201074主日礼拝説教要旨

説教『割礼を受けない勇気』

ガラテヤの信徒への手紙5章2〜11節

牧師 兼清啓司

 我々は、それぞれにアイデンティティというものを持っています。それは例えば日本人である、インドネシア人である、というように、所属に関しての自己認識をいうことがあります。またアイデンティティは心理学の世界では、本質的自己規定というそうです。今の例でいえば、外国で暮らすようになった日本人は、しばしば日本人として生きるとはどういうことか、あるいは日系二世三世などは、なぜわたしは日本人なのか、といったきわめて本質論的な問いを持たざるを得なくなります。このように、アイデンティティというものは、きわめて本質的で、また帰属的であるわけですが、聖書のユダヤ人はそういう意味では、非常にアイデンティティが強い人たちです。彼らは常にローマやペルシャ、エジプトからの脅威と圧迫に曝されていたため、誰よりも神の民であるという帰属意識を持たざるを得ませんでした。また、そのような状況においては、ユダヤ人とはどういう民族なのか、ユダヤ人として生きるとはどういうことか、という本質を問い続ける必要がありました。

 彼らはユダヤ人としてのアイデンティティをどうやって保持していたのでしょうか。それは、とにもかくにも律法の遵守です。とりわけ、アブラハム以降すべての男性が守ってきた割礼という儀式は、律法の中でも最重要項目とされました。しかし律法の本質ははそうした形だけの部分ではなく、主イエスもパウロも指摘するように「神を愛し、隣人を愛す」ところにあります。ところが時代がすすむにつれて、律法からその本質が失われ、神の民であることの特権、あるいは救いの条件とった側面で捉えられるようになっていきました。

さて聖書はキリスト教の時代になりました。そのころ問題となったのが割礼はキリスト教にとって必要なのか必要でないのか、ということでした。元ユダヤ教だったクリスチャンたちは、割礼は必要だと考えていたし、実際受けていました。これに対してヘレニズムの空気を吸った新しいタイプのクリスチャンは、そんな表面的なもの必要ないと考えました。同じクリスチャンであっても、割礼に対する意見が分かれたのです。

そのため教会は混乱に陥っていました。7節「いったいだれが邪魔をして真理に従わせないようにしたのですか」とありますが、洗礼を受ける人に向かって、「あなたは割礼も一緒に施さねばならない」と迫るユダヤ主義者がいたことを示しています。さらに8節で「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」とありますが、そうした声が教会全体に一定の影響を与えていたことを示しています。

それゆえにパウロは4節で「律法(割礼)によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みを失います」と、はっきりと割礼など必要ないと述べています。すなわち割礼ではなく、キリストが十字架にかかり、我々の罪を赦し、永遠の命を賜ってくださったその出来事こそが、我々が義とされ、救われていることのしるしである、だから「割礼を受けない勇気を持て」とパウロはいうのです。

 我々の信仰生活のなかで、しばしば今日の出来事とよく似たことを経験します。本質でないことが、あたかも本質であるかのように受け取られて、それが当たり前になっていく。あちらこちらから、さあ割礼を受けよ、といわれているような圧迫を感じます。そのときこそ、本質を見失しなわず、割礼を振り払う勇気をもたねばならないのです。何がわたしを規定し、この位置に立たしめるのか。それはこの世の割礼ではなく、キリストの尊い犠牲によって打ち立てられた十字架です。十字架こそがこの世のあらゆる束縛、あらゆる規定を超えて、我々を本質的に定めるのです

従って我々がキリストの十字架にアイデンティティを持ちうるのであれば、それは選民としての特権意識を持つことではなく、神への愛と他者への愛に生きる、信仰者としての本質的な姿に戻されていくことなのではないでしょうか。

 この世のさまざまな雑事、圧力、不安に姿を変えて迫りくる割礼というものを退け、ただ主の十字架のみを受け入れる勇気、これを持ち続けたいと思います。そして自分が自分であるために、今日もこの十字架を高く掲げていたいと思います。