遠州新居の手筒花火(諏訪神社奉納煙火)
遠州新居の花火 歴史
日本に火薬が伝わったのは、天文12年(1543)種子島に鉄砲が伝来したときです。
戦国時代、当時は武器として使われていましたが、江戸時代になると戦いもなくなり、火薬の必要性も少なくなりました。
これが、花火として使われるようになったのは、いつからなのかはっきりわかりませんが、記録として残っているのは、
『宮中秘策』で「慶長18年(1613)8月、徳川家康が駿府(現在の静岡市)で花火を見物した」と記述があるそうです。
このとき見た花火は「立花火」と言い、節を抜いた竹筒に火薬をつめ、噴き出すもので、手筒花火の原型と思われます。

慶長5年(1600)徳川家康により設置された新居関所(今切関所)は、元禄15年(1702)江戸幕府の管理から、三河吉田藩(現在の愛知県豊橋市)の管理に移りました。この為、吉田藩内の神社で行われていた手筒花火が新居に伝えられ、諏訪神社の祭礼で行われるようになったと思慮されます。

新居の手筒花火がいつから始まったのかわかりませんが、初めて記録として登場するのは享保10年(1725)で、当時新居関所を管理していた三河吉田藩の藩主、松平信祝(のぶとき)の記した『座右記抄』に、「新居諏訪大明神之祭礼、来廿六日之花火、翌日御輿渡之儀」と記されているそうです。
このことから新居で手筒花火が始まったのは、1702〜1725年間と思われます。

この頃は奉納花火としてでなく、興業花火として新居町奉行所に許可を得て行っていましたが、元文5年(1740)からは奉納花火として行われ、以後、氏子達により運営されるようになり、現在まで約300年間、古式にのっとり、毎年7月下旬の金、土曜日に行われております。

その中でも「猿田彦」と呼ばれる花火は実に勇壮で、男たちが一同に次から次へと花火を抱え、火の粉が降りそそぐ中を乱舞します。

この時、演奏される太鼓とホラ貝のリズムは腹の底にまで響き、花火野郎の力を引き出します。
このお囃子はその昔、武田信玄が出陣の時、太鼓とホラ貝で将兵の士気を高めたものを模したものと言われています。

祭りの夜、二晩で2000本以上も出される手筒花火に、出す人、見る人ともに酔いしれます。

猿田彦 行灯
参考:新居町教育委員会発行 「あらい年中行事」「新居ものがたり」

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