遠州新居の手筒花火(諏訪神社奉納煙火)
遠州新居の花火 歴史
日本に火薬が伝わったのは、天文12年(1543)種子島に鉄砲が伝来したときです。
戦国時代、当時は武器として使われていましたが、江戸時代になると戦いもなくなり、火薬の必要性も少なくなりました。

花火がいつからはじまったのか、はっきりわかりませんが、記録として残っているのは、『駿府政事録』で
1613年8月
「駿府城の徳川家康を、明国の商人がイギリス人国王ジェームス一世の使者ジョン・セーリスと訪ね、駿府城二の丸で明人が花火を立て、これを見物した」
と、あります。
これがわが国における花火の歴史の始まりとされており、花火について信頼できるもっとも古い記録です。

このとき見た花火は「立花火」と言い、節を抜いた竹筒に火薬をつめ点火し、火の粉を吹き出させるもので、手筒花火の原型と思われます。

「遠州新居の手筒花火」がいつから始まったのか、はっきりとした年はわかりませんが、記録として残るのは「湊大明神神輿造立記評林(みなとだいみょうじんみこしぞうりゅうきひょうりん)」で
貞享(1684〜1688)のころ
七月廿六日の夜は諏訪の御社の広庭におゐて花火を揚、神慮いさめ奉る
御代御繁栄に随って民もゆたかに神祭年々賑やかに、提灯も花火も弥増しにて…
と、記されています。
1684〜1688には、既に行われていたことがわかります。

火薬の取り扱いが厳しかった江戸時代、ここ新居宿で火薬をこんなに大量に扱うことができたのは、関所が設置されていたからだと言われています。
毎日緊張の中で関所を守り、渡船業に携わる新居宿の人々の苦労を労うため、藩から許され、エネルギー発散の場を与えられた。
そして、新居独特の笑顔で楽しく自由に出すエネルギッシュな形が作られた。

新居の花火は、古来から続く神事にのっとり、形を変えず受け継がれています。

その中でも「猿田彦」と呼ばれる花火は実に勇壮で、男たちが一同に次から次へと花火を抱え、火の粉が降りそそぐ中を乱舞します。
この時、演奏される太鼓とホラ貝のリズムは腹の底にまで響き、花火野郎の力を引き出します。
このお囃子はその昔、武田信玄が出陣の時、太鼓とホラ貝で将兵の士気を高めたものを模したものと言われています。

祭りの夜、二晩で2000本以上も出される手筒花火に、出す人、見る人ともに酔いしれます。

大筒
参考:新居町教育委員会発行 「あらい年中行事」「新居ものがたり」

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