関口流抜刀術の師 陳元贇 トップページ目次に戻る
 陳元贇は、中華民国帰化人。出身地は大明国浙江省杭州に万歴十五年、{我が天正十五年(1587年)}に生まれた。
最初に我国に来たのは、元和五年(1619年)即ち明の天啓元年に豪商の護衛として渡日した。

亀谷鎮の口伝によれば、明国使節団とそれに伴う商人の護衛武官(護衛と通訳)として元和4年頃、二代将軍秀忠に謁見を申し出たが、なかなかお許しがでなかった。
秀忠にとっても、元和元年5月に大阪夏の陣、元和2年4月家康没と多忙な時期でもあった。 一行は尾張の殿様に世話になりつつ、商人達は尾張で商取引をしていると、江戸の秀忠将軍より謁見が許された。

三年後の元和七年(1621年)板倉伊賀守の役宅で会見の際、言語が通じない為に林羅山と筆談したと言われている。
つまり、元和五年の頃日本に帰化した唐人が、和人に擬装して支那沿岸に出没し、日本刀を振り回し、支那の商船を襲ってこれを奪い、商人の服装となって返って来た。此の和冦の被害を蒙った福建の商人からの訴えにより、逝江省の船舶司へ注進があったので、省の行政を司っている寧波の道長は奉檄使単鳳翔を我国に派遣し、そのことを幕府に詰問してきた。即ち陳元贇は単鳳翔の随員であって京都に於いて板倉伊賀守とその子周防守重宗に会見、役宅で林羅山と相互に言語が通じないので筆談を以って用を弁じた。
その後戸田為春の邸に於いても私的に会見し、単鳳翔は文字は知れども詩の方は出来ないので、陳元贇が代って詩の贈答をしたと云うことが林羅山の詩集に書かれてある。
 ☆奉檄使→ 役所からのふれを告げる役人
 ☆儒学者林羅山→ 徳川家康・秀忠・家光・家綱の四代に渡り将軍の侍講をつとめる
 ☆侍講→ 天子や皇太子に講義をすること又その役
   ☆儒学→  孔子を学祖とする学派の教え。修己と治人に力を尽くす事によって、人類の幸福、世界平和の実現を目的とする。漢の武帝の時国教とされ、以後清の代まで支配階層の指導理念となった

陳元贇・氏心に拳法を伝う
 支邦の使節一行は帰国したが、陳元贇は日本に滞在して各地に周遊したらしく、元和七年より四年後の寛永二年から同四年まで、江戸芝飯倉西久保に在る国昌寺に滞在した事が、同寺の旧記録に伝えられている。曰く「大明国之僧陳元贇寛永二乙丑年四月上旬国昌寺に入来、同四丁卯名月(九月)十六日に被至出立候、右逗留中長州辺乃浪人三浦与治右衛門、磯貝次郎右衛門、福野七郎右衛門、この三人に柔術と申物を被伝候也」とあって、陳元贇が柔術への交渉をもつ記録としては、最も確実性があり、又最初のものと云って差し支えないであろう。
 陳元贇が元和七年最初に渡日した時は36歳であって、四年目の寛永二年には39歳であり、41歳の寛永四年まで、前後三年間国昌寺に居住した事が明らかとなる。
三人の浪人は後それぞれ三浦流、磯貝流、福野流を成して、門人に伝えたのであるが、陳元贇より教えられたものは、支那に於ける拳法の一種で摶つ、蹴る、突くの手形であって、現在空手と称し或いは唐手又は支那拳法と呼ばれるところの手法に類したものと考えられる。

 関口流開祖、関口弥六左衛門氏心は、成長して武芸修行に心を居れ、刀槍の業に達したので天下の良師に逢って学び、尚切磋琢磨の功を積み、諸国を遍歴し、肥前の国長崎に至ったところが、唐の拳法を習い、捕手と云う業をなす老人が居た。
この老人は、柔の捕り方を工夫したが、氏心の上達が凡手でないのを見て、工夫の術を氏心に授け学ばしめた。老子の「惟天下至柔駄天下至剛を制す」の語より、水の至りて弱くして能く堅を破るを以って、神心の扱いて二六時中之功夫を成して初めて柔と云う事を教えたものである。
以上は関口流「柔譚」中にある起流の由来書である。之によって見るに、関口氏心が長崎において、柔の捕方を学んだと云う老人が何人で有るか不明であるがその時代から推測すると、寛永十六年柔心四十一歳、陳元贇五十二歳で、陳元贇が再び長崎に渡日した頃に当たり、名前も柔心が明らかにしていないことより察すると、長崎に滞在中の陳元贇その人であると察する。当時彼は明朝滅亡前後であったので、明朝の追及を逃れ、あえて身分を秘して変名を用いた事も考えられる。
柔心の在世の頃、林羅山の「柔説」は寛永十六年の撰であるから、柔心四十一歳に当たり、関口流は、拳法手捕の教えを受けたことになる。 


江戸初期に於ける武芸、文芸、工芸の師
 陳元贇なる人物に関する記録としては、武術関係の伝書の外、徳川幕府の儒官であった林羅山の詩集及び陳元贇の著書として、尾張藩主義直に献じた「老子通考」及び虎林詩文集、昇庵詩話、長門国誌等がある。名古屋において、深草の僧元政と万治二年に始めて相知り、平生互いに唱和するところをしたためたものを:元々唱和集と云い、世にお行われる元政詩文は、我国に於いてこれを奉ずるのは元政を以ってはじまり、元政は初め陳元贇によりて袁中郎のあることを知った。
 陶器に関する文献、陶器考、工芸鏡にも散見し、尾張に於ける瀬戸物は陳元贇より始まり、その製する陶器は安南風に似て雅致に富み、世に元贇焼きと称して大いに珍重せられ、彼の御深井(みふい)窯に関係したのは尾張藩主義直候の時に当たり、更に作詞、木彫りなどすこぶる多芸であって、日本人を妻として寛文十一年六月九日八十五歳名古屋で没した。
その墓は名古屋の建中寺に存し、碑には「大明国武林白山広学陳元贇」とあり、その子源太郎元明は、白翁道元と云う。陳元贇は帰化人となりし日より邦語を巧みに使い、人と語るに唐語を用いなかったと伝えられる。尾張では柔術の先師として知る人は少ないが、陶器発達の恩人として却って知られている。

昭和30年開都五百年大東京祭記念各流武道大会が、☆主催全日本古武道連盟・陳元贇事跡顕彰会 ☆後援・協賛外務省・中華民国駐日本国大使館・日華経済協会・日華商貿易公会 ☆来賓祝辞鳩山内閣総理大臣・外務大臣・中華民国特命全権大使
この武道大会に青木規矩男・青木茂一・松本政広・亀谷鎮が出場した時、明治大学記念館に於いて、講演の時頂いた資料より参考にしました。


陳元贇亡命し帰化人となる
 陳元贇が日本から帰国してまもなく再渡来し、何故そのまま帰化したかを調べると、1619年にサルホ(遼寧省))で太祖は明の大軍を撃破した。そのため明朝はますます形勢不利となり、我が国に救援を再三再四求めるが時の幕府も島原の乱、鎖国令など国内事情もあって結局救援できなかった。        武術書などを調べると、准王常清―変名して帳振甫を奉じて明の遺臣の陳元贇、朱之瑜、曹数也、帳端図等が日本に亡命したと伝えられる。 徳川幕府に於いては、帳振甫、 陳元贇、曹数也を尾張家に、朱之瑜(朱舜水)は光圀の招きで水戸家にそれぞれ預けた。 帳振甫については不明だが皆な文武、武芸等種々の事跡を残して居る。 帳振甫は徳川家から最も優遇されたがすべてを秘匿されたままである。 墓地は名古屋市に在り「公表できません」、初め敷地として五万坪を拝領し、墓標は丘陵の傾斜地に石地蔵が建てられてある。

  平成二十一年十二月八日
  全日本居合道連盟八段
  関口流抜刀術第十六代宗家 静林