抱え込み教育                  周防元水

1.プロローグ 

 今の教育の現場(家庭での教育、地域での教育、学校での教育、企業での教育)に、お困りのこと、悩み事は数多くあります。今の教育の中で陥りやすい悩みとして、子供のわがままの表出にどう対処していいか分からないという事をまず挙げることができると思います。よかれと思ってやってはみたが、うまくいかなったのでこうしてみたが、と思うようにいかず右往左往する姿が様々な現場で見られます。
 子供というのは本来思うように動かないものだと、初手から諦めているのなら誰しも悩みません。動くものだと思っているからこそ、また、動かす必要があるからこそ悩みも尽きない訳です。ここで大事なことは、子供というのは、本来思うように動かないものだという考えに私たちは支配されているかどうかということです。そう言うものだ、そうやって大人になっていくものだと思い込んでいる節はないだろうか。
 子供の人権に関心をお持ちの方は、恐らく何という愚かなことを言うのかとお思いでしょう。
「子供も大人も立派な一人の人間です。一人の人格者として尊重するのが当たり前でしょう。”子供を思うように動かす”とは、なんという言い方をするのですか。動く訳がないでしょう。」
まあ、こんな風に即座に言い返されることでしょう。
 
 もうお判りのことだと思いますが、私は今日の教育を語る時、「子供は思うように動かす必要がある」という基本的立場からスタートを切っています。そして今日的課題の「抱え込み教育」に触れようとしています。が、この基本的立場には多くの異論の有るところです。よって以下の文は、「子供は思うように動かす必要がある」この事に賛同をしてくれる人か、現在子供のわがままで悩んでいる方にのみ読んで頂くことを前提としたいと思います。それ以外の方は読んでも時間の無駄になりますし、またストレスを溜めたりと余り良いことは有りません。読まないことをお勧め致します。
 

2.垣間見る世相 

 こうして予防線を張ってから本題に入ろうとしているのは、恐らく多数の人が自説を大切にして日々実践しているから、それを打ち砕いての中央突破は大変困難だろうと判断したからです。また強烈な批判文が私のところへ舞い込んできても基本のところですれ違っているのでは返事に困ってしまいますから。同じスタートラインに立って頂ける方なら建設的ご批判も頂けるのではないか、そして見えないものも見えてくるのではないかとそう思い限定してお誘い致しました。間違っているところも多々あるとは思います。十分それを承知でお話しするのは、論を進めることで、一歩だけでも、今の社会がジレンマから抜け出せるヒントを探し出せるものと確信しているからです。どうぞ宜しくご一緒をお願い致します。

 「子供は思うように動かす必要がある」とは、今日の子供の有り様を見たとき導かれる結論でもあり、大人の有り様の形を述べたものでもあります。マスメディアから流される種々のニュースから、今日の世相は大まかに浮かび上がってきますが、決して喜ばしい事ばかりではありません。教育に関するものも多く、実に様々な意見がメディア上を飛び交っています。これらにより自らの教育観に課題意識を感じ始めている人が多く出てきていることも報道より読みとれます。両極の意見を比較する形での報道も多く見られ、多方面にわたって価値観の流動化が起こっていることが手に取るように分かります。道徳観の様なものさえ普遍性は無いと感じさせる今日なのです。
 ところが、注意深く報道を読んでいくと、大抵どの論者も詰まるところ、「教育の問題は人の問題」だとの結論に行き着いている事に気付きます。それは過去の過ちであり、過ちのつけを今払っているのだと述べているのです。手の届かない過去の事を指摘して、「問題はここにある」と声高に宣言しつつ悟り切った様に筆を置いているのです。万人が認める「人の問題」に到達しつつも、その先の問題には足を踏み入れようとはしていないのです。「人」の追究ほどやっかいなものはありませんから、現場の親・地域の人々・教師たちに課題の解決を委ねざるを得ないのは当然と考えているのです。
 事態は何ら変わることなく進み続け今日の荒廃は明日の荒廃を引き起こしていくだろうと悲観的にさえなります。私たちはこのパターンをあと何年繰り返して続けていけばよいのでしょう。

3.そらみっせ
 静岡新聞 '03.10.7
「そらみっせ」とは、遠州弁で「だから言ったでしょう。それ見たことか。」という意味を持った、行き詰まって立ち往生した確信犯への冷めた慰め言葉です。この言葉が今の教育の現場には漂っているのです。
「教育の問題は人の問題」と言うユークリッド幾何学的な視野の狭い教育の現場は、ここが表現の自由を約束された土地だ、とばかりに各所で井戸端会議を頻繁に開くのをよく見掛けます。あの時の仕方が良かっただの、これからは我慢させた方が良いだのと目先の事を評しては時間を浪費し思考停止に陥っています。気心知れた仲間が作業の傍ら愚痴をこぼすついでに持説を披露し論じているのですから、それはまるで、自分の作り上げた土俵の中で自ら化粧まわしを締めて相撲を取っているかの様であり、滑稽でさえあります。がっぷり四つの力相撲を想像して自分自身で上気し、いよいよ至福のとてもよい気分となっているのですから。
 教育の現場に必要な創造とは、いつもシンプルな瞬間に為され生まれるものなのです。煩雑な人々の雑踏の心の中では物事は生まれ得ないのです。雑踏の中で生まれた誰でも考えつくような事は、誰からも評価されることなく終わるのは至極当然な事なのです。一挙手一投足にやんやの応援を期待して興業を開始した筈なのに、観客席からは何の反応もないのは当たり前なのです。見てくれる人さえまばらとなってやがて誰の関心も買わない一人舞台となってしまします。「教育の問題は人の問題」と誤解しているこのような社会組織は、〜会だ、〜体験だ、と流行言葉を口にして何かと人を動員しては新しい事を実行し、結局のところ「そらみっせ」で終わらせてしまっているのです。
 何が問題だと言うのでしょう。当の社会組織自身はその原因を探しあぐねそして疲れ果てています。諦め顔でのらりくらりと、
「やれる事はやったのだから後はもう仕方ない。」
何というおぞましい姿でしょう。堂々の論戦が観客を惹き付ける筈ではなかったのでしょうか。いや、失敗にさえ気付いていないのかも知れません。自分の作り上げた土俵の中でいくら熱戦を繰り広げたとしても、所詮それは自分の世界の自己満足に過ぎません。傍から見て感動を呼び起こす何かがそこになければ、それはただの紙相撲で終わってしまいます。自分の興味の持てる範囲でだけ土俵を叩き躍る力士の姿を見るという、誠に残念な社会現象が起こって
それが拡大再生産されていく中で教育現場はますます混迷し混乱していくのです。
 平成14年度に導入されたゆとり教育は、平成15年度にして学力低下の不安から早くも学力重視の方向に軌道修正されました。準法律的拘束力を持って教育内容を全国一律で均質な教育を保障するものであったこの指導要領は、2年間かけた準備・試行期間をもってその内容の不備を顕わにしました。実施1年でその根本の理論的基礎は崩れ、多方面よりその再構築を求められた結果なのです。皮肉を込めて言うならば、教育の難しさを自ら証明して見せたのはとても価値あることでした。しかし、藻掻けば藻掻くほどその根本の理論的基礎は緩くなって、人々の心はやがて離れ、
「そらみっせ」
と、冷ややかな反応が社会を覆っていくことになります。
 

4.犬勢症候群

 科学技術の高度に発達したこの世に於いて機械や物に対する熱意は高まる一方ではありますが、生身の人に対する思い入れは徐々に後退し美醜八欲の人間関係論などはいらないとばかりに単一理詰めの組織論が台頭する始末、これでは今日の人間社会は冷却し疲弊し始めていると言わざるを得ません。500万年という長い人類の歴史の中で培ってきた知恵が、わずか、ここ10年程の情報化社会の中で見失われつつある、そう思えてなりません。
 時代の要請は、崩れてきた人間社会の再構築にあります。崩れ薄れていく自分の所属集団の中で、人は動物としての集団維持の本能を目立たせ始めています。社会集団の衰退が、人間の本能としての群れ作りを促進し組織化を促しています。知らず知らずの内に序列化を始めるのです。ルールが無ければ作らざるを得ないのと同じです。しきたりや掟があればそれに従いもするのですが、そういったものが無いのであれば自然に作り始めざるを得ないのです。
 これでもかと羽目を外している様に見える若者でも、実は、社会基準としての見守り・見届け・励ましが為されているかを敏感に肌で感じ、又それを確認するための様々な試しをしていることが多いのです。この見守り・見届け・励ましというものが無ければ、若者は何処までもそれを求め、見付からなければ内なる成長意欲が外へと向かいます。自分が見守り・見届け・励ましを実行しようとし、やがては攻守ところを変え、未熟な若者が成熟した大人を顎で使うという誠に具合の悪い状態が出現してしまうのです。ご主人様の如くに振る舞い、大人をも引きずっていってしまうこの状態は、よく街角で見掛けられる躾の甘い犬がご主人を引きずっていくあの嘆かわしい姿と同じなのです。
「人は生まれながらにして自由・平等だ」とルソーは言います。確かにこの言葉は明治維新以後の自由民権運動を引っ張って日本を近代国家に押し上げる事に役に立ちました。しかし、私たちは余りにも断片的な知識を頭に入れ過ぎてしまいました。このルソーの平等観が実は曲者で長い時を経て日本にまで辿り着くと、社会の隅々にまで影響を及ぼすようになって、生き物として当然在るべき上下の位置付けさえも今では否定することとなって、今の世を大いに混乱させる所以となっているのです。生き物は本来、生き抜くために備わった役割分担・序列化を本能として身に付けています。人も動物と同じで、序列化する事を無意識に指向しているものと思われます。適度なコントロールの下では、人は言葉では言い表せない安堵感が生まれるのもこの為です。羽目を外し自分の位置付けを把握出来なくなっている時には尚更、安堵する場を求めて適度なコントロール下に入ることを望んでいるものなのです。
 犬も猫も人に対して自分が保護者だと本能的に主張しようとする場面があります。犬が危険を知らせるために吠えたり猫が捕らえたネズミを持ち帰ったりするのがこれに当たると言われています。こんな時に適切なコントロールをしてあげれば自分の置かれた立場を知らせ、その行動をよい方向に更に強化させることが出来るのです。しかし、その機会を逃してしまうとすると、事ある毎に保護者としての行動を起こさせてしまいます。”自分の守るべき者”に対して危険を知らせる為に僅かな事にでも大きく反応し、自分の興味に応じて人を引きずり回す事が起こってしまうのです。
 人も生き物としての本能が各所に自然と出ている訳ですが、それに気付かず何でも良しとしていると、理性よりも動物としての本能が勝ってしまうという、誠に人間にとって不都合な事態へと発展してしまうことになります。言うならば人間版犬勢症候群へと発展してしまうのです。こうならないためにも、私たちは子供の好ましくない行動を見逃さないよう心掛けていかなければなりません。例えば、立場を越えた行動を起こしたとします。その様な行動に対して厳として応じない事も大事となってきます。泣き叫ぼうが相手をせず見守り続けてやるのです。やがて疲れて”仲間を保護しよう”という本能的行動は収まります。動物としての行動が出た時にそれを押さえ込むには、役割分担・序列化を悟らせどうにもならない事を知らしめることが大事となります。要するにわがまま一杯の行動が出た時には行動制限をするのです。当然、「抵抗」が起こりますがこれは致し方ない事だと見ていきます。この時、当然起こるであろう「抵抗」という面倒な事態を避けるために適当に相手の望む事をやってあげてしまうとすると、次に同じ場面に出会した時には更なるエスカレートが待っている事になってしまいます。今日の社会通念・社会常識の崩壊はこの様な間違った思いやりからスタートしているのです。見守りの仕方は様々でしょうが、一般的にはルールで縛ることが良いでしょう。ルールだから仕方ない、「抵抗」が起こっている状況ではこの説明で十分なのです。従えなければその社会から離れたところで生活せざるを得ないのですから。気を付けなくてはいけないのは、その所属組織の中に別枠の救済機関を作ってしまうことです。モラルハザードを起こしてしまい、生き物として当然備わるべき上下の位置付けは崩壊してしまいます。これではどうにもなりません。A氏が社会ルールを教えていながら、同じA氏がルールを破り優しく教えてしまっているのでは、立ち直り掛けたその子供は立ち直るどころか更に悪化の方向へと向いていってしまうのです。

5.宗教教育

 言うまでもなく宗教教育は公教育では取り扱えません。しかし、だからといって私たちは、地域の伝統文化となっている宗教行事への子供の参加を取りやめたり手控えていると言う事例は聞いたことがありません。無関心を装うこともありません。むしろ積極的に参加をさせているのが実情だろうと思います。祭りの神事等に込められた、長年に渡って築かれた人の知恵を感じ取ってそれを次の世代にまで大切に引き継ぎたいそう思っているからに他ありません。地域社会ならではの教育がそこには在るとそう誰しも経験から感じているからなのでしょう。

  大脳でものを考えるのが人の人たる所以です。何事に於いても大脳で言葉に換えて自分なりに咀嚼し自分なりに理解していきます。しかし、人の用いる言葉は誠に回りくどく間接的です。複雑化した社会の中ではそれらを取捨選択・要約していかざるを得ず、この膨大な作業が人が生き物であることを忘れ去らせる源ともなっています。生き物は本来無用や無駄といったものとは縁のない合理性の上に成り立っています。生き物である人は、普遍性の失われた今日の社会に於いては、言葉から離れも っと端的に、脳幹部を直接的に刺激する体験というものを積み重ねていくことが求められていると言えるのでしょう。
 自然を知れば知る程その神秘さに魅せられることは誰しも体験し受け入れられるところですから、そこに合理性とは縁の薄い畏敬の念というものが生じてくるのも至極当然なことです。そこにしか人が生き物としての魂を癒す場を見出せないことは万人の知るところです。生き物としての有り様は、自然の中の一生物という現実を思い知ることから始まって、それはやがて人としての謙虚さに繋がっていきます。

 こう書くと誤解されそうなのですが、訳の分からないものや理解できないもの等への粗末な扱いが今日の教育の荒廃を招いたのではないでしょうか。言葉を換えるのならば、人智を超えた宗教の世界を教育は余りにも敬遠し過ぎたのではないでしょうか。宗教と言うと何やら胡散臭い感がするのも分かります。しかし、高度に発達した時代だからこそ宗教に頼らざるを得ない事も出てくるのです。科学技術が高度になればなる程、人間の英知の及ばない世界を相手にする様になります。そして更なる向上を願うのならば、必然的に宇宙観を語る宗教が必要とされる訳です。発達した社会の中では宗教が必ず必要とされる所以なのです。理屈を教える事は過去の事となって、これからの社会では、人智の及ばない様な畏敬の念といった何だかよく分からないが、動物としての人間の本能に響いてくる”神”というものが大切になってくると思うのです。
 宗教ほど曖昧で危険なものはないと思っている方が多いのではないかと思います。しかし、無宗教ほど危険なものもないという事もまた頭の隅に入れておかなくてはなりません。”神”の領域を侵す不貞の輩が闊歩するそんな時代となってしまったことは誰しもが認めるところです。宗教教育をもはや避けて通る訳にはいきません。真面目に論じなくてはならない時代に今は入ってきてしまっているのです。ただ、既成の宗教を想定しての宗教観を論ずるのは多くの人にとって誠に重たい題材となってしまいます。出来れば避けて通りたいと無関心を装ってしまうのも至極当然であって理解し共感さえできます。宗教を論する事は容易な事ではありませんから。現にこうして宗教のさわり部分だけで論を納めようとしている私も、これまたしかりなんですから。
 まあ簡単に考えていくしか方法はないのでしょう。宗教心は他人から与えられるものではなく、自身の心の中に忽然と現れる自然的な感情だと、簡単におさえておけばよい事だと思います。これからはおそらく、万人が万人の宗教心を持つ新たな時代となっていきます。宗教心は自身の感性であって、人が生き物としての有り様を取り戻したその瞬間に現れるものだと考えれば、現代人の宗教心に対する思いも心の襞にすとんと落ちて、「何だこんな事だったのか」と、呪縛から逃れられた様に至極理解し易くなっていく筈なのですから。
 人としての謙虚さは自然に対する畏敬の念から始まる宗教心から生じて、今日それは日々の生活の片隅にある何気ない事柄を顧みるという”宗教意識”に根付いて花開いていくものだと私たちは理解してゆけばよいものなのです。

6.イニシエイション(通過儀礼)

 日々の生活の片隅にある何気ない事柄を捉える能力は、かつて社会の中では大変重要視されていました。茸はどの色のどういった形のものが食材となるのか、どんな条件下で筍が顔を出すのか等、気になって調べたくなるというのは、生活していくのになくてはならない能力だったのです。ところが現在ではこういった能力は顧みられていないどころか必要とさえ思われていないのです。複雑化していく社会と単純化されていく生活は、身の回りの有り様を捉える人の能力を極端に低下させてきている訳です。
 自分の関わる世界を捉える能力が不足している様では、自分が生かされていることからくる人への思いが湧いてくる筈もありません。人は独り善がりの思い上がった人間へと成長していくより他ないのです。子供の様な大人が大量生産されていく羽目になるのですからこの世の混乱は推して知るべしです。
 自然の中の一生物という現実を思い知ることから始まって、大人と子供の明確な境の存在が人をして謙虚にさせてきたことは誰しも否定できない事実なのであって、謙虚さの背後には先人への憧れと畏敬の念があった言わざるを得ません。もう少し突き詰めて言えば人の手の届かない別次元の神の存在をこの科学技術の進んだ世の中に於いてでさえきちんと確認する必要があると言わざるを得ません。自然に対する畏敬の念から始まる宗教心をもう少し目に見える形で表層へと押し上げてもいいのではないかと思います。年に一度の村祭りには小さな一生物としての人を際立たせる超自然の神の演出がどうしても必要なのだという所以ともなるのです。神の演出には何も特別な教義が必要なのではなく、先人への思い、手の届かない神への思い、ただそれだけを形にすればその目的を達成するに十分な筈です。今日の社会に於いては、こうした畏敬の念を抱く機会、別の言い方をするのならば神の懐に入る機会の少なさがバランスを欠いた独り善がりの人を増殖させているのに違いありません。謙虚さの証としての神の下へと近づく儀式等を前向きに見直すことが、混乱の度を増していくだろう今日、私たちに求められているのだと思えます。 
 釈迦の手の中で踊る孫悟空の如くに私たちの行動は鳥瞰され・見守り・見届けられながら一つ一つ許され、階段を一歩一歩登っていくように私たちは成長していくものなのです。やがてその憧れの幾つかが実現され、かつて自分が拝んだ星と同じように光り輝きそして人々を導いていくとそう思います。役回り等、イニシエイションが村の掟に残っているのを観るに付け、真に先人の高い能力と秘められた思いの凝縮された形をそこに観る思いがします。

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