新居の史跡
史跡地図
新居関所 新居関所(今切関所)は、慶長5年(1600)に設置され、初めは現在「大元屋敷」と呼
ばれている今切口の近くにありましたが、元禄12年(1699)8月15日の津波災害で、関所大門から東側の宿場が流されたので、そこから500メートル西へ行った辺りに移転しました。(「中屋敷」と呼ばれる)
ここも宝永4年(1707)10月4日の大地震で関所、宿場が流され全滅し、関所、宿場全体が現在地に移転しました。
全国で唯一現存する関所建物です。

渡船場跡 宝永4年(1707)10月の地震後、今切れの渡し舟を係留した所。
関所のすぐ横が船着場であった。

新居関所 渡船場跡
新居関所(今切関所) 渡船場跡
旅籠
紀伊国屋
正徳6年(享保元年1716)紀伊国屋の屋号を掲げた、新居宿最大の旅籠。
資料を展示しており、見学できます。

疋田弥五助
本陣跡
天保年間の記録によると建坪百八十八坪で門構え、玄関を備えていた。
対馬、宇和島、今治藩など七十家余りが利用した。また、天保年間には年寄、問屋役を務めた。

飯田武兵衛
本陣跡
天保年間の記録によると建坪百九十六坪で門構え、玄関を備えていた。
小浜、桑名、岸和田藩など約七十家が利用した。

疋田八郎兵衛
本陣跡
天保年間の記録によると建坪百九十三坪で門構え、玄関を備えていた。
吉田藩のほか御三家など約百二十家が利用した。庄屋、年寄役なども務めた。

寄馬跡 街道に要する人足や馬が近隣より寄せ集められた場所。

旅籠 紀伊国屋 寄馬跡
旅籠 紀伊国屋 寄馬跡
一里塚 江戸の日本橋を起点として街道の一里(4キロメートル)毎に土を盛り、その上に樹を植えた道のしるし。
旅行者にとっては馬や駕籠代の計算などの目安となった。
ここには左(東)にエノキ、(西)に松が植えてあった。

棒鼻跡 新居宿の境。一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。
大名行列が関所に向かう時、ここで先頭を棒先で整えたから棒鼻と呼ぶようになったといわれる。

10 風炉の井 建久元年(1190)源頼朝が上洛のおり、橋本宿に宿泊した時にこの水を茶の湯に用いたと伝えられる。
現在は埋まってしまい、底が見える。

一里塚 風炉の井
一里塚 風炉の井
11 浜名橋跡 橋本に流れる浜名川に架けられた長さ170m、幅4mの橋で、最初は貞観4年(862)に造られたそうですが、災害により10数回架け替えられたそうです。
平安時代、幾度と和歌に詠まれ、とても景観の良い場所だったようです。

12 大元屋敷跡 一番最初に関所と宿場があった所。
関所から西へ一本道の街道に城町、中町、西町と作られた。
西町の入り口は曲手(かねんて)になっていた。
これは現在の西町にもみることができる。
関所の北側には広い土地があり、八兵衛、七兵衛と言う兄弟が住んでいた。
現在の、潮干狩り場の八兵衛瀬である。

浜名橋跡 大元屋敷跡
浜名橋跡 大元屋敷跡
13 中屋敷跡 二度目に関所と宿場が移転した所。
元禄12年(1699)8月15日の津波災害により、関所、宿場が流されたので、西へ約500メートル行ったここに引っ越した。
関所が作られた所は小高い丘の上で、伊勢から来た大工の藤十郎がこの丘の下に居住していたため藤十郎山とよばれた。
ここも宝永4年(1707)10月4日の大地震により全滅した為、関所、宿場が現在地に移転した。

14 紅葉寺跡 正式名は本学寺で、建久元年(1190)源頼朝が上洛のおり橋本に宿泊、そのとき寵愛を受けた橋本の長者の娘が後に出家して妙相と名乗り、高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたといわれている。
足利義教が富士歴覧の途中、この寺に立ち寄り、紅葉を称賛したので, 以来, 紅葉寺と呼ばれるようになった。

中屋敷跡 紅葉寺
中屋敷跡 紅葉寺跡
15 立場跡 旅人や人足、駕籠かきなどが休憩した所。

16 明治天皇
御野点所址
明治元年(1868)9月20日、岩倉具視などを従え東京へ行幸のため京都を出発した明治天皇が、10月1日に豊橋から新居へ向う途中に休憩した場所。
明治天皇一行はその夜、新居宿飯田本陣に宿泊し10月13日に東京に到着した。

立場跡 明治天皇御野点所址
立場跡 明治天皇御野点所址
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新居町教育委員会の案内板、 「史跡めぐり」を参考にさせて頂きました。
遠州新居の手筒花火