2010年10月3日主日礼拝説教要旨
説教『神の言葉と力を経験する』
ヘブライ人への手紙6章4〜12節
牧師 兼清啓司
わたしは牧師として奉仕させていただくようになって10年目に入りましたが、この10年というのは、いってみれば失敗の連続でした。信徒の方と、わかりあえないで悩んだことがありました。「先生は困っている時に助けてくれなかった、先生の牧会は全然ダメだ」そういわれたこともありました。わたしはすっかり落ち込んでしまって、しばらく前向きな気持ちになれませんでした。そんなとき、一人の信徒の方が「わたしは先生がいつもいつも訪ねてくださるので、申し訳なくて教会に来るようになったのです、ありがとうございました」といってくださいました。その方が教会に戻って来られたのは家庭の事情だと思っていたので、それを聞いた時にはとても驚きました。しかしもっと驚いたのは、わたしの心が折れていたときに、神様が一人の人を遣わして、わたしを励ましてくださった、ということでした。
牧師に限らず、人間はとかく失敗をしながら生きているようなものです。また、人生が思い通りにうまくいかず、大きなストレスを抱えたりします。そういうときにはネガティブな気持ちに支配されることも多いのですが、たった一つでいいから誰かから認められた、励まされた、という経験があるとしたら、たとえ失敗して落ち込んでもなんとか次頑張ろう、という気持ちになれるものです。
4〜6節をもう一度読みましょう。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。」
「体験する」という言葉がありますが、これはもともと「食べる、味わう」、という動詞です。それは食す対象を内に深く刻むことをいいます。つまり、神様の素晴らしい言葉と、天国の素晴らしい力を、あなた方はすでに食べ、味わっている、というのです。けれども、キリストの恵みを味わい知ったにしては、それらについて鈍感になってしまっている、と著者はいうのです。
ヘブライ人たちは、神様の恵みと救いに対して、ずっと鈍感で無頓着だった、ということができます。創世記から始まって、カインとアベルの話、ノアの箱舟の話、モーセとアロンの話、ダビデの話もそうです。そして主イエスの時代のユダヤ人たち、主イエスに一番近かった弟子たちも、みな差し出された神の愛を十分に理解し得なかった人たちです。イスラエルの歴史は、一方で神様に一生懸命従った人の話ですけれども、一方では神の愛に鈍感な人の話でもあります。それは一人の人間でも同じです。一方では神様に従いたいという信仰豊かな部分と、一方では神様の愛がわからないでいる不完全な、弱いわたしとがいるのです。
しかし、そのようなわたし自身のために、主イエスが神の愛の結実として、示されました。ヘブライ人たち、そしてここにいる我々も、このキリストを通して、神の愛を十分すぎるほどいただいています。求められているのは、この恵みを十分に咀嚼し、味わい、深く記憶することです。神の尊い愛に鈍感に、無頓着にならない自分でいることです。
今日お読みした4節に「一度」とありますように、我々が神の恵みを、そして主イエス・キリストというお方を味わい知るのは、そんなに何回も必要ありません。たった一度でいい。「わたし」という取るに足らない存在を認めて、救ってくださる方、そういう方との出会いは、一回でいいのです。この一回だけの出会いに、我々の人生すべてがかかっています。
気が付けば、ずーっと失敗ばかりの人生だった、そんな人がいるかもしれません。でもそんな我々は、我々の罪を赦し、励ましと慰めを与えてくださるたった一人の救い主と出会いました。どんな人生を送るにせよ、我々の人生のすべてを肯定するのは、主イエス・キリスト、この方以外にはない。我々はこのお方を通じて、神の恵みと愛に無頓着だったあの頃の自分ではなく、神の御言葉と御力を十二分に味わい知る自分へと変えられたのです。そして今、新しい自分としてここにいます。
我々に御言葉を語り続けてくださる主、そして我々に力を与え続けてくださる主イエスのことを覚えて、今週を歩んでまいりましょう。
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