双竜戦の前身は「下段者大会」で、昭和51年8月の連珠世界誌で
新名称を募集して、木田芳大氏(名古屋市名東区)が応募された
「双竜戦」と決定し、翌年第1期が名人戦と東海選手権戦の前哨戦
として実施されました。

 愛知・岐阜・三重を管轄する東海支部と静岡県支部の両方で予選を
実施して、上位3名ずつ計6名で決勝リーグを行う予定でしたが、旅費
の関係で第1期は静岡から優勝者のみを代表として送り、第2期からは
優勝者同士で決勝3番勝負となりました。

 「全日本連珠十傑戦」が第7期(昭和55年)を最後に中止となった
関係で、青雲戦が名人戦の前哨戦となり、双竜戦は第5期から東海
選手権戦のみの前哨戦となりました。

 第13期からは静岡県支部(浜松)のみで実施していましたが、第20期
に愛知県東郷町の竹内幹夫初段が参戦して全勝優勝を飾りました。

 その年(平成8年)の12月に東海支部が再発足を果たし、翌年の
第21期からは両支部で予選を実施して、優勝者同士の決勝3番勝負が
復活しました。

 東海選手権戦一次予選出場権は、基本的に各予選2位までとなって
いますが、上位2名の棄権により3位が決勝戦に出場した場合など、
3人に与えられる場合もあります。

 第27期(平成15年)から、静岡県予選に県外からの参加を認め、
県予選を兼ねた浜松大会としました。その場合の東海選手権戦一次
予選出場権については、同棋戦のオープン化が絡んでくる問題なの
で、県内の上位者に限定することにしました。従って、県外の方は
昇段を目指しての戦いとなります。

           参考文献 連珠世界 1976年8月号(新名称募集)
                        1976年11月号(名称決定)
                        1977年9月号(第1期報告)
                        1996年10月号(第20期報告)


双竜戦の歩み