関口流抜刀術・業の特徴 その1 トップページ目次に戻る
 関口流抜刀術は関口流として駿河の国で起こり、駿州(静岡県)島田刀工の太刀で豪壮
且つ優美に煌びやかに演ずる業である。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、駿府の武将達は江戸に移り住んだ。
幕府の政策参勤交代により、江戸の町は全国から武将が集まり、全流派の集合体となった。刀匠界に於いても「我こそは・・・」と名乗る優雅な戦いから、鉄砲の玉の速さをも払い退ける、丈夫で速く抜ける刀の研究が思考錯誤され、新刀が生まれた。
江戸の町は関が原で城を失った侍や、外様大名までが江戸に住み、急に人口が増し、無秩序・無防備状態となり、いたる所で辻斬りがはやった。この事態に対応するには、業の研究が必要であると痛感した。時、同じくして唐の武人陳ゲンピンの唐の拳法を習得した氏心は、当流の業に組み入れるべく、業の開発を試みた。
関口流抜刀術の11本は殿中居合なので座り業ですが、立会い抜刀12本は横抜き、上抜き、下抜き、後抜き、回り抜き、水平抜き、後突抜き、前突抜き、水月突き
落下抜き、伏せ抜きと有る。
家光の時代は立会試合が多かったので、他流の業に対して抜刀(刀の抜き方)を巧みに披露した。この頃江戸城下を歩くと、いきなり辻斬りに合うので之に即応できる業、
居合抜き(居合わせたら即座に抜く)方法を研究し始めた。早く刀を抜くための術且つ如何なる地的条件にも対応出来る業、即ち抜刀術(ばっとうじゅつ)である。
関口氏業はこれらを総合して「関口流抜刀術」(せきぐちりゅうばっとうじゅつ)と称した。
その後300年の時を経て、昭和9年皇太子殿下御誕生奉祝昭和天覧試合開催につき全国から名剣士達が参加した。 この時熊本の青木規矩男、紀州の関口萬平、駿府の関口将、東京の関口流剣士一同の交流がなされ、関口流の業の検討、絵図面等を研究し現在の業に統一された。

この天覧試合頃から武道は益々盛んになり、武士道精神の高揚が高まった。
「心正則剣正 身直則剣直」の額を道場に掲げて、青少年の[直]なる心の育成をした。
関口流抜刀術の一本目の業名《抜打先之先身金之事》身の金とは我が身に対して金尺の如く[直]であれと言う事です。

師曰く関口流抜刀術を学ばんとするものは、心を正し直なる精神を培う事肝心なり。
青木規矩男・東京自宅道場 亀谷 鎮・台湾中学 青木規矩男肉筆書