、ヨハネ黙示録の中の666という数字が出てきます。これは獣の数字であり、悪魔の子には体のどこかにそれが書いてある、という話でした。映画の中で、ダミアンというかわいい男の子が出てくるのですが、彼の頭皮に666の数字があってとても怖かったです。今日は、同じ黙示録でも獣の刻印ではなくて、神の刻印の話です。
ヨハネの黙示録は、最後まで新約聖書に編纂されるかどうか、議論になった書物です。この書物は非常に難解で、変に解釈されて悪用される恐れがある、というのがその理由でした。しかし、黙示文学はある一つの福音的なメッセージを、他のどの書物よりも強烈に伝えています。それは終末が近い、ということです。ヨハネの黙示録を読んでいたグループは、大変な迫害を受けていたことがわかっています。そういう人たちが黙示録を読んで、天変地異が起こり、神の裁きが下る、といったことはなんら恐ろしいことではなく、むしろ新しい水平な世界の訪れを意味していました。それは抑圧され、苦しみあえぐ信仰者たちの、たった一つの希望だったのです。
今日の聖書では、一人の天使が手に生ける神の刻印を持ってやってきます。そしてこう言います。「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない」。「神の僕たち」というのは、クリスチャンのことですが、そのクリスチャンたちの額に神の刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なわれてはならない、つまり神の救いのしるしが一人一人に刻まれてから、終末が来る、というのです。問題はその数です。聖書によれば、その数は14万4千人とあります。現在の地球人口は60億を超えています。14万4千人というのは、少な過ぎないでしょうか。ほとんどの人が救われないのでしょうか。そうではありません。この14万4千人という数字は、完全数ともいわれ、すべての信仰者を満たす数と考えられています。あるいはまた、全クリスチャンの代表としての14万4千人、と理解する人もいます。いずれにせよ、特定の誰かだけを救うのは、神の御心ではないし、この本の中心思想ではありません。
14万4千人の内訳は、イスラエルの12の部族について、それぞれ1万2千人ですが、実は10部族はすでに北イスラエル王国が滅んだときになくなっています。すでに消滅している部族でさえも、世の終わりのときには集められる、ということですから、時間を超えた神の救いの計画が示されています。当然、この手紙が書かれてから2000年後の我々も、その計画の中に入っています。さらには、9節では「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、誰にも数え切れないほどの大群衆」とありますが、これこそ、刻印をされた民のことです。どの時代、どの人でも、神の救いの計画に招かれている、というのです。
ところで、皆さまはダミアンではなく神の子ですから、どこかに神の刻印が押されているはずです。それは、目に見えるところにではなく、見えないところに刻まれています。それは単純に「信仰」かもしれないし、まったく別のものかもしれません。何であれ、救いの約束が、我々のうちに刻み込まれています。その刻印はキリストの十字架と復活において刻まれたものです。このしるしは永遠に消えることがありません。
聖書時代の、一般的な意味での刻印は、たとえば荷物を運ぶときになどにする封印のことをいいます。封印には「この荷物は、目的地に到着するまで、誰にも邪魔されてはいけない、そして無事に送り届けられなければならない」という荷主の気持ちが込められています。我々の場合、荷主は神様です。天に国籍がある我々は、やがて天に帰ります。その我々に刻まれた神の刻印は、どんなことがあっても、必ず天の国に送り届けられる、その約束のしるしなのです。
9節以降、刻印を押された人々は「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と、こぞって神を礼拝しています。我々が刻印を受けたのは、14万4千人に入った、という優越感を得るためではなく、このようなわたしにも救いが与えられた、という感謝をもって礼拝をささげるためです。我々もまた心から感謝の礼拝をささげたいと思います。
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